【第32話】 エドガーの再訪
エドガー・ヴァレントが再び灰白亭へ現れたのは、それから四日後の夕方だった。
今度は昼ではない。
夜の客が入り始める直前の時間だった。
その時間を選んだ時点で、前より意図があるのが分かる。
ミアは、扉が開いた瞬間にそれに気づいた。
「……いらっしゃいませ」
声は自然に出た。
でも背筋は少しだけ伸びていた。
エドガーは前と同じ外套だった。
同じ靴、同じ無駄のない立ち姿。
だが今日は、視線が前より店の奥まで届いている。
食堂の卓。
鍋の位置。
壁の灯り。
二階へ続く階段。
前回は“見るために来た”目だった。
今日は、
“確かめるために来た”目だった。
「食事は可能ですか」
彼が言う。
「はい」
ミアが答える。
「軽いものでも?」
「ええ」
恒一は厨房から、そのやり取りを見ていた。
前より、少しだけ空気が重い。
敵意ではない。
ただ、宿の外の人間が、もう一歩踏み込んできた時の重さだ。
「今日は何出す?」
ミアが小声で聞く。
「苦香根」
恒一が答える。
「また?」
「この人には、それがいい」
火を入れる。
苦香根は、今では灰白亭の夜皿としてかなり形になっていた。
鳥脂を軽く。
塩は早め。
最後に香味湯をひと垂らし。
前よりも、迷いがない。
だからこそ、外からの目にも耐えられる。
ミアはその様子を横目で見ながら、水を運んだ。
エドガーは食堂を静かに見ていた。
磨かれた卓。
黒板の位置。
帳場の上の帳面。
階段の灯り。
角部屋へ続く二階の気配。
その視線は、料理人のものではない。
だが、料理を含めて宿を見ている。
「……前回より整っていますね」
エドガーが言った。
「そうか」
恒一が答える。
「市場の方も、少し動いています」
ミアの手が止まる。
「市場」
「ええ」
エドガーは皿を見る前に、先に言葉を置いた。
「苦香根の台で、前より人が立ち止まるようになった」
「……」
「端肉や豆の扱い方にも、少しずつ影響が出ています」
「……」
「灰白亭が市場の中で“食材の出口を作る宿”として見られ始めている」
それは、言われなくても感じていた変化だった。
でも、領主家の側から同じことを言われると重さが違う。
「問題ですか」
ミアが聞く。
エドガーは首を横に振った。
「現時点では」
「……」
「むしろ、街としては悪いことではありません」
「どうして」
ミアが聞く。
「捨て値で流れていたものに価値が出るのは、市場にとっても利益です」
「……」
「ただし、どこまで行くのかは見ます」
その言い方は、前回より一段深かった。
前は“面白い火”を見に来た。
今は、その火がどこまで広がるつもりなのかを測りに来ている。
「この宿は、何を目指しているのですか」
エドガーが言った。
前回と似た問いだ。
でも、今度は少し違う。
宿の中だけの話ではなく、
市場の動きまで見た上で聞かれている。
ミアは一瞬だけ口を閉じた。
それから、迷わず答える。
「宿を立て直すことです」
「それは見れば分かります」
エドガーが言う。
「どう立て直すのか、です」
恒一がそこで口を開いた。
「朝に人を整えて、夜に人を休ませる」
「……」
「その宿として残す」
エドガーは頷いた。
そこまでは前回と同じだ。
「では、そのために市場へ関わるのですか」
彼は続けた。
ミアが、今度ははっきりと答えた。
「たぶん、関わらないと残せない」
食堂が静かになる。
この答えは、前回よりも少し進んでいた。
市場は遠い外側ではない。
朝の鍋のすぐ先にある。
黒麦も、豆も、端肉も、苦香根も。
全部が市場の中にあるなら、宿だけ閉じていても守れない。
「……なるほど」
エドガーが言う。
「前回より、答えが具体的になりましたね」
「前より、宿が少し生きてるので」
ミアが言った。
それは短い言葉だったが、かなりよかった。
生きている宿だから、次を考えられる。
死にかけの宿には、そこまでの余裕はない。
エドガーは苦香根をひと口食べる。
少しだけ間を置いてから言った。
「前回より、残り方が深い」
「残り方?」
恒一が聞く。
「味です」
エドガーが答える。
「前は、面白い皿でした」
「……」
「今日は、この街で出す意味のある皿になっている」
その評価は、旅人のものとも、市場のものとも違った。
制度の側から見た、静かな承認に近かった。
「褒めてます?」
ミアが聞く。
「半分」
エドガーが答える。
「残り半分は、まだ危ういという意味です」
ミアが少しだけ眉を寄せる。
「危うい?」
「ええ」
エドガーは淡々と言う。
「一軒の宿で背負える範囲を超え始めると、良いものでも崩れます」
「……」
「市場の流れを少し動かし始めた今、灰白亭は“やれること”より“やらないこと”を決める段階に入っています」
その言葉は、かなり重かった。
全部を変えるのは無理だ。
一軒の宿では背負えない。
でも何かは残したい。
それが今の灰白亭の立ち位置だった。
「……」
ミアは少しだけ視線を落とした。
分かっている。
でも、外からそれを言われるとまた違う。
エドガーは皿を置いて、静かに言った。
「宿は、一軒では街を変えられません」
ミアが顔を上げる。
「知ってます」
彼女ははっきり答えた。
「全部は無理」
「……」
「でも」
ミアは帳場の方をちらりと見た。
「一軒目にはなれる」
「……」
「出口を一つ増やす宿にはなれる」
エドガーは、そこで初めて少しだけ表情を緩めた。
「悪くない答えです」
それはかなり珍しい種類の褒め言葉だった。
完全な承認ではない。
でも、前より一歩進んだ相手として見ているのは分かる。
「では、また」
エドガーが立ち上がる。
「もうですか」
ミアが聞く。
「ええ」
彼は答える。
「今日は十分見ました」
「……」
「次に来る時は」
エドガーは静かに言った。
「宿の中だけの話では済まないでしょう」
その言葉を残して、エドガーは扉の方へ向かう。
「……ねえ」
ミアが思わず呼び止めた。
エドガーが振り返る。
「何ですか」
「あなた」
ミアは少し迷ってから言う。
「止めに来てるわけじゃないのね」
エドガーは少しだけ考えた。
「まだ」
それだけ答えた。
扉が閉まる。
しばらく、食堂には何もなかった。
やがてミアが、小さく息を吐く。
「……圧」
「そうだな」
恒一が答える。
「でも、前よりちゃんと話してた」
「そうだな」
「測られてる感じ」
「うん」
ミアは帳面を引き寄せた。
そこへ、短く書く。
全部は背負わない
でも、出口は増やす
書き終えてから、自分でも少しだけ目を細める。
「……これ」
ミアが言う。
「かなり今っぽい」
「いいな」
恒一が言う。
「ほんと?」
「かなり」
「今日それ多いわね」
「今日は多い日だ」
食堂にはまだ、苦香根の少し苦くて甘い匂いが残っていた。
旅人が覚える皿。
市場が見返す皿。
領主家が意味を測る皿。
灰白亭の鍋は、思っていたより遠くへ届き始めている。
でも、その分だけ、背負うものを選ばないといけない。
そのことを二人ともようやく正面から見始めていた。




