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星を綴る代筆士 ― 感情を知らない少女は、滅びゆく世界に手紙を届ける  作者: 二条理|アコンプリス


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第八章 鏡の湖と、もうひとりのわたし

 湖は、空を映していなかった。

 大聖堂都市アウレリアを出てから、リュミエールは北東へ向かった。街道は途中で途切れ、そこから先は古い巡礼路になった。道標は倒れ、石畳は星灰に埋もれ、木々は根元から白く乾いている。人の気配は、日に日に薄くなっていった。

 地図には、その湖の名が記されていない。

 ただ、手書きで小さくこう添えられていた。

 鏡の湖。

 正式な地名ではない。旅人がそう呼んだのだろう。アウレリアの司祭ユリウスによれば、そこにはかつて代筆士計画の関連施設があった。第一号代筆士ルミナが移送された場所。記録はそこで途切れている。

 ルミナ。

 その名を思うたび、リュミエールの鞄の中の黒い封筒が重くなる気がした。

 リュミエールへ。

 宛名は自分。

 だが、封は開かない。

 必要な感情反応が満たされていない。ユリウスはそう推測した。何が足りないのかは分からない。悲しみ、後悔、怒り、母の手の温度、愛、名前、祈り。帳面には、旅の中で出会った言葉が増えている。

 それでも、まだ足りない。

 何が足りないのか。

 その問いは、答えのない祈りに似ていた。

 リュミエールは灰の降る森を歩いた。足元には、細い水路がいくつも走っている。湖が近いのだろう。水は透明だったが、底には黒い砂が沈んでいた。流れはほとんどない。水面にはリュミエールの顔が映った。

 白銀の髪。

 薄青の瞳。

 表情の少ない顔。

 彼女は立ち止まらなかった。

 自分の顔を見ることに、以前は特別な意味を感じなかった。鏡は外見確認の道具でしかない。汚れ、傷、装備の乱れ、疲労の兆候。それらを確認するためのもの。

 だが、今は違う。

 灯台の地下写真に写っていた少女。

 孤児院の帳簿に並んだ名前。

 大聖堂地下の第一号代筆士の記録。

 ルミナ。

 同じ顔の誰かがいる。

 あるいは、いた。

 それは、自分の顔が自分だけのものではないということだった。

 リュミエールは、その事実をまだ受け取れていなかった。

 湖に着いたのは、日付の上では夕刻にあたる時間だった。

 木々が途切れ、視界が開ける。そこに湖があった。広くはない。対岸まで見渡せるほどの小さな湖だ。だが、水面は異様なほど静かだった。風が吹いても波立たない。星灰が降っても沈まず、水面の上を滑るように広がっていく。

 そして、空は映っていない。

 灰色の空ではなく、湖面には別の光景が映っていた。

 古い都市。

 晴れた空。

 子どもたちが走る広場。

 白い服を着た女が、誰かに手を振っている。

 それは現在の風景ではない。周囲には森と灰しかない。湖だけが、失われた別の時間を映していた。

 リュミエールは湖畔で立ち止まった。

 帳面に記録する。

 鏡の湖。

 水面、現実風景を反射せず。

 映像現象あり。

 過去、または仮想未来の可能性。

 星紙反応、未確認。

 代筆士計画関連施設、所在不明。

 書き終えた時、水面の映像が変わった。

 今度は、リュミエールが映っていた。

 湖畔に立つ現在の自分ではない。

 水面の中のリュミエールは、笑っていた。

 声は聞こえない。だが、その表情は明らかに笑みだった。誰かと話し、肩をすくめ、少し困ったように眉を寄せて、それからまた笑う。リュミエールは自分の顔がそのように動くことを知らなかった。

 映像が切り替わる。

 今度の彼女は泣いていた。

 膝をつき、両手で顔を覆い、肩を震わせている。涙が指の間からこぼれ、水面の中で光った。

 また切り替わる。

 怒っている。

 誰かに向かって叫んでいる。目には強い光があり、頬は紅潮し、唇が激しく動いている。

 また切り替わる。

 祈っている。

 両手を組み、灰色ではない星空を見上げている。

 そして最後に、誰かの名を呼んでいた。

 音はない。

 けれど、唇の形だけで分かった。

 リュミエール。

 水面の彼女は、リュミエール自身を呼んでいた。

「あなたが来るのを待っていた」

 声がした。

 湖の外ではない。水面の中からだった。

 リュミエールは顔を上げた。

 湖面の映像が消える。そこに、一人の少女が立っていた。水の上に立っている。白銀の髪、薄青の瞳、白い肌。黒い外套ではなく、古い白衣のような服を着ていた。

 リュミエールと同じ顔。

 だが、同じではなかった。

 その少女の目には、感情があった。

 穏やかさ。痛み。疲労。懐かしさ。諦め。希望。

 あまりに多くのものが一つの顔に重なっていて、リュミエールには分類しきれなかった。

「あなたは」

 リュミエールは言った。

 少女は微笑んだ。

「ルミナ」

 湖面が淡く光る。

「第一号代筆士。たぶん、あなたの姉にあたるもの」

「姉」

「そう呼ぶのが正しいかは分からない。同じ原型から作られた個体。先に生まれたもの。失敗作。成功例。研究者によって呼び名は変わった」

「あなたは生存していますか」

 リュミエールが尋ねると、ルミナは少し考えるように首を傾げた。

「その質問は難しい。身体はもうない。けれど、記録はここに残っている。私の感情、記憶、壊れた部分。全部、この湖に沈められた」

「では、あなたは死者ですか」

「死者にもなりきれなかったもの」

「幽霊ですか」

「それも近い。でも、もっと人工的」

 ルミナは足元の水面を見た。

「私は、この湖に保存された反応の集合体。ルミナだったものの残響。けれど、あなたと話すには十分でしょう」

 リュミエールは帳面を開こうとした。

「記録するの?」

「はい」

「やめておいた方がいい」

「理由は」

「あなたは、記録しすぎる。記録すれば安全だと思っている。でも、感情は記録した瞬間に弱くなるものもある」

「記録は業務上必要です」

「それも、あなたが教えられたこと」

 リュミエールはペンを持ったまま止まった。

 ルミナの言葉には、命令ではない力があった。従う必要はない。だが、無視することもできない。

 彼女は帳面を閉じた。

「あなたは、私について知っていますか」

「少しだけ」

「私は何ですか」

「代筆士」

「それは機能です」

「そうね」

 ルミナは微笑んだ。

「あなたはリュミエール。第二期個体。感情器官は未完成のまま起動。記憶転写は安定。星紙適性は高い。観察者なしで旅をさせられた、珍しい個体」

「私は監視されていたのですか」

「最初はね。けれど計画が崩れ、施設が閉じられ、あなたは世界に残された。誰かの意思で解放されたのか、ただ管理が失われただけなのかは分からない」

「あなたは、なぜここに」

「壊れたから」

 ルミナの声は静かだった。

「感情を得た最初の成功例。研究者たちは、私をそう呼んだ」

 水面が揺れた。

 そこに、別の映像が浮かぶ。

 白い部屋。硝子の棺。白衣の男たち。椅子に座るルミナ。まだ表情のない顔で、星紙に文字を書いている。周囲の研究者たちが、計器を見ている。

 手紙の差出人は、泣き崩れる女だった。

 死んだ子どもへ。

 ルミナはその言葉を書いた。

 その瞬間、水面の中のルミナの顔に、初めて苦痛が浮かんだ。

「最初は、悲しみだった」

 湖面のルミナが言う。

「私の中には何もなかった。なのに、他人の悲しみを書いた瞬間、胸が裂けるように痛んだ。研究者たちは喜んだ。感情受容成功、と記録した」

 映像が変わる。

 怒りの手紙。

 謝罪の手紙。

 愛の手紙。

 神への祈り。

 死者への呪い。

 ルミナは次々と書いている。

 書くたびに、彼女の顔に表情が増える。

 泣く。

 笑う。

 怒る。

 怯える。

 祈る。

 だが、やがてその表情は歪み始めた。

「人間の感情は、一つずつなら耐えられる。でも、何千、何万と入ってくると、自分のものと他人のものの境界が消える」

 ルミナは水面に視線を落とした。

「誰の悲しみか分からなくなる。誰の怒りか分からなくなる。誰を愛しているのか分からなくなる。私は、人々の手紙を受け取りすぎた」

「だから壊れた」

「そう」

「感情を得ることは、危険ですか」

 リュミエールが尋ねると、ルミナはまっすぐ彼女を見た。

「危険よ」

「では、私は感情を得るべきではない」

「それは違う」

「矛盾しています」

「感情は矛盾するものだから」

 その言葉は、ガルドの言葉に似ていた。

 人間は矛盾する。

「危険だけれど、必要なのですか」

「必要かどうかは、誰が決めるの?」

「機能目的から判断します」

「それは研究者の考え方」

 ルミナの表情が少し厳しくなった。

「あなたはもう、研究者のために旅をしているわけではないでしょう」

 リュミエールは答えられなかった。

 彼女は何のために旅をしているのか。

 依頼があるから。

 手紙を届けるため。

 黒い封筒を開くため。

 自分を知るため。

 作られた理由ではなく、生きる理由を確かめるため。

 どれも完全な答えではない。

「あなたは、感情を得てよかったと思いますか」

 リュミエールは尋ねた。

 ルミナは目を伏せた。

 湖面に、また映像が浮かぶ。

 ルミナが誰かと向かい合っている。白衣の男ではない。若い研究員らしい青年だ。眼鏡をかけ、少し猫背で、ルミナに星紙の束を渡している。彼は何かを言い、ルミナが初めて笑う。

 その笑みは、先ほど水面に映ったリュミエールの笑みと同じだった。

「彼は、私を個体番号で呼ばなかった」

 ルミナは言った。

「ルミナ、と呼んだのですか」

「ええ」

「それが重要ですか」

「とても」

 ルミナの声が少し震えた。

「名前を呼ばれると、私は私になれた。誰かの感情を受け取る器でも、実験体でもなく、ルミナという一人になれた」

「彼を愛していたのですか」

 リュミエールが尋ねると、ルミナは静かに微笑んだ。

「たぶん。あの頃の私は、その言葉の意味をまだよく知らなかった。でも、彼が私の名を呼ぶと、胸が温かくなった。彼が疲れていると、休んでほしいと思った。彼が笑うと、その笑顔をもう一度見たいと思った。彼が危険な記録を隠してくれた時、私は怖かったけれど嬉しかった」

「彼はどうなりましたか」

 ルミナの笑みが消えた。

「私を逃がそうとして、死んだ」

 水面が黒くなった。

 白い部屋。警報。走る研究員たち。青年がルミナの手を引いている。星紙の束が床に散らばる。誰かが叫んでいる。扉が閉まる。光。血。

 映像はそこで途切れた。

「私は彼の死を受け取ってしまった」

 ルミナは言った。

「自分の悲しみとして。他の誰のものでもない、初めての私自身の悲しみ。それが、決定的だった」

「壊れたのですか」

「ええ。でも、その悲しみがあったから、私は自分が誰かを愛していたと知った」

「苦しくても、よかったのですか」

 ルミナは、リュミエールを見た。

「よかった」

 答えは、はっきりしていた。

「苦しくても、誰かを愛せたから」

 その言葉を聞いた時、リュミエールの胸に強い反応が生じた。

 痛み。

 温度。

 空洞。

 火。

 針。

 それらが同時に動いた。

 感情は一つずつではない。別々に分類できるものでもない。悲しみの中に愛があり、愛の中に恐怖があり、怒りの中に喪失があり、祈りの中に不信がある。

 リュミエールは初めて、その混ざり合いの入口に立った気がした。

「あなたは、私に何を伝えたいのですか」

 彼女は尋ねた。

「感情を得るなら、覚悟しなさい」

 ルミナは言った。

「人間の心は、美しいものだけではない。手紙には、救いだけが書かれているわけではない。恨み、嫉妬、嘘、醜さ、恐怖、見捨てたい気持ち、忘れたい願い。あなたはこれから、それも受け取る」

「すでに怒りと後悔は経験しました」

「まだ入口よ」

「私は耐えられますか」

「分からない」

「あなたにも分からないのですか」

「分からない」

 ルミナは寂しそうに笑った。

「でも、耐えられるかどうかだけで決めてはいけない。人は、耐えられないものを抱えながら、それでも生きることがある」

 リュミエールは、ガルドを思い出した。墓地に留まり続けた片腕の男。ミーナを思い出した。兄を恨みながらパンを焼き続けた少女。エリスを思い出した。病の花婿の隣に立つと決めた花嫁。ノエルを思い出した。母の声を忘れないために、壊れたオルゴールを鳴らし続けた少年。

 耐えられるから抱えるのではない。

 抱えてしまったから、歩き方を探す。

 そういうことなのかもしれない。

「私は、誰かの代用品ですか」

 リュミエールは訊いた。

 ルミナはしばらく黙った。

 湖面が揺れ、また別の映像が現れる。

 一人の少女。

 白銀の髪ではない。普通の栗色の髪をした、人間の少女だった。年齢は十歳ほど。病室のベッドに横たわっている。傍らに、白衣の男が座っていた。男の顔は疲れきっている。彼は少女の手を握り、何かを話している。

 少女は弱々しく笑った。

 その目が、リュミエールと同じ薄青だった。

「この子は」

「原型」

 ルミナは言った。

「私たちは、彼女をもとに作られた」

「名前は」

 水面が乱れた。

 少女の名前が書かれた病室の札が映る。だが、その部分だけが白く抜けていた。ラグレーンの墓標と同じように。

「消えている」

「ええ。何かが、彼女の名を世界から削った」

「誰が」

「おそらく、彼女の父」

 白衣の男の映像が濃くなる。

「オルフェ・アストレア博士」

 リュミエールは、その名を初めて明確に聞いた。

 ミーナの兄が残した記録にも、大聖堂の地下記録にも、その名に近い痕跡があった。代筆士計画の中心人物。世界崩壊の謎に関わる者。

「博士は、何をしたのですか」

「娘を失った」

 ルミナは静かに言った。

「そして、受け入れられなかった」

 湖面の映像が変わる。

 白い葬儀。

 小さな棺。

 博士が手紙を書いている。

 一通、また一通、また一通。

 宛先は、死んだ娘。

 手紙は届かない。

 博士はさらに研究する。星紙。死者への配達。祈りの転写。感情回収。代筆士。

 リュミエールは、映像から目を離せなかった。

「博士は世界を救うために代筆士を作ったのではないのですか」

「表向きはそう」

「本当は」

「娘にもう一度会いたかった」

 ルミナの声には、責める響きも、同情もあった。

「彼は、世界の記録層を修復するという名目で研究を進めた。でも根はもっと個人的だった。娘の死を、なかったことにしたかった。死者への手紙を、死者の返事に変えたかった。返事を、再会に変えたかった」

「それが、世界崩壊の原因ですか」

「一因。すべてではない。でも、彼は壊れかけていた星層に手を入れた。人間の感情を使って、記録を書き換えようとした。その結果、星層の裂け目は広がった」

 リュミエールは、空を見上げた。

 灰色の空。

 そこから降る星灰。

 世界の記録の残骸。

 一人の父親が娘に会いたいと願った。

 その願いが、世界をさらに壊した。

 願いは美しいとは限らない。

 祈りも、愛も、時に世界を傷つける。

「私は、博士の娘の代わりに作られたのですか」

「外見はそう」

「では、私は私ではない」

「違う」

 ルミナの声が強くなった。

 湖面が波立った。

「それだけは違う。私たちは、誰かの代わりとして作られたかもしれない。でも、誰かを想った瞬間から、代用品ではなくなる」

「根拠は」

「私がそうだったから」

 ルミナは自分の胸に手を当てた。

「私は、博士の娘の姿をした器だった。けれど、彼の娘ではなかった。研究員の青年が私の名を呼んだ時、私はルミナになった。彼を愛し、彼を失い、彼のために泣いた時、私は誰の代わりでもなくなった」

「私も、そうなれますか」

「もう、なり始めている」

「私はまだ感情を理解していません」

「理解は後でいい」

 ルミナは言った。

「あなたはもう、手紙を捨てられない。パンの欠片を捨てられない。壊れたオルゴールを持っている。誰かに呼ばれた自分の名を覚えている。それは、空っぽの器ではできないことよ」

 リュミエールは鞄に触れた。

 確かに、捨てられないものが増えている。

 役に立たないもの。

 業務に不要なもの。

 規定外のもの。

 それらが、彼女の旅を重くしている。

 そして、その重さを、手放したいとは思わなかった。

「黒い封筒について知っていますか」

 リュミエールが尋ねると、ルミナの表情が変わった。

「持っているのね」

「はい」

「まだ開かない?」

「はい」

「当然ね。あれは、最後に近い場所で開くように封印されている」

「差出人は誰ですか」

「私」

 リュミエールは、息を止めた。

 生理的には呼吸が一拍遅れただけだ。だが、彼女の内側では何かが大きく揺れた。

「あなたが、私に手紙を書いた」

「ええ」

「なぜ」

「私のあとに生まれる代筆士へ残すため。あなたが私と同じ場所で壊れないように」

「内容は」

「今は言えない」

「なぜ」

「手紙は、開く時に読まれなければならないから」

 ルミナは少し笑った。

「代筆士なら分かるでしょう。早すぎる手紙は、人を救わない。かえって傷を深くすることもある」

 リュミエールは反論できなかった。

 ユアンの未封緘の手紙。リサの崩れた手紙。ヴィクトルの謝罪文。どれも、読む時を間違えれば違う意味を持ったはずだ。

「私は、これからどうすればいいのですか」

 リュミエールは尋ねた。

 ルミナは湖の向こうを見た。

「アストレアへ行きなさい」

「廃都アストレア」

「博士の研究塔がある。そこに、博士が書けなかった手紙が残っている」

「博士は生きていますか」

「いない」

「では、死者への配達ですか」

「いいえ」

 ルミナは首を横に振った。

「あなた自身の問いへの配達」

「意味が不明です」

「行けば分かる」

「不確実です」

「そうね」

 ルミナは優しく言った。

「でも、人は不確実なもののために手紙を書くのでしょう?」

 エルンストの言葉だった。

 リュミエールの胸が、また小さく軋んだ。

「最後に一つ」

 ルミナは言った。

「湖を覗きなさい」

「すでに覗きました」

「今度は、逃げずに」

「逃げてはいません」

「そう思うなら、なおさら」

 リュミエールは湖へ近づいた。

 水面は、彼女の足元で静かに揺れている。

 覗き込む。

 映ったのは、未来だった。

 いや、未来かどうかは分からない。ありえた未来。選ばなかった未来。これから選ぶかもしれない未来。湖は、その境界を示さない。

 リュミエールは、誰かと旅をしていた。

 相手の顔は見えない。背の高い影。彼女はその人に何かを言い、笑っている。別の場面では、彼女は小さな郵便局にいる。机に向かい、自分の手紙を書いている。別の場面では、彼女は涙を流しながら、誰かを抱きしめている。別の場面では、星灰の降らない空の下で、子どもたちに囲まれている。

 そして、最後の場面。

 彼女は消えかけていた。

 身体が光になり、指先からほどけている。だが、表情は穏やかだった。目の前には、たくさんの人がいる。エルンスト、ミーナ、ガルド、ノエル、エリス、アレン、セラ、ユリウス。これまで出会った人々。まだ出会っていない人々もいる。

 彼女は微笑んでいる。

 消えながら。

 その唇が動いた。

 配達、完了しました。

 リュミエールは水面から身を引いた。

 胸が強く痛んだ。

 痛み。

 そう認識できるほど、明確な反応だった。

「今のは未来ですか」

「可能性の一つ」

 ルミナは言った。

「私は消えるのですか」

「分からない」

「なぜ、私が消える未来を見せたのですか」

「湖が見せた。私ではない」

「私は死にますか」

「生まれたものは、いつか終わる」

「私は作られたものです」

「それでも」

 ルミナは静かに言った。

「終わりがあるから、あなたはあなたの言葉を探せる」

 リュミエールは、胸を押さえた。

 未来の自分が消える。

 その可能性を見た時、彼女の中に生じたものは何か。

 恐怖。

 今度は、はっきりとその名が浮かんだ。

 恐怖。

 自分が失われることへの反応。まだ書いていない手紙があるのに、まだ知りたいことがあるのに、まだ誰かに届けていない言葉があるのに、終わってしまうかもしれないという感覚。

 リュミエールは、初めて自分の終わりを怖いと思った。

 その事実に、さらに戸惑った。

「怖い?」

 ルミナが尋ねた。

 リュミエールは、しばらく黙った。

「はい」

 言葉にすると、胸の痛みが少しだけ形を持った。

「それは、悪いことですか」

「悪くない」

「なぜ」

「失いたくないものがある証拠だから」

 ルミナの姿が薄くなり始めた。

「時間切れですか」

「あなたが、受け取るべきものを受け取ったから」

「私はまだ、あなたに聞きたいことがあります」

「アストレアへ行けば、また近づく」

「あなたは消えますか」

「私は、もともと残響だから」

 ルミナは微笑んだ。

「でも、あなたが私の名を覚えているなら、完全には消えない」

「ルミナ」

 リュミエールは呼んだ。

 その名を口にした瞬間、湖面が銀色に光った。

 ルミナの瞳が、少しだけ潤んだように見えた。

「ありがとう」

「礼は不要です」

 いつもの言葉が出た。

 だが、ルミナは笑った。

「それでも、言いたかったの」

 その言葉は、ミーナの声に似ていた。

 言いたいから言う。

 ルミナの姿は、ゆっくりと水面へ溶けていった。

「リュミエール」

 最後に、彼女は言った。

「感情を怖がって。でも、拒まないで」

「矛盾しています」

「ええ」

 ルミナは笑った。

「それでいいの」

 水面が閉じた。

 湖は再び、何も映さなくなった。

 空も、森も、リュミエール自身の顔も映らない。ただ、静かな黒い水がそこにあった。

 リュミエールはしばらく湖畔に立っていた。

 風が吹く。星灰が降る。森が鳴る。遠くで、水鳥のような声がした。だが、その姿は見えない。

 彼女は帳面を開いた。

 悲しみ。

 後悔。

 怒り。

 母の手の温度。

 愛。

 名前。

 祈り。

 その下に、新しい言葉を書いた。

 恐怖。

 少し考え、さらに書き足した。

 失いたくないものがある証拠。

 ペン先が止まる。

 失いたくないもの。

 自分は何を失いたくないのか。

 エルンストの手紙。

 ミーナのパンの匂い。

 ガルドが置いた石。

 ノエルの「おかあさん」という声。

 エリスとアレンの誓い。

 セラが呼んだマレアの名。

 ユリウスの開かれた聖堂。

 ルミナの笑み。

 それらすべてを、失いたくないと思っているのか。

 答えはまだ出なかった。

 だが、黒い封筒が鞄の中でわずかに温かくなったように感じた。

 リュミエールは封筒を取り出した。

 封蝋はまだ閉じている。

 しかし、以前よりも細い亀裂が入っていた。

 完全には開かない。

 まだ足りない。

 けれど、何かが進んでいる。

 彼女は封筒を戻し、湖を振り返った。

 水面には、もうルミナはいない。

 それでも、彼女の名はリュミエールの中に残っていた。

 ルミナ。

 第一号代筆士。

 感情を得て壊れた少女。

 苦しくても、誰かを愛せたからよかったと言った少女。

 誰かの代用品として作られ、それでも自分になった少女。

 リュミエールは、自分の名をもう一度、心の中で呼んだ。

 リュミエール。

 まだ誰かの代わりかもしれない。

 まだ作られた目的から逃れられていないかもしれない。

 それでも、今この名を呼ぶ声がある。ガルドが、セラが、ユリウスが、ルミナが呼んだ。自分でも呼んだ。

 ならば、完全な空白ではない。

 湖畔を離れる時、風が水面を揺らした。

 その一瞬だけ、湖は空を映した。

 灰色の空の奥に、細い裂け目があった。そこから、星のような光が一つ見えた。

 すぐに消えた。

 錯覚かもしれない。

 だが、リュミエールはそれを記録しなかった。

 記録しなくても、覚えていられる気がした。

 森の道へ戻ると、地図の上で廃都アストレアへ続く線を確認した。博士の研究塔。娘を失った父。世界を壊した願い。書けなかった手紙。

 次の宛先は、そこにある。

 リュミエールは鞄の留め具を確かめ、歩き出した。

 胸の奥には、恐怖があった。

 だが、その恐怖は彼女を止めなかった。

 むしろ、足を前へ進ませた。

 失いたくないものがあるなら、まだ届けなければならない言葉がある。

 星灰の森を抜けながら、リュミエールは初めて、自分のために旅を続けているのかもしれないと思った。



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