【第18話】 夜の廊下に灯りを置く
その夜、灰白亭の二階には、いつもより少しだけ長く灯りが残っていた。
客が多かったわけではない。
むしろ逆だ。
食堂は早めに落ち着き、旅人たちも部屋へ戻った。
だが、ミアはそのあとも灯りを消さなかった。
階段の踊り場。
二階へ上がってすぐの壁。
角部屋へ続く廊下の途中。
ミアは燭台を一つずつ持ち上げて、位置を変えていた。
「そこ、少し高い」
恒一が言う。
「高い?」
「目には入るけど、足元が死ぬ」
ミアは燭台を少し下げた。
「これで?」
恒一は階段の下まで戻り、見上げる。
「……悪くない」
「悪くない、ね」
ミアは小さく息を吐いた。
昼のうちに、二人で二階を何度も歩いた。
扉を開け、荷物を持って上がり、灯りが少ない状態を想像しながら、どこで足が止まり、どこで肩が強張るかを見て回った。
料理の味と違って、こちらはもっと曖昧だ。
でも曖昧なものほど、泊まり客の気分を左右する。
「宿って、夜の方が難しいのね」
ミアが言った。
「そうかもな」
恒一が答える。
「朝は少なくとも匂いがある」
「うん」
「夜は、部屋に戻るだけなのに」
「だからだろ」
ミアが振り返る。
「どういうこと?」
「戻るだけの時間ほど、余計な引っかかりが気になる」
恒一は階段を上がりながら言う。
「暗い」
「うん」
「寒い」
「うん」
「どこまで歩けばいいか分からない」
「……」
「そういうのが一つあるだけで、宿って妙に落ち着かなくなる」
ミアは少しだけ黙った。
「……それ、すごく分かる」
彼女は手にした燭台を今度は踊り場の端ではなく、階段を上がってすぐの少し手前へ置いた。
「ここだと?」
「見てみる」
二人で一度、階段を下りる。
そこからまた上がる。
足元の見え方。
廊下の先の暗さ。
角部屋の扉までの距離感。
「……あ」
ミアが言う。
「こっちの方が、部屋が遠く見えない」
「だろ」
「なんか悔しい」
「なんで」
「ちょっとしたことで変わるから」
「宿も飯も、そういうもんだ」
その時、イーリスが帳面の上からふわりと浮いた。
「視認性は改善しています」
静かな声で言う。
「ですが、まだ廊下の中ほどが弱いです」
ミアが少しだけ眉をひそめた。
「そういう時のあなたは便利ね」
「必要だからです」
「今日は腹が立ちにくい」
「環境改善は感情干渉が少ないためです」
「言い方は相変わらずね」
恒一は小さく笑い、廊下の途中を見た。
そこには今まで何となく置かれていた籠や、使っていない台が寄せられている。
壊れてはいない。
でも必要でもない。
「これ、片づけるか」
恒一が言う。
「うん」
ミアも頷いた。
「前は、“置ける場所”があると何でも置いちゃってた」
「よくある」
「宿が弱ると、こういうの増えるのかな」
「増えるだろうな」
ミアは籠を持ち上げた。
軽い。
でも、軽いものほど溜まると空気を重くする。
「……ねえ」
「何だ」
「私、この宿を守ろうって思ってたけど」
「うん」
「こういうの、守るっていうより、片づけることでもあるのね」
「そうだろうな」
「なんか地味」
「かなり地味だ」
でも、その地味さは悪くない。
食堂を立て直すのも、部屋を整えるのも、結局は目立たない手入れの積み重ねだ。
宿はたぶん、そういう地味さでできている。
「これも動かす」
ミアが小さな木台を指した。
「それは?」
「そのままじゃ邪魔」
「たしかに」
「でも、捨てるには惜しい」
「……」
「だったら、使う場所へ動かす」
階段の手前、二階へ上がったすぐの壁際へ持っていく。
「何に使う」
恒一が聞く。
「水差しとか、荷物とか」
ミアは言う。
「部屋へ戻る時、片手が塞がってると、一回置ける場所があるだけで違うから」
恒一は少しだけ感心した。
「いいな」
「ほんと?」
「かなり」
「またそれ」
「使い勝手がいい」
「ほんと便利ね、その言葉」
木台の上へ小さな布を一枚敷く。
水差しを置く。
少し引いて見る。
派手ではない。
でも、“なんとなく雑にある台”ではなくなった。
その時、廊下の向こうで扉が開く音がした。
サーシャだった。
手には読みかけらしい小さな帳面を持っている。
夜の宿で、灯りの変化に気づかない旅人ではない。
「……まだ起きていたんですね」
サーシャが言う。
「そっちも」
ミアが答える。
「灯りが増えたので」
サーシャは廊下を見回した。
「見に来ました」
その言い方に、恒一は少しだけ目を細めた。
この旅人は本当に宿を見る。
「どうですか」
ミアが聞く。
「まだ変ですか」
サーシャは少しだけ歩く。
階段の手前。
踊り場。
廊下の途中。
角部屋の前。
それから、静かに言った。
「昨日より、宿です」
ミアが一瞬止まる。
「……宿、って」
「部屋単体ではなく」
サーシャが続けた。
「戻るまでが同じ空気になってきました」
「……」
「昨日までは、良い部屋が一つあるだけだった」
「うん」
「今日は、そこへ辿り着くまでの時間も、少しだけ整っている」
「……」
その言葉は、かなり嬉しい種類のものだった。
部屋が良い。
朝食が良い。
それも大事だ。
でも今、褒められたのはその“間”だ。
灰白亭の、まだ何者でもなかった部分。
「ありがとう」
ミアが素直に言った。
「それ、かなり嬉しい」
「そうでしょうね」
サーシャは少しだけ笑った。
「宿は“部屋の良し悪し”だけで決まらないので」
ミアは、その言葉を飲み込むように頷いた。
恒一は壁際の小さな台を見た。
水差し。
布。
灯り。
どれも小さい。
でも、小さいものがつながると、宿の空気が少し変わる。
「……ねえ」
ミアが言う。
「何だ」
「これ、ちょっとすごくない?」
「かなりな」
ミアは廊下を見渡す。
「部屋だけじゃなくて、宿の中全体が少し変わった感じする」
「そうだな」
「朝食の匂いが上まで来るのも」
「うん」
「廊下の灯りも」
「うん」
「全部つながってる」
「……そういうことだ」
サーシャが、小さく帳面を閉じた。
「この宿、ちゃんと良くなっていきますね」
その一言に、ミアはしばらく何も言えなかった。
それから、やっと絞り出すように言う。
「……そうだといい」
「なりますよ」
サーシャはあっさり言った。
「少なくとも、今はそう見えます」
その言葉は、妙に強かった。
旅人がそう言うなら、少し信じてみてもいい気がする。
そんな種類の強さだった。
サーシャが部屋へ戻ったあと、廊下にはまた静けさが戻る。
でも、その静けさは昨日までとは違っていた。
冷たくない。
ただ落ち着いている。
「……ねえ」
ミアが言う。
「何だ」
「私、ちょっと分かってきた」
「何が」
「宿って、部屋とご飯だけじゃないのね」
「そうだな」
「その間の空気も、けっこう大事」
「かなり大事だ」
ミアは小さく頷いた。
「宿って、面倒ね」
「かなりな」
「でも」
彼女は少し笑った。
「やっぱり嫌いじゃない」
恒一も、少しだけ笑った。
灰白亭は、今日また一つだけ宿に近づいた。
部屋ではなく、廊下で。
料理ではなく、灯りで。
でも、そういう一歩の積み重ねでしか、宿は戻らないのだろう。




