【第31話】 サーシャの置き土産
その朝、灰白亭の食堂には珍しく、少しだけ長い静けさがあった。
朝食の客はいつも通り来て、いつも通り帰った。
ドノヴァンとペトルは早めに席を立ち、ガドは「今日は市場の顔ぶれがまた増えてたぞ」と余計な報告だけして去った。リナも壺を二つ抱えて、足早に通りへ戻っていく。
鍋は空。
食堂は、次の動きを待つ静けさに戻っていた。
「……今日は妙に静かね」
ミアが言う。
「朝がちゃんと終わったからだろ」
恒一が答える。
「前は終わったあとも、なんかバタバタしてた」
「今は順番があるからな」
その言葉に、ミアは少しだけ頷いた。
前の灰白亭は、全部がその場しのぎだった。
今は違う。
鍋の順番も、客の流れも、少しずつだが形になってきている。
その時、二階から足音がした。
サーシャだった。
今日は、完全に出発の日の顔をしている。
外套は整えられ、肩の擦れた革鞄もきっちり留められている。腰の巻物筒も、いつもの位置に収まっていた。
ミアはその姿を見て、少しだけ口を結ぶ。
「……行くの?」
そう聞いてから、自分でも少し子どもっぽい聞き方だと思ったのか、すぐに言い直した。
「今日は出立ですか」
「ええ」
サーシャは頷いた。
「次の街へ」
ミアも頷いた。
止めるつもりはない。
旅人は、行くものだ。
でも、少しだけ寂しいのも本当だった。
「朝ごはんは?」
ミアが聞く。
「もちろん」
サーシャは席へ着いた。
「それを食べに下りてきました」
恒一は何も言わずに鍋へ火を入れた。
今日の粥はいつもと同じだ。
黒麦、豆、鳥脂、香味菜。
でも、旅立つ日の客へ出す一杯は、毎回少しだけ意味が違う。
戻る客へではなく、持っていく客へ出す飯だからだ。
「……やっぱり、いいですね」
サーシャがひと口目のあとで言った。
「何が」
ミアが聞く。
「この宿の朝」
サーシャは答える。
「前に来た時より、ずっと宿らしくなった」
「……」
「朝食そのものもそうです。でも、それだけじゃない」
「うん」
「部屋から降りてきて、席へ着くまでが、もう“宿の朝”になっている」
ミアは少しだけ目を伏せた。
それは何度聞いても嬉しい言葉だった。
朝食がうまいだけではなく、宿として朝が成立していると言われるのは、この宿にとってかなり大きい。
「ねえ」
ミアが言う。
「何ですか」
「別の街って、どうなんですか」
サーシャは少しだけ木匙を止めた。
「どう、とは?」
「食べ方」
ミアは言う。
「宿とか、市場とか」
「……」
「うちみたいに、売れ残りを皿にする宿って他にもあるのかなって」
サーシャは、すぐには答えなかった。
その間に、恒一は器を拭く手を少しだけ止める。
その答えは、たぶん今の灰白亭にとってかなり大事なものになる気がした。
「あります」
やがてサーシャは言った。
「でも、多くはありません」
「……」
「どの街も、安いものはだいたい同じです」
「濃い味、粉、油」
恒一が言う。
「ええ」
サーシャは頷く。
「腹は膨れる。文句も出にくい」
「……」
「でも、どの街にもたまにあるんです」
「何が」
ミアが聞く。
「その土地の食材をちゃんと“覚える皿”にしている宿が」
「……」
その言葉は、静かに灰白亭の空気へ落ちた。
苦香根の皿。
朝の粥。
今の灰白亭がやり始めていることは、特別な奇跡ではなく、ちゃんと他の街にも存在する“残る宿”のやり方なのだ。
「この街だけじゃないのね」
ミアが言う。
「ええ」
サーシャは答える。
「ただ、この街はまだ、その数が少ない」
「……」
「だから、灰白亭は目立ち始めている」
目立つ。
見つかる。
面白くない顔ぶれが増える。
それは怖い。
でも同時に、今の灰白亭がちゃんと意味を持ち始めた証拠でもある。
「これ」
サーシャが、そこで鞄から小さな紙片を取り出した。
「何ですか」
ミアが受け取る。
紙には、簡単な地図が描かれていた。
この街から三日ほど南。
小さな港町らしい印。
その端に、いくつかの丸と線。
「そこに何が?」
恒一が聞く。
「干し魚の市場があります」
サーシャが言う。
「ただし、普通の商人はあまり好みません」
「なんで」
ミアが聞く。
「扱いが面倒だからです」
サーシャは落ち着いて答えた。
「臭いが強い。塩の加減も難しい。安いけれど、使い方を間違えると全部が魚臭くなる」
「……」
「でも、うまく使えればかなり残る」
恒一とミアが、同時に顔を見合わせる。
これは偶然ではない。
完全に、灰白亭向けの情報だった。
「置き土産です」
サーシャが言う。
「置き土産」
ミアが繰り返す。
「ええ。灰白亭は、そういう“面倒なものの出口”を探すのが向いていそうなので」
ミアは紙片を見た。
港町。
干し魚。
扱いにくい食材。
新しい市場。
目の前の宿だけでなく、その外にまだ眠っているものがある。
そう思うと少しだけ、世界が広く見えた。
「……ねえ」
ミアが言う。
「何ですか」
「また来る?」
ミアは少し言い直した。
「この街に」
サーシャはすぐに頷いた。
「来ます」
「ほんとに?」
「ええ」
「灰白亭に?」
「灰白亭に」
サーシャは言った。
「次に来た時、ここがどうなっているか見たいので」
その言葉は、旅人らしいのに、どこか少しだけ客らしかった。
ただ通るだけじゃない。
戻る前提の言葉だった。
ミアは少しだけ笑った。
「じゃあ、その時までにもう少し整えとく」
「楽しみにしています」
食事が終わる。
サーシャは鞄を肩にかけ、巻物筒の位置を直す。
出立の動きだ。
でも、灰白亭へ向ける目は最初の日よりずっとやわらかい。
「……ねえ」
ミアが最後に聞いた。
「何ですか」
「この宿、前よりまし?」
サーシャは、少しだけ考えた。
「前より、宿です」
やがてそう言った。
「それで十分です」
「……」
「最初から名宿になる宿は、ほとんどありません」
「そうなの?」
「ええ。たいていは、こうやって少しずつ“戻る”」
「……」
「だから、急がなくていい」
その言葉は、宿の娘に向けるにはちょうどいい重さだった。
重すぎず、軽すぎず。
前を見られるくらいの重さ。
「じゃあ」
サーシャが言う。
「うん」
「また泊まりに来ます」
それだけ言って、彼女は扉を開けた。
外の空気が少しだけ流れ込む。
朝でも昼でもない、出立の時間の空気だ。
扉が閉まったあと、しばらく食堂には何もなかった。
やがてミアが、手の中の紙片を見下ろしたまま言う。
「……ねえ」
「何だ」
恒一が答える。
「この人、かなり分かってたね」
「うん」
「宿のことも」
「うん」
「食材のことも」
「うん」
「あと、私がどういう言葉で受け取るかまで」
恒一は少しだけ笑った。
「旅人だからな」
「便利な言葉ね」
ミアは小さく言った。
「でも、嫌いじゃない」
彼女は紙片を帳面の間に挟んだ。
今日の数字や仕入れ値と同じように、
未来へ回す情報として。
灰白亭の湯気は、この街の中だけではなく、少しずつ外の街へも繋がり始めている。
そして外の街からも、少しだけ返事が来た。




