【第19話】 宿の朝が回り始める
翌朝の灰白亭は、これまででいちばん忙しく、いちばん落ち着いていた。
おかしな話だと、ミアは思った。
朝食の鍋は昨日より少し多い。
持ち帰りの壺も増えている。
泊まり客はサーシャが一人。
常連の顔ぶれも、だいたいもう見えている。
やることは確実に増えているのに、店の中の空気は前より整っていた。
「……変」
器を並べながら、ミアが言う。
「何が」
恒一が鍋を見たまま聞く。
「忙しいのに、昨日より怖くない」
恒一は少し笑った。
「順番があるからな」
「やっぱりそれ?」
「それだろ」
鍋の中では、黒麦と豆がほどけ始めている。
今日の粥は少しだけ硬めだ。持ち帰りの分を最初から見込んでいるからでもあるし、泊まり客と街の客が同じ時間へ重なると分かっているからでもある。
イーリスは今日は静かだった。
帳面の上でページだけを開き、必要な時だけ文字を浮かべるつもりらしい。
その沈黙が、かえってよかった。
今朝は、鍋より先に、宿の流れを見なければいけない。
「ミア」
恒一が言う。
「何」
「泊まり客、起きたら先に席」
「うん」
「壺はそのあと」
「うん」
「ガドが来ても、そのあと」
「……そこ強調する?」
「大事だろ」
「たしかに」
その時、二階の床板が小さく鳴った。
サーシャだ。
ミアは自然に背筋を伸ばす。
前みたいな強張りではない。宿の人間として、客を迎える時の反応に近かった。
サーシャが階段を下りてくる。
肩の力は抜けていて、昨日の“試しに泊まっている旅人”の顔ではなかった。
「おはようございます」
ミアが言う。
「お席、どうぞ」
「おはよう」
サーシャが頷く。
それだけのやり取りなのに、ミアは内心で少し驚いていた。
自然だったからだ。
言わなきゃ、ではなく。
宿だから、で出た声だった。
サーシャが席へ着いたのを見てから、恒一が器をひとつ出す。
そこでちょうど扉が開いた。
ドノヴァンとペトルだ。
さらに、その後ろからガド。
少し遅れて、リナが壺を抱えて入ってくる。
「おう、今日も――」
ガドが言いかける。
「静かに」
ミアがぴしゃりと言った。
「泊まりの方が先」
ガドは一瞬きょとんとしたが、すぐに肩をすくめた。
「はいはい」
「はいは一回」
「厳しい宿だなあ」
「宿だから」
その返しは、自分で言って少しだけくすぐったかった。
けれど、間違っていなかった。
リナがその様子を見て、小さく笑う。
「いいじゃない」
「何が」
ミアが聞く。
「前よりちゃんとしてる」
「……」
「“朝飯の店”っていうより、“泊まってる人がいる宿”って感じ」
その言葉は、今朝の灰白亭にいちばん合っていた。
ミアは壺を受け取りながら、少しだけ目を細める。
「……そう見える?」
「見える」
リナは即答した。
「前は食堂だけが生きてた。今は二階も一緒に回ってる感じ」
「……」
「その違い、通う側には分かるのよ」
恒一は鍋の蓋を少し開けた。
湯気が立つ。
サーシャの前の席。
その向こうにドノヴァン。
ガドは勝手にいつもの席へ座り、ペトルは少しだけ大人しくしている。
リナは壺を待ちながら食堂の空気を見ていた。
たしかにこれは、ただ朝粥を出す店の朝ではない。
宿の朝だった。
「はい」
ミアがサーシャの前へ器を置く。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
そのあとで、ドノヴァンとペトル。
次にガド。
それからリナの壺。
昨日決めた順番どおりに流れる。
流れると、店の中で誰も無駄に強張らない。
「……」
ミアは、自分でそれを感じていた。
同じ鍋。
同じ食堂。
同じ客。
でも、扱う順番が違うだけで、空気がまるで違う。
「ねえ」
ミアが、小声で言う。
「何だ」
恒一が聞く。
「これ、かなり大きいね」
「うん」
「昨日までは、なんとなく混ざってた」
「そうだな」
「街の人も、泊まりの人も、同じ鍋だから一緒だと思ってた」
「うん」
「でも違う」
「違うな」
ミアは壺へ粥をよそいながら言う。
「同じ飯でも、宿の朝として出すか、街の朝飯として渡すかで、意味が変わる」
その言葉に、恒一は少しだけ頷いた。
サーシャも、それを聞いて目を上げる。
「はい」
彼女が静かに言う。
「それが宿です」
ドノヴァンが粥をすすりながら、低く言った。
「今日は昨日より落ち着くな」
「味ですか」
恒一が聞く。
「店だ」
ドノヴァンは即答した。
「座った時から落ち着く」
ペトルも頷く。
「なんか、今日は騒がしくないです」
「ガドが静かだからじゃない?」
リナが言う。
「俺のせいかよ!」
ガドが言い返す。
「いや、ちょっと分かるけど!」
食堂に笑いが落ちる。
それでも流れは崩れない。
ミアはそこで、ようやく気づいた。
この宿は今まで、
“飯を出せるかどうか”
ばかりで必死だった。
でも今は違う。
誰に、どう出すか
まで考えられている。
その違いは、かなり大きい。
朝の片付けが一段落した頃、サーシャが木匙を置いた。
「今朝は、完全に宿の朝でした」
その言葉に、ミアが顔を上げる。
「完全に?」
「ええ」
「……」
「昨日までの延長ではなく、今日からはっきりそう言えます」
ミアはしばらく何も言えなかった。
“また泊まる”と言われたことも大きかった。
でも今のこれは、それが一度の気分ではなかったと証明する言葉だった。
「……ねえ」
彼女が言う。
「何だ」
恒一が聞く。
「宿って、こうやって戻るのね」
その声は、少しだけ掠れていた。
数字で一気に戻るんじゃない。
一晩で立て直るんでもない。
部屋を整える。
廊下に灯りを置く。
朝の順番を決める。
そして、また泊まる人が出る。
そういう小さいことで、少しずつ戻る。
「そうなんだろうな」
恒一が答える。
ミアは帳場へ戻り、小さな布袋を取り出した。
昨日サーシャの二泊目の銀貨を入れた袋だ。
そこへ今日は、朝の売上から一枚だけ分けて入れた。
「それ、何」
恒一が聞く。
「宿のぶん」
ミアが答える。
「昨日までは二泊目の銀貨だけだったけど」
「うん」
「今朝のこの感じも、宿のぶんだから」
「……いいな」
「ほんと?」
「かなり」
ミアは少しだけ笑った。
「最近、その“かなり”が前ほど雑に聞こえなくなってきた」
「成長だな」
「そっちが言う?」
その時、外から市場の音が少しだけ強く入ってきた。
朝の流れは、もう街へ移っている。
でも灰白亭の中には、まだその余韻が残っていた。
サーシャが立ち上がる。
「今日は市場へ?」
彼女が聞く。
「行く」
恒一が答える。
「また苦香根を?」
ミアが聞く。
「それも」
「それも?」
「でも、今日はもう少し広く見る」
ミアが、そこで小さく頷いた。
宿の朝が回り始めた。
なら次は、その鍋を支える市場の流れを見る番だ。
灰白亭は今日、初めて“宿として回る朝”を持った。
それは、はっきりした到達点だった。




