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異世界で潰れかけの宿を任された俺、 朝粥と売れ残り食材で街の食卓を変えていく 〜はずれスキル『食材帳』の料理人〜  作者: 青い海の人


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【第34話】 湯気の届く範囲

その夜、灰白亭の食堂には、客が引いたあとも灯りが残っていた。


 鍋は空。

 器も拭き終わり、帳場の上には銀貨と銅貨が小さく積まれている。


 外は静かだ。

 市場のざわめきも、屋台の声も、もう遠い。


 でも、ミアの頭の中だけがまだ少し騒がしかった。


 今日の市場で見たもの。

 ベルノの言葉。

 一軒の宿の限界。


 全部がまだ、胸の奥で少しずつ動いている。


「……ねえ」

 ミアが言った。


「何だ」

 厨房から恒一が答える。


 彼は苦香根を軽く洗っていた。

 いつもなら夜の終わりにやる、明日のための小さな仕事だ。


「今日さ」

「うん」

「“一軒じゃ全部変えられない”って、ちょっと悔しかった」


 恒一は手を止めなかった。


「そうだろうな」


「悔しいっていうか」

 ミアは帳場の銀貨を指で動かす。

「うすうす分かってたことをちゃんと形にされた感じ」

「……」

「市場は広いし、人は多いし、うちの鍋は小さい」

「うん」

「分かってたのに、どこかで“もっといけるかも”って思ってた」

「うん」


 少しだけ間があく。


 灯りが静かに揺れた。


「でも」

 ミアが言う。

「全部変える必要はないんだよね」


 恒一はそこでようやく顔を上げた。


「どういう意味だ」


 ミアは少し考えてから言葉を選ぶ。


「市場全部を変えるのは無理」

「うん」

「この街の食べ方全部も無理」

「うん」

「でも、灰白亭に来る人が食べるものは変えられる」

「……」

「そこから持ち帰るものも変えられる」

「……」

「旅人が次の街で話す一皿も変えられる」

「……」

「だったら」

 彼女は顔を上げた。

「湯気の届く範囲なら、変えられるんじゃない?」


 その言葉は、かなりよかった。


 全部ではない。

 でも、小さすぎもしない。


 鍋から立つ湯気。

 食堂の中。

 持ち帰りの壺。

 旅人の記憶。

 次の街での会話。


 それは全部、灰白亭の鍋から始まる範囲だ。


「……いいな」

 恒一が言う。


「ほんと?」

 ミアが聞く。


「かなり」


「またそれ」


「でも今のは、本当にいい」


 ミアは少しだけ笑った。


 それから、帳面を開く。

 ここ数日で書き足された言葉の横へ、新しい一行を書く。


 全部は変えない。

 でも、湯気の届く範囲は変える。


 書いてから、自分でも少しだけ見つめる。


「……なんか」

 彼女が言う。

「これ、ちょっとしっくりくる」


「そうだな」

 恒一が頷く。

「無茶じゃない」

「無茶じゃないのが大事」

「うん」

「でも、小さすぎもしない」

「それも大事」


 その時、扉が軽く叩かれた。


 こんな時間に珍しい。


 ミアが開けると、ベルノだった。


「……何」

 ミアが言う。


「客じゃねぇぞ」

 ベルノが言う。

「分かってる」


 彼は中へ入り、柱にもたれた。


「ちょっと顔見に来ただけだ」

「顔?」

「市場で変な顔してたからな」

「そんな顔してた?」

「してた」


 ベルノは食堂を見回した。


 灯り。

 鍋。

 帳場。

 階段。


 そして、厨房の奥でまだ少しだけ湯気を上げる鍋。


「……やっぱりいい匂いするな」

「苦香根?」

 ミアが聞く。


「そう」

「嫌いじゃない?」

「嫌いじゃねぇ」

 ベルノは肩をすくめた。

「ただ、俺の屋台では出さねぇ」


「なんで」

「覚えられすぎる」

「……」

「屋台は一撃でいい。宿は残った方がいい」


 その言葉は、かなり灰白亭の今を言い当てていた。


 ミアは少しだけ黙り、それから言った。


「ねえ」

「なんだ」

「さっきさ」

「うん」

「灰白亭がどこまでやるか、決めた」


「ほう」


 ベルノは少しだけ眉を上げる。


「市場全部を変える気はない」

 ミアが言う。

「……」

「でも」

「でも?」

「湯気の届く範囲は、ちゃんと変える」


 ベルノは少し黙った。


 それから、短く笑う。


「いいじゃねぇか」


「いい?」

「無茶じゃねぇ」

「無茶じゃないの?」

「無茶な宿は、だいたいすぐ潰れる」

「……」

「でも、湯気の届く範囲なら」

 ベルノは鍋を見た。

「意外と広いぞ」


 その言葉は、意外だった。


 ミアも少しだけ目を見開く。


「広い?」

「朝の粥」

「うん」

「夜の苦香根」

「うん」

「それを食った旅人」

「……」

「次の街でそいつがする話」

「……」


 ベルノは指を三本立てた。


「これ、全部“湯気の範囲”だ」


 ミアは、その言葉をしばらく黙って受け止めていた。


 鍋から立つ湯気は、食堂の天井で消えるわけじゃない。

 壺に入って持ち帰られ、

 旅人の腹へ落ち、

 記憶になって、

 次の街で言葉になる。


 そう考えると、たしかに狭くはない。


「……ねえ」

 ミアが言う。

「何だ」

「それ、かなりいいね」


「だろ」

 ベルノが笑う。

「屋台の人間も、たまにはいいこと言う」


「たまにね」

 ミアが返す。


 ベルノは扉の方へ向かいながら言った。


「じゃあ、やることは決まったな」


「うん」

 ミアが答える。


「苦香根を残す」

「うん」

「朝の鍋をぶらさない」

「うん」

「そのうえで、届く範囲を少しずつ広げる」

「……」

「そういう宿なら、面白い」


 扉が閉まる。


 食堂にはまた静けさが戻る。


 でも、その静けさは最初の頃のものとは違っていた。

 ただ冷えているだけじゃない。

 次へ向けて、少しずつ整っている静けさだ。


 ミアは帳面の一行を見た。


 全部は変えない。

 でも、湯気の届く範囲は変える。


 それから、ゆっくりと頷く。


「これでいこう」


「うん」

 恒一が答える。


「灰白亭のやり方」

「そうだな」


「派手じゃなくていい」

「うん」

「でも、ちゃんと残る宿にする」

「それでいい」


 恒一は立ち上がり、苦香根の袋を持ち直した。


「明日は市場だな」


「うん」


「次は?」

 恒一が聞く。


 ミアは少し考えてから言った。


「湯気の届く範囲をもう少しだけ広くする」


 その答えは、かなり今の灰白亭らしかった。


 全部ではない。

 でも、止まりもしない。


 宿として、無理のないところまで届かせる。

 それが、この小さな宿の戦い方だった。

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