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異世界で潰れかけの宿を任された俺、 朝粥と売れ残り食材で街の食卓を変えていく 〜はずれスキル『食材帳』の料理人〜  作者: 青い海の人


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【第27話】 値段の向こう側

雨は、昼を少し過ぎた頃にようやく落ちてきた。


 最初は細く、通りの色を少し鈍らせるだけの雨だった。

 けれど市場を半周する頃には、屋根を叩く音がはっきり聞こえるくらいになっていた。


 恒一とミアは、屋根付きの通路の端へ避けて立つ。


 濡れた石畳。

 急いで布をかける店主たち。

 葉物の箱を奥へ引っ込める手。

 雨の日の市場は、普段よりも少しだけ本音が出る。


「最悪」

 ミアが言った。


「雨か」

 恒一が聞く。


「雨の日の市場」

 ミアは即答する。

「値段が動くもの」


 その言い方に迷いがない。


「どう動く」

 恒一が聞く。


「葉物は下がる。傷みやすいから」

「うん」

「魚も急ぐ」

「うん」

「でも乾物は強くなる」

「濡れたくないからか」

「そう。抱えてる側が焦らない」


 恒一は少しだけ頷いた。


 いい見方だ。


 料理人は、つい“食材の質”から見始める。

 でも商売は違う。

 誰が困っているかで、値段はすぐ動く。


 食材帳の上で、イーリスが淡く文字を浮かべる。


 ――気候変動時は価格変動が増幅します

 ――本日の観察には好都合です


「好都合って」

 ミアが眉を寄せる。

「店からしたら胃が痛いのよ」


「だからこそ基準が要る」

 イーリスが答える。


「そうだな」

 恒一も言う。

「今日はそこを決める」


「買う基準?」

 ミアが聞く。


「うん。灰白亭が、何をどこまでなら買うか」

「……」

「安いから、じゃなく」

「続けられるから」

 ミアが先に言った。


 恒一は少しだけ笑った。


「そういうことだ」


 ミアは帳面を開き、上へ大きく書いた。


 灰白亭の買う基準


 その字を見て、恒一は少しだけ嬉しくなった。

 今やっているのは今日の仕入れではなく、宿の鍋の再現性を作ることだ。


 まず、黒麦。


 三軒見る。


 一番安い粉は、雨の日だからか少し湿気を吸っていた。

 香りも弱い。

 中値の粉は粗いが、まだ生きている。

 一番高い粉は文句なく良い。だが、量を続けるには今の灰白亭には重い。


「真ん中ね」

 ミアが言う。


「うん」

 恒一が答える。


「前から真ん中だったけど、今日は理由が分かる」


「言ってみろ」


「安いだけだと香りが死ぬ。高いだけだと宿の方が先に死ぬ」


 その答えに、恒一はかなり満足して頷いた。


「いいな」


「ほんと?」


「かなり」


「最近、それで誤魔化してるでしょ」


「便利なんだよ」


 ミアは帳面に書く。


 黒麦:中値/香り優先/湿気を吸っているものは避ける


 次に豆。


 雨の日は売り手によって対応が分かれる。

 急いで値を下げる店。

 逆に奥へ引っ込める店。

 灰白亭が欲しいのは、朝に形が残る豆だ。

 でも夜の汁へ回すなら、少し割れたものでもいい。


「やっぱり二種類で見る」

 ミアが言う。


「朝と夜」

 恒一が頷く。


「朝は、崩れにくい」

「うん」

「夜は、崩れても味が出る」

「うん」

「値段が少し違っても、使い道まで見ないと意味がない」

「その通りだ」


 ミアは書き足した。


 豆:朝用/夜用で分けて見る


 そして鳥の端肉。


 今日は、ここがいちばん分かりやすかった。


 同じ値段の木箱が二つ並んでいる。

 でも片方は脂がまだ乗っていて、もう片方は筋が多く、煮ても固くなりそうだ。


「こっち」

 恒一が言う。


「値段は同じ」

 ミアが言う。


「でも鍋は同じにならない」


 店主が鼻を鳴らす。


「細かい宿だな」


「商売なので」

 ミアが言う。


 その返しが、前よりずっと自然だった。


 雨音の向こうで、別の店の怒鳴り声が聞こえる。

 値切りと、言い返し。

 今日の損をどこで埋めるかという、あまりきれいではないやり取り。


 市場はそういう場所だ。


「ねえ」

 ミアが言った。

「何だ」

「前なら、たぶんここで安い方に飛びついてた」

「うん」

「でも今は、それやると朝の鍋が壊れるのが先に見える」

「……」

「たぶんこれが、“値段の向こう側”ってことね」


 恒一はその言葉を聞いて、少しだけ目を細めた。


 良い言い方だと思った。


 安いか高いかは入口にすぎない。

 その先に、

 鍋が回るか。

 客が戻るか。

 宿が残るか。

 がある。


「そうだな」

 恒一は答えた。

「かなり」


 ミアは少しだけ笑って、帳面を引き寄せた。


 そして、今までの項目の下へ一行足す。


 安いか高いかではなく、宿に残るかで決める


 雨はまだ降っている。


 でも市場の灰色は、さっきより少しだけ輪郭が見えてきていた。


 誰が焦っているか。

 誰が強気か。

 何が濡れに弱くて、何が時間に耐えるか。


 ただの相場ではない。

 流れだ。


「……ねえ、恒一」

 ミアが言う。


「何だ」


「苦香根は?」


 そこで二人とも少しだけ黙った。


 苦香根は、灰白亭の夜皿の顔になり始めている。

 でも市場でもう見つかり始めている。

 だからこそ、どう買うかが難しい。


「今日は」

 恒一が言う。

「良いのだけ抜かない」


「うん」

 ミアも頷く。


「中くらいのも混ぜる」

「用途を分ける」

「そう」

「香味を取る分、皿にする分、下処理して残す分」

「うん」


 イーリスの文字が並ぶ。


 ――苦香根:良品のみへの依存は非推奨

 ――用途分岐により継続性が上がります


「今日はちゃんと役に立つわね」

 ミアが帳面を見ながら言う。


「市場なので」

 イーリスが答える。


「そこだけは本当に頼りになる」


 苦香根の台へ行く。


 老婆は二人を見るなり、少しだけ笑った。


「今日は早いねぇ」


「雨だから」

 ミアが答える。


「雨の日は迷うと減るよ」

「そうね」


 箱の中を見る。


 前より良品は少ない。

 でもゼロではない。

 そして、たしかに中くらいのものも悪くない。

 下処理と使い分け前提なら、十分残せる。


「ねえ」

 ミアが小さく言う。

「何だ」

「前は“安いから助かる”だった」

「うん」

「今は“残せるから必要”になってる」

「そうだな」

「それ、ちょっと怖い」

「そうだろうな」

「でも、前より好き」

「市場が?」

「違う」

 ミアは苦香根を見る。

「こうやって選べる感じ」


 老婆が、その会話を聞いていたのか、小さく鼻を鳴らした。


「宿の顔になってきたじゃないか」


「どういう意味?」

 ミアが聞く。


「値切る前に、残すことを考える顔だよ」


 その一言は、かなり深く入った。


 前の灰白亭は、今日をしのぐことしかできなかった。

 今は違う。

 明日も鍋を回すために、今日の買い方を考えている。


「……買う」

 恒一が言った。


「うん」

 ミアが頷く。

「でも、今日は量を少しだけ抑える」

「どうして」

「雨で動きが読みにくいから」

「……」

「強気にしすぎると、明日ぶれる」

「いいな」

「ほんと?」

「かなりいい」

「今日はちょっと多いわね、それ」

「仕方ない。かなりいいからな」


 市場を出る頃には、雨脚は少しだけ弱くなっていた。


 石畳にはまだ水が溜まり、屋根から落ちる雫があちこちで跳ねている。

 でもミアの足取りは、来た時よりも少し軽かった。


「……ねえ」

 彼女が言う。


「何だ」


「今日、初めてちょっと分かった」


「何が」


「宿を回すって」

 ミアは前を向いたまま言う。

「台所の中だけじゃないのね」


 恒一は、少しだけ笑った。


「そうだな」


「値段の向こうに、天気も人も流れもある」

「うん」

「それ、面倒だけど」

「うん」

「嫌いじゃない」


 その言葉は、いまの灰白亭にふさわしかった。


 雨の市場を抜けながら、二人は少しずつ同じ目線になっていく。

 鍋を見る目。

 部屋を見る目。

 そして、市場の値札の向こうを見る目。


 灰白亭は、ただ安い宿にはならない。

 残る宿になる。


 そのための買い方が、ようやく少しずつ形になり始めていた。

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