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異世界で潰れかけの宿を任された俺、 朝粥と売れ残り食材で街の食卓を変えていく 〜はずれスキル『食材帳』の料理人〜  作者: 青い海の人


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【第17話】 サーシャ、もう一泊する理由

その日の昼、灰白亭の食堂には珍しく、少しだけ長い静けさがあった。


朝の鍋はきれいに空になっている。

器も洗い終えた。

帳場の上には、朝の売上がまだ片づけられずに並んでいた。


ミアはその銀貨を見つめたまま、指先で一枚ずつ寄せていく。


「……昨日より多い」


「昨日より客が多かったからな」

 恒一が言う。


厨房では、苦香根の下ごしらえが始まっていた。

昼の静けさは短い。夜の皿まで含めて考えれば、宿の仕事に切れ目はない。


「でも」

 ミアが言った。

「数字って、見てるだけだと実感ない」


「実感?」


「うん」

 彼女は銀貨を軽く弾く。

「増えたのは分かる」

「うん」

「赤字が前より止まってるのも分かる」

「うん」

「でも、“宿が戻ってる”って感じとは、少し違う」


恒一はその言葉を聞いて、小さく頷いた。


たしかにそうだ。


数字は大事だ。

でも宿は、数字だけでは戻らない。

人が泊まり、朝を迎え、またここでいいと思う。

その感覚があって初めて、宿は宿として戻る。


その時、二階から足音がした。


サーシャだった。


荷はまとめられている。

だが、出立前の慌ただしさはない。

肩の革鞄も、巻物筒も、きちんと整えられてはいるが、今すぐ街道へ出る顔ではなかった。


「……あれ」

 ミアが言う。

「どうした」

 恒一が聞く。


サーシャは階段を下りきると、そのまま帳場の前まで来た。


「もう一泊、空いていますか」


ミアが、ぴたりと止まる。


「……え?」


「空いていますか」

 サーシャが言い直す。


「そ、それは」

 ミアは一瞬慌てたが、すぐに帳場の鍵箱を見た。

「空いてます。はい。空いてます」

「では、同じ部屋で」


そこまで言われて、ようやくミアは事情を飲み込んだらしい。


目を見開いたまま、恒一の方を見る。

恒一も、少しだけ肩をすくめた。


「……本当に?」

 ミアが言う。


「はい」

 サーシャは頷いた。

「今日も泊まります」


静かな食堂に、その言葉だけが落ちた。


また泊まる。


たったそれだけなのに、昨日までとは重みが違う。


宿にとって、“一泊する”と“もう一泊する”は別物だ。

一泊は通りすがりでもできる。

でも二泊目は、少なくとも一度、この宿を選び直している。


「理由を聞いても?」

 恒一が聞く。


サーシャは少しだけ目を細めた。


「聞きますか」

「聞く」

「では、三つあります」


ミアが帳面を引き寄せる。

もう書く気だ。


「一つ目」

 サーシャが言う。

「角部屋が昨日より良かった」

「……!」

 ミアの肩が少しだけ跳ねる。

「入った時の圧迫感が減っていた。水差しの位置も自然。荷を置く布も良かった」

「……」

「“空いている部屋”から、“人を迎える部屋”へ動いていた」

「……」


ミアは何も言えなかった。


顔が少しだけ熱くなっているのが、ここからでも分かった。


「二つ目」

 サーシャが続ける。

「今朝の朝食です」

「朝食?」

 ミアが聞く。

「昨日と今日で、味だけでなく流れが違った」

「……」

「先に席へ案内された」

「うん」

「街の客と混ざっていても、“泊まり客の朝”として扱われた」

「……」

「そうすると、同じ粥でも受け取り方が変わります」


恒一はそこで少しだけ目を細めた。


やはりそうか、と思う。


食べ物だけではなく、

その前後の扱い方まで含めて、宿の朝なのだ。


「三つ目」

 サーシャが言った。

「この宿、ちゃんと変わっているので」


それは、シンプルだった。


でも、いちばん刺さる理由でもあった。


「変わってる……」

 ミアが小さく繰り返す。


「はい」

 サーシャは頷いた。

「前日と同じではない。少しずつでも、きちんと良くなっている」

「……」

「そういう宿は、もう一泊する価値があります」


帳場の前で、ミアがとうとう動けなくなった。


銀貨を持ったまま、固まっている。


「おい」

 恒一が小声で言う。

「大丈夫か」

「……大丈夫じゃない」


その返事に、恒一は少しだけ笑った。


「じゃあ深呼吸しろ」

「そういう問題じゃないのよ……」


でも、言われた通り息を吸って、吐く。

それからようやく、サーシャから銀貨を受け取った。


「……ありがとうございます」

 ミアが言う。

その声は少しだけ震えていた。

「でも、礼を言うにはまだ早いですよ」

 サーシャが返す。

「私はまだ見ている途中なので」

「……」

「ただ」

 彼女は少しだけ視線を和らげた。

「昨日より、もう一泊してもいいと思ったのは本当です」


その言葉は、妙に静かだった。


静かなのに、灰白亭の食堂には十分すぎるほど響いた。


ミアは帳面を開き、しばらく迷ってから書いた。


また泊まる


その四文字を見て、恒一も少しだけ黙った。


宿にとって、それはたぶん一番欲しい言葉の一つだ。


朝食が売れる。

持ち帰りが出る。

常連がつく。


どれも大事だ。


でも、“また泊まる”は、その全部の少し先にある。


「……ねえ」

 ミアが言う。

「何だ」

 恒一が答える。


「これ」

「うん」

「かなり、すごくない?」


「かなりすごい」

 恒一が頷く。


「だよね」

 ミアは銀貨を見た。

「今までは、宿泊って“入ればいい”って感じだった」

「そうだな」

「でも今は、“また泊まる”って言われた」

「うん」

「それって」

 彼女は言葉を探した。

「この宿が、宿として見られたってことよね」


サーシャが静かに頷く。


「そうです」

「……」

「少なくとも私は、そういう意味で二泊目を決めました」


ミアはしばらく黙っていた。


それから、少しだけ笑った。

泣くほどではない。

でも、言葉をまっすぐ受け取った顔だった。


「……宿って、すごいわね」

「急だな」

 恒一が言う。

「だって」

 ミアは帳面を閉じた。

「朝ごはんがうまいだけじゃだめで」

「うん」

「部屋がきれいなだけでもだめで」

「うん」

「でも、その両方が少しずつ揃ってくると、“また泊まる”になる」

「そうだな」


その整理は、かなり宿の娘らしかった。


感情だけでなく、構造で掴み始めている。


サーシャが、わずかに首を傾げた。

「変な宿ですね」


「今さら?」

 ミアが言う。


「それも、褒めてます」


「今日は褒めが多いですね」


「今日はそういう日なので」


その言い方に、三人とも少しだけ笑った。


外では、昼の光がゆっくり傾き始めている。


灰白亭は、まだ立て直りきってはいない。

朝食も、部屋も、市場の流れも、全部まだ途中だ。


でも今日、確かなことが一つ増えた。


この宿を選んで泊まる客が生まれたのだ。


ミアはその銀貨を他の売上とは別に小さな袋へ入れた。


「分けるのか」

 恒一が聞く。


「うん」


「なんで」


「これは、宿のぶんだから」


その言い方は、かなりよかった。


食堂の売上でもなく、朝食の売上でもない。

宿として積み上がった分。


彼女はそれをちゃんと分けて受け取ったのだ。


「……ねえ」

 ミアが言う。

「何だ」

「この宿」

「うん」

「もう少しやれるかも」


恒一は頷いた。


「そうだな」


その答えは、昨日までよりずっと自然だった。

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