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異世界で潰れかけの宿を任された俺、 朝粥と売れ残り食材で街の食卓を変えていく 〜はずれスキル『食材帳』の料理人〜  作者: 青い海の人


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【第24話】 エドガー・ヴァレント来訪

 エドガー・ヴァレントが灰白亭へ現れたのは、雨の前の、妙に空気の重い昼だった。


 朝の食堂はすでに終わっている。

 鍋は洗われ、黒板は半分だけ引っ込められ、食堂には昼の中途半端な静けさがあった。

 客がまったくいないわけではないが、忙しいとも言えない、宿にとっていちばん油断しやすい時間帯だ。


 その時間に、男はひとりで入ってきた。


 外套は地味だった。

 濃紺。装飾は少ない。けれど布の落ち方が違う。靴も磨かれている。

 旅装に見えて、旅慣れた商人とも少し違う。立っているだけで、余計な動きがない。


 そして何より、店へ入った瞬間の視線が違った。


 料理を見る目でも、

 部屋を探す目でもない。


 ここが何で立っているのかを測る目だった。


 ミアが先にそれへ気づいた。

 帳場から顔を上げ、ほんのわずかに背筋を伸ばす。


「いらっしゃいませ」


「食事はまだ頼めますか」

 男はそう言った。

 声は低く、落ち着いていて、言葉の端に無駄がない。


「はい」

 ミアが答える。

「軽いものでよろしければ」


「では、それを」


 恒一は厨房から男を見た。


 前みたいな、ただの通りすがりではない。

 名乗らない。

 値段も聞かない。

 だが遠慮もない。


 こういう客は、安さではなく中身を見に来る。


「恒一」

 ミアが小さく呼ぶ。


「聞こえてる」


「どう思う」


「普通の客ではなさそうだな」


「私もそう思う」


 イーリスが食材帳の上へ現れ、淡い文字を並べた。


 ――観察対象の可能性が高いです

 ――応対は平常を推奨します


「今日はそれでいい」

 恒一が言う。


「ほんとに?」

 ミアが聞く。


「こういう時に背伸びすると、だいたいばれる」

「……」

「今の灰白亭をそのまま出せばいい」


 ミアはほんの少しだけ考えて、頷いた。


「何出す?」

「苦香根」

 恒一は答える。


「また?」

「この人には、それがいい」


 火を入れる。


 下茹で済みの苦香根を薄く切り、鳥脂をほんの少し。

 塩は早め、出汁は控えめ。

 前よりももう少し整った順番で、香りだけを先に起こす。


 ミアはその様子を見ながら、水を運んだ。


 男は食堂を静かに見ていた。


 磨かれた卓。

 帳場。

 階段。

 廊下へ続く灯り。

 黒板の引き方まで、たぶん全部。


「……宿ですね」

 男がぽつりと言った。


「はい」

 ミアが答える。

「灰白亭です」


「朝の粥で少し名が出ている」


 断定だった。


 ミアの指がほんの少し止まる。


「そうなんですか」


「市場で聞きました」

 男は続ける。

「それから、最近は苦香根も扱い始めた」


「よくご存じですね」


「仕事柄」


 やはりそうか、と恒一は思った。


 この男は通りすがりではない。

 市場を見て来ている。

 しかも苦香根まで知っている。


 灰白亭はもう、静かに息を吹き返すだけの段階を抜けたのだ。


「お待たせしました」

 恒一は皿を出した。


 小皿だ。

 主役ではない。

 けれど、ただの添え物でもない。


 薄く切った苦香根を鳥脂とごく薄い塩でまとめ、最後に香味湯をひと垂らしだけ落としてある。

 派手ではないが、鼻に残る。


 男は皿を見て、わずかに目を細めた。


「……これが」


「苦香根です」

 恒一が言う。


「売れ残りだと聞いていましたが」


「売れ残ってるな」


「なのに皿になる」


「なる」


「なぜ」


 恒一は少しだけ皿を見た。


「出口が違うからだ」


「……」


「みんな、腹を膨らませる方向でしか見てない」

「……」

「でも、こいつは腹より先に匂いで残る」

「匂い」

「この街の土と苦みと、遅れて出る甘さがある」

「……」

「宿の夜には、そのくらいがちょうどいい」


 男はそこで初めて、少しだけ口元を動かした。

 笑ったわけではない。

 ただ、興味が深くなった顔だった。


 ひと口食べる。


 咀嚼は静かだ。

 長くも短くもない。

 だが、飲み込むまでに考えているのが分かる。


「覚える味ですね」

 やがて男は言った。


「そうだな」

 恒一が答える。

「旅人は、こういうものを覚える」


「知っているのですか」


「少しは」


 男は皿をもうひと口取る。


「この宿は、何を目指しているんですか」


 その問いは、予想していたよりもまっすぐだった。


 ミアが息を呑む。

 恒一は少しだけ黙った。


 宿を守るために朝食を育ててきた。

 部屋を整えた。

 常連もついた。

 サーシャは“また泊まります”と言った。


 でもそれを外の人間へどう言うか。

 それはまだ完全には整っていなかった。


「宿を立て直している」

 恒一が言った。


「それは見れば分かります」

 男は静かに返す。

「どう立て直すのか、です」


「……」


「朝食の宿としてですか」


「違う」

 今度はミアが答えた。

「飯屋になるつもりじゃない」


「では?」


「朝に人を整えて、夜に人を休ませる宿です」


 男の目がミアへ移る。


「食堂は?」


「その入口」

 ミアは答えた。

「宿へ戻ってきてもらうための入口です」


「……」


「だから、朝飯だけ強くしても意味がない。部屋も、廊下も、夜も、全部いる」


 男はそこで少し黙った。


 それから、低く言った。


「言葉は悪くない」


「悪くない、ですか」

 ミアが聞く。


「全部を簡単に言う言葉は信用していません」

 男は答えた。


 ミアは一瞬だけむっとしたが、すぐに飲み込んだ。


 この男の言い方は、サーシャに少し似ている。

 褒めるにも、測るにも、簡単には決めつけない。


「あなたは?」

 恒一が聞いた。

「名前を聞いてない」


 男は、そこで初めて名乗った。


「エドガー・ヴァレント」


 短く。


「領主家で、街の商いと宿場の流れを少し見ています」


 ミアの背筋がぴんと伸びる。


「……領主家」


「ええ」


「何か問題が?」

 ミアが聞く。


 エドガーは首を横に振った。


「まだありません」


「……」


「ただ、目立つ火は見に来るべきなので」


「火」


「朝の粥の宿」

 彼は食堂を見回した。

「売れ残りの苦香根を皿に変える宿」


「……」


「市場で仕入れ方まで変え始めた宿」

 その一つ一つが、灰白亭を指していた。


 ベルノの言葉が脳裏をよぎる。


 見られてるぞ。


 それが、今ははっきり現実になっている。


「止めに来たんですか」

 ミアが聞く。


 声は少しだけ硬かった。


 エドガーは首を横に振る。


「いいえ。まだそこまでの話ではない」


「……」


「ですが、確認は必要です」


「何を」


「この宿が、宿の範囲で息を吹き返そうとしているのか」


「……」


「それとも、街の流れごと少し変える気があるのか」


 食堂の空気が少しだけ張る。


 いずれ向き合わなければならない問いが、もう外から来た。


 恒一は、ゆっくり息を吐く。


「今はまだ、宿を守るためだ」

 彼は言った。


「今は?」

 エドガーが聞く。


「……」

「言葉は正確に」

 エドガーは言う。

「曖昧な野心は、商いより先に揉め事を呼びます」


 その忠告は脅しではない。

 むしろ、冷静な注意に近かった。


 だからこそ重い。


 ミアは少しだけ視線を落とし、それからまっすぐ顔を上げた。


「今は、宿を守るため」

 彼女が言う。

「でも」

 そこで止まる。


 恒一がその先を見た。

 言葉はまだ完全ではない。

 けれど、今ここで嘘を言うと、この男はたぶん見抜く。


「でも?」

 エドガーが促す。


 恒一が、静かに答えた。


「この宿を守るには、たぶん宿の中だけじゃ足りない」

「……」

「市場も、食材も、この街の朝と夜の流れも、少しずつ関わることになると思ってる」


「なるほど」


「でも、ただ一軒の宿として縮こまって残るだけじゃ、たぶん先でまた詰む」


 エドガーは、その答えをかなり長く黙って受け止めた。


 やがて頷く。


「正直で結構です」


「……」


「分からないことを分からないと言える宿は、まだ壊れきっていない」


「褒めてます?」

 ミアが聞く。


「半分」

 エドガーが答えた。

「残り半分は、これからです」


 そう言って、彼は皿をきれいに空にした。


「苦香根の使い方は見事でした」

「ありがとう」

 恒一が言う。


「ただし」

「ただしか」

「この街の食材へ意味を持たせるなら、その先は宿の看板一枚では済まなくなる」


「……」


「だから次に会う時までに、決めておいてください」


「何を」

 ミアが問う。


「灰白亭が、どこまで湯気を上げるつもりなのか」


 その言葉を残して、エドガーは代金を置き、立ち上がった。


 扉が閉まる。


 しばらく、誰も喋らなかった。


 やがてミアが、ゆっくり息を吐く。


「……すごい圧」


「そうだな」

 恒一が答える。


「でも、止めには来てない」


「うん」


「見に来た」


「そう」


 エドガーは敵ではない。

 だが、無視できる相手でもない。


 灰白亭は、もう市場だけで見られている宿ではなくなった。


 領主家が“火”として認識する宿になり始めたのだ。


「ねえ」

 ミアが言う。

「何だ」

「これ、ほんとに決めないとだめだね」


 恒一は頷いた。


「そうだな」


「どこまでやるか」


「うん」


「どこまで湯気を上げるか」


「うん」


 ミアは帳面を引き寄せた。


 そこへ、大きく一行だけ書く。


 灰白亭は、どこまで湯気を上げるのか。


 その文字は、第一部の終盤にふさわしい重さを持っていた。

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