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異世界で潰れかけの宿を任された俺、 朝粥と売れ残り食材で街の食卓を変えていく 〜はずれスキル『食材帳』の料理人〜  作者: 青い海の人


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【第26話】 市場はまだ、眠っている

灰白亭の朝が終わったあと、恒一とミアはいつものように市場へ向かった。


 鍋はきれいに空になっている。

 持ち帰りの壺も、一つ残らず出た。

 食堂には、洗い終わった器の匂いと、鍋の底にわずかに残る豆の甘い香りだけが残っている。


 それだけなら、昨日までと何も変わらない。


 でも今日は、道へ出た時点で空気が違った。


「……」

 ミアが何も言わずに前を見ている。


「分かるか」

 恒一が聞く。


「うん」

 ミアは小さく頷いた。

「見られてる」


 市場の入口近くで、こちらを見た男が一人いた。

 目が合うと、何でもない顔をして別の屋台へ流れていく。


 あからさまではない。

 けれど、前のように“通りすがりの宿屋”を見る目ではなかった。


 あれが灰白亭か。


 そう確かめる目だ。


 食材帳の上で、イーリスが静かに文字を浮かべた。


 ――市場内認知:進行中

 ――観測対象化が進んでいます


「今日は嫌な言葉が多い」

 ミアが言う。


「でも正しい」

 恒一が返す。


「それが嫌なのよ」


 二人はまず、通りの端にある小さな食堂の前を通った。


 見覚えのない店ではない。

 いつも昼前になると、安い汁と固いパンを出している店だ。


 その店先で、鍋をかき回していた男が、こちらを見て少しだけ眉をしかめた。


 そして、店の中へ引っ込む。


「今の、感じ悪かったわね」

 ミアが言う。


「うん」

 恒一も頷いた。

「苦香根の話が行ってるな」


 少し歩いた先、今度は別の屋台で聞こえる声があった。


「やっぱ苦ぇだけだろ、これ」

「だから言ったろ」

「灰白亭のはどうやってんだよ」


 二人とも、足を止めた。


 屋台の裏で、若い男が小鍋を前に顔をしかめている。

 鍋の中身は少量。

 そして、匂いですぐ分かった。


「……苦香根」

 ミアが小さく言う。


「だな」

 恒一が答えた。


 屋台の男は、こちらに気づくと露骨に顔をしかめた。


「何だよ」


「いや」

 恒一が言う。

「試したのかと思って」


「悪いか」


「悪くない」


「……」


「でも、それはそのまま煮るときついぞ」


 男は少しだけ言葉に詰まった。


 つまり図星なのだろう。


「余計なお世話だ」


「そうだな」

 恒一はそれ以上言わなかった。


 ミアが隣で、小さく息を吐く。


「……真似されるのね」


「される」

 恒一が言う。

「でも、すぐには皿にならない」


 それは少しだけ救いだった。


 出口を見つけるのは簡単じゃない。

 苦香根は、灰白亭が何度か失敗したうえでようやく夜の皿になった。


 だからこそ、ただ真似しただけでは届かない。


「でも」

 ミアが言う。

「“あの宿がやってる”ってだけで、みんな試したくなる」


「そうだな」


「それって、ちょっとすごい」


「ちょっとじゃない」


 市場をさらに奥へ進む。


 苦香根の台の前には、今日も老婆がいた。

 前と同じ木箱。

 でも中身は確実に違う。


 良いものが減っている。

 太さの揃ったものが少ない。

 前みたいに“売れ残りの山”という感じではなくなっていた。


「また来たのかい」

 老婆が言う。


「また来た」

 恒一が答える。


「今日は、前より動いたよ」


「見れば分かる」

 恒一が箱を見る。


「分かるなら話が早い」

 老婆は鼻を鳴らした。

「試しに買うやつが増えた。けど、ちゃんと皿にできたやつはまだ少ない」


「……」


「だから、結局うちに戻ってくるのはまだ多い」


 ミアは箱を覗き込む。


「戻ってくる?」


「うまく使えないからさ」

 老婆が言う。

「一回買って、だめで、二度と手を出さない。そういう顔はまだ多い」


 そこへ、横から小さな声がした。


「でも、前よりは減ってるね」


 リナだった。


 籠を抱えたまま、いつの間にか立っていた。


「仕事は?」

 ミアが聞く。


「途中」

 リナが答える。

「布屋の配達ついで」


「ついでに市場を見るの?」


「毎日通るし」


 リナは苦香根の箱を見て言う。


「この前、隣の乾物屋の奥さんが言ってた」


「何を?」

 ミアが聞く。


「“あれ、灰白亭の皿のやつでしょ”って」


「……」


「名前じゃなくて、皿の方で覚えられてる」


 その言い方は、妙に残った。


 苦香根そのものではない。

 市場の食材としてではなく、灰白亭の皿のやつとして覚えられている。


 それはつまり、食材単体ではなく、出口ごと認識され始めているということだ。


「ねえ」

 ミアが言う。

「何だ」


「これってさ」

「うん」

「市場はまだ、眠ってるのかもね」


 恒一が少しだけ目を細める。


「どういう意味だ」


「苦香根を見て、みんな“苦い根”としては知ってる」

「うん」

「でも、“こう食べると残る”って形では、まだ全然起きてない」

「……」

「だから、見られてはいるけど、まだ眠ってる」


 その言い方は、かなりこの第二部にふさわしかった。


 灰色の市場。

 似たような出口ばかり。

 でも、食材自体が死んでいるわけじゃない。


 ただ、まだ起きていないだけ。


 イーリスの文字が静かに並ぶ。


 ――表現として妥当です

 ――“市場はまだ、眠っている”


「……今日はタイトルみたいなこと言うのね」

 ミアが帳面を見る。


「必要だからです」

 イーリスが答える。


「便利だけど、やっぱり腹立つ」


 その時、後ろから軽い声が飛んできた。


「ずいぶん見つかってるな」


 ベルノだった。


 今日は屋台の仕込み途中らしく、片手に小さな袋を持っている。


「来たわね」

 ミアが言う。


「来るよ」

 ベルノは箱を見ながら答えた。

「ここ数日、市場の話題が“灰白亭”と“苦香根”ばっかりだからな」


「そんなに?」

 ミアが聞く。


「そんなに」

 ベルノは頷く。

「ただ、まだ本気じゃない」


「本気?」

「今は“面白がってる”段階だ」

「……」

「でも、そのうち面白くなくなるやつが出る」

「前も言ってたわね」

「言った」

 ベルノが肩をすくめる。

「今日はその顔が少し増えてた」


 恒一は、さっきの食堂の男を思い出した。


 試した。

 失敗した。

 面白くない。

 そういう流れは、たしかにもう始まっている。


「どうする?」

 ミアが聞く。


「慌てない」

 ベルノが即答した。

「市場に見られてるからって、自分で型を崩すな」

「……」

「お前らが今やるべきなのは、新しい食材を増やすことでも、無理に広げることでもない」

「じゃあ何?」

 ミアが聞く。


 ベルノは、苦香根の箱を指で軽く叩いた。


「一個、ちゃんと残せ」


「……」


「苦香根を“灰白亭の皿”として定着させろ」


「それだけ?」


「それだけじゃねぇ」

 ベルノが言う。

「でも、それができねぇのに次へ行くと、全部薄くなる」


 その言葉は、かなり的確だった。


 ミアは少しだけ黙ってから、ぽつりと言う。


「……ねえ」


「何」

「市場に見つかったから、もっと動かなきゃって思ってた」


「……」


「でも、まだ苦香根をちゃんと残す方が先なんだね」


「そうだな」

 恒一が答える。


 老婆が、そこで小さく笑った。


「やっと分かってきたじゃないか」


「何が」

 ミアが聞く。


「市場はね、一回見つかったくらいじゃ起きないよ」

「……」

「でも、一つの出口がちゃんと残ると、そこから少しずつ動く」

「……」

「だから今は、その一つを守りな」


 その言葉もまた、重かった。


 灰白亭は市場を全部起こす宿じゃない。

 でも、一つの出口を作って、それを残す宿にはなれる。


 その積み重ねが、いつか市場の色を変えるのかもしれない。


「……買う」

 恒一が言う。


「今日も?」

 ミアが聞く。


「今日も」

「どう買う?」


 恒一は箱の中を見た。


「良品だけじゃなく、中くらいも混ぜる」

「うん」

「使い道を分ける前提で」

「うん」

「でも、今日は少しだけ量を増やす」

「……」

「試され始めたなら、うちの皿をちゃんと残す方が先だ」


 ミアは少しだけ黙って、それから頷いた。


「そうね」


 帳面に書く。


 苦香根:定着を優先


「短いわね」

 ベルノが言う。


「今はそれでいいの」

 ミアが答える。

「たぶん」


 市場を抜ける帰り道、ミアがぽつりと言った。


「……ねえ」

「何だ」

 恒一が聞く。


「今までは、市場を見てただけだった」

「うん」

「今日は市場がこっちを見返してきた」

「そうだな」


 灰色の市場は、まだ起ききっていない。

 でも、その眠りの端を灰白亭の湯気が少しずつ揺らし始めている。

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