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星を綴る代筆士 ― 感情を知らない少女は、滅びゆく世界に手紙を届ける  作者: 二条理|アコンプリス


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7/12

第七章 無音の聖堂と、祈らない司祭

 聖堂の鐘は、鳴らないまま吊られていた。

 ラグレーンを出てから七日目、リュミエールは大聖堂都市アウレリアへ入った。都市と呼ばれてはいるが、そこにかつての賑わいはなかった。石畳の通りは星灰に覆われ、両側に並ぶ巡礼者用の宿は半分以上が閉じられている。看板は外され、窓には板が打ちつけられ、聖具店の棚には錆びた燭台だけが残っていた。

 それでも、街の中心にある大聖堂だけは、遠くからでも見えた。

 灰色の空に突き刺さる二本の尖塔。薔薇窓の砕けた正面。石の壁に彫られた無数の天使像。そのどれもが、星灰を被って白く曇っている。かつては金色に輝いていたであろう扉の装飾も、今は鉛のように鈍い。

 鐘楼には、巨大な鐘があった。

 だが、鳴っていない。

 風が吹いても揺れない。人が死んでも鳴らない。婚礼にも、葬儀にも、朝にも夜にも、沈黙したままだという。

 通りの脇で、老婆が祈っていた。

 祈っている、とリュミエールは最初に判断した。老婆は両手を組み、目を閉じ、聖堂の方へ顔を向けていたからだ。だが近づくと、彼女の唇は動いていなかった。手は形だけを保ち、言葉はなかった。

「祈りではないのですか」

 リュミエールが尋ねると、老婆は目を開けた。

「祈っているように見えたかい」

「はい」

「昔の癖だよ」

「言葉は」

「もうない」

「なぜですか」

 老婆は聖堂を見上げた。

「返事のない相手に、同じことを言い続けるのは疲れる」

 リュミエールは帳面を開いた。

 アウレリア。

 旧聖堂都市。

 鐘停止。

 巡礼者減少。

 祈祷習慣の形骸化。

 依頼人、司祭ユリウス。

 依頼内容、神への手紙。

 分類、祈願ではなく告発。

 神への手紙。

 それは、代筆士の規定においても例外的な依頼だった。

 死者への手紙はある。生者への手紙もある。行方不明者、未来の誰か、自分自身、まだ生まれていない子ども。宛先が曖昧な手紙はいくつも存在する。だが、神へ送る手紙は、配達対象として定義されていなかった。

 理由は単純だった。

 宛先の実在確認ができないからである。

 神が存在するかどうかは、信仰の問題であり、代筆士の業務範囲外とされている。実在確認不能な対象へ星紙を用いた場合、反応は不安定になり、書き手の精神状態に影響を及ぼす恐れがある。教育記録にはそうあった。

 しかし、依頼は正式に届いている。

 リュミエールは聖堂の扉へ向かった。

 扉は重かった。両手で押すと、低い軋みがした。中は暗い。高い天井からは星灰が細く降り、床に薄い白を敷いていた。長椅子は整然と並んでいるが、座っている者はほとんどいない。祭壇の奥には、神像があった。

 顔のない神像だった。

 初めからそういう意匠なのか、後から削られたのかは分からない。衣をまとった大きな像が両手を広げている。けれど顔の部分だけが滑らかに消えていた。目も、鼻も、口もない。祈る者を見返すものは、そこにはなかった。

 祭壇の前に、一人の男が立っていた。

 黒い司祭服を着ている。年齢は四十前後。髪は薄い金色で、頬はこけていた。背は高いが、ひどく痩せている。手には古い聖典を持っていた。ただし、その本は閉じられている。

「リュミエールさんですね」

 男は振り返らずに言った。

「はい。あなたがユリウス司祭ですか」

「司祭、という肩書きだけが残っています」

「職務を停止しているのですか」

「祈ることをやめました」

「それでも司祭と呼ばれている」

「人は、古い呼び名をなかなか捨てられません」

 ユリウスは振り返った。

 目の下には濃い影がある。だが、瞳は濁っていなかった。むしろ、眠らずに長く考え続けた者の鋭さがあった。

「依頼を確認します」

 リュミエールは言った。

「あなたは神への手紙を希望しています」

「はい」

「祈願ですか」

「いいえ」

「懺悔ですか」

「いいえ」

「謝罪、告白、確認、依頼、遺言、告発、呪詛、その他のうち、該当するものは」

「告発です」

 ユリウスは即答した。

「私は、神を告発したい」

 聖堂の奥で、星灰が静かに落ちていた。

「神への配達は、成功率を算出できません」

 リュミエールは言った。

「宛先の実在確認ができないためです」

「死者の実在は確認できるのですか」

「死亡した人間の存在記録は確認可能です」

「死後の存在は」

「確認不能です」

「それでも、あなたは死者へ手紙を届けてきた」

「星紙が反応するためです」

「では、神にも反応するかもしれない」

「可能性はあります」

「十分です」

「あなたは、神が存在すると信じていますか」

 ユリウスは、顔のない神像を見た。

「分かりません」

「司祭が?」

「司祭だからこそです」

「意味が不明です」

 ユリウスは小さく笑った。

「信じることは簡単ではありません。とくに、長く祈ってきた者にとっては」

 リュミエールは帳面を開いた。

「手紙の目的を具体化してください」

 ユリウスは祭壇の階段に腰を下ろした。聖典を膝に置く。指先が表紙を撫でた。

「この聖堂には、かつて毎日人が来ました。病人、遺族、婚礼を控えた若者、罪を犯した者、罪を犯された者。彼らは祈りました。救ってください、守ってください、許してください、連れていかないでください、と」

「はい」

「私は、その祈りを聞きました。そして言いました。神はあなたの声を聞いておられます、と」

「神が聞いている証拠は」

「ありません」

「では、虚偽ですか」

 ユリウスは、ゆっくり頷いた。

「そうかもしれません」

「あなたは虚偽を伝え続けていた」

「そうです」

「なぜ」

「そう言わなければ、人が立っていられない時があるからです」

 リュミエールは、その言葉を記録した。

 そう言わなければ、人が立っていられない時がある。

「しかし、星灰は止まらなかった。子どもは死んだ。母親は病み、兵士は戻らず、町は消えた。祈っても、祈らなくても、結果は変わりませんでした」

「それで祈ることをやめた」

「はい」

「神を信じなくなったからですか」

「いいえ」

 ユリウスは顔のない神像を見上げた。

「信じていない相手なら、怒る必要もありません」

 その言葉に、リュミエールの胸の奥で小さな火が灯った。

 怒り。

 ガルドの墓地で知ったもの。

 怒りは、奪われたものを見る。

 ユリウスが見ているのは、何を奪われた場所なのか。

「手紙を書きます」

 司祭は言った。

「最初の一文をお願いします」

 リュミエールは星紙を取り出した。

 祭壇の上に広げると、黒藍の紙は聖堂の暗さを吸い込むように沈んだ。周囲の空気が少しだけ重くなる。

 ユリウスは顔のない神像に向き直った。

「神へ」

 リュミエールは書いた。

 星紙は反応しなかった。

「あなたは、なぜ沈黙しているのですか」

 ペンが走る。

「私は、何度もあなたの名を呼びました。あなたの名で人を慰め、あなたの名で死者を送り、あなたの名で子どもたちの額に手を置きました。彼らは祈りました。私は、あなたが聞いていると言いました」

 リュミエールは書いた。

「しかし、あなたは沈黙した」

 そこで、星紙がわずかに光った。

 リュミエールは目を細めた。

 宛先不明にもかかわらず、反応あり。

 ユリウスは気づいていないのか、続けた。

「なぜ子どもたちを救わないのですか。なぜ母親から声を奪うのですか。なぜ名前を墓から消すのですか。なぜ世界を滅びるままにしているのですか。あなたが全能でないなら、そう言ってください。あなたが善でないなら、そう言ってください。あなたがいないなら、どうかその不在だけでも答えてください」

 その言葉を書いた時、星紙の光が少し強くなった。

 神への手紙に反応している。

 規定上、異常反応として記録すべき現象だった。

「あなたは、返事を求めていますか」

 リュミエールが尋ねると、ユリウスは首を横に振った。

「返事など来ないでしょう」

「では、なぜ書くのですか」

「沈黙に向かって、こちらも黙ったままではいられないからです」

「沈黙への返答」

「ええ」

 ユリウスは立ち上がった。

「私は、神を罵りたいわけではありません。神を捨てたいわけでもない。むしろ逆です。私はまだ、神がいるなら答えるべきだと思っている。その期待が捨てられない。だから怒っている」

 リュミエールは、彼の顔を見た。

 ガルドの怒りは火だった。失われた仲間の名を守るための火。

 ユリウスの怒りは、深い井戸のようだった。底に水があるのか、空洞だけなのか分からない。石を投げても、音が返ってこない。

「あなたは、神を許せない」

「はい」

「しかし、神の存在を完全には否定できない」

「はい」

「その矛盾が、手紙の動機ですか」

 ユリウスは苦笑した。

「代筆士は恐ろしいですね。祈りよりも正確に、人の傷を言い当てる」

「推測です」

「当たっています」

 聖堂の奥で、風が鳴った。

 顔のない神像の足元に、星灰が積もっている。その灰の下に、何かが見えた。石床に彫られた古い模様。リュミエールは祭壇の裏へ回り、灰を手で払った。

 文字があった。

 ただし、聖句ではない。

 古い研究記号に似ていた。

 円。

 星。

 手紙の形。

 そして、見覚えのある語。

 感情回収。

 リュミエールは手を止めた。

「この下に、何かありますか」

 彼女が尋ねると、ユリウスの顔から表情が消えた。

「気づきましたか」

「知っていたのですか」

「ええ」

「説明を求めます」

 ユリウスはしばらく黙っていた。

 やがて、祭壇の脇にある燭台を動かした。重そうに見えたが、下部に仕掛けがあるらしく、燭台は静かに横へ滑った。石床の一部が沈み、階段が現れる。

 地下へ続く階段だった。

「この聖堂は、祈りの場所である前に、実験施設でした」

 ユリウスは言った。

「代筆士計画の?」

「そうです」

 リュミエールは鞄の中の帳簿を意識した。

 孤児院で見つけた、被験体観察記録。

 ルミナ。

 リュミエール。

 ルシア。

 レティシア。

 感情器官、未完成。

「なぜ司祭が知っているのですか」

「この聖堂の司祭には、代々引き継がれてきた秘密がありました。神への祈りを保管する地下室。そう呼ばれていた。私は若いころ、その言葉を信じていました。ここには人々の祈りが集められているのだと」

「実際には」

「研究記録でした」

 ユリウスはランプを持ち、階段を降りた。

 リュミエールも続いた。

 地下は冷たかった。

 石壁には古い管が走っている。ところどころに黒い紙片が貼られ、文字がびっしりと書かれていた。祈りの文に見えるものもある。だが、それらは分類番号で整理されていた。

 悲嘆反応。

 怒り反応。

 喪失語彙。

 愛着表現。

 死者宛て祈願。

 神宛て祈願。

 感情波形、星紙転写適性。

 リュミエールは足を止めた。

「これは」

「人々の祈りを、感情の記録として集めたものです」

 ユリウスは言った。

「ここでは、祈りは信仰ではなく、材料だった」

「材料」

「世界の記録層を書き換えるための」

 地下室の奥には、大きな円形の部屋があった。

 中央には、硝子の棺のような装置が置かれている。灯台の写真で見たものと似ていた。周囲には古い机と器具、壁一面の棚。棚には星紙が積まれている。ほとんどは黒く焦げ、読めない。

 部屋の壁には、金属板が掲げられていた。

 代筆士計画 祈祷転写実験室。

 被験体群、第一期。

 目的、感情集積による星層修復。

「星層修復とは何ですか」

 リュミエールは尋ねた。

「世界の記録層を、当時の研究者たちはそう呼んでいました」

「記録層」

「人間の言葉、記憶、名前、死者の痕跡。それらが世界のどこかに記録されているという仮説です。星灰は、その層が剥がれ落ちたものだと考えられていた」

「星灰は、世界の記録の残骸」

「そうです」

 リュミエールは、これまで見てきた現象を思い出した。

 名前が墓から消える。

 記憶が欠ける。

 手紙が星紙で死者へ届く。

 灰が文字のように光る。

 ばらばらだった現象が、一つの線で繋がり始める。

「代筆士は、何のために作られたのですか」

 リュミエールが問うと、ユリウスは彼女を見た。

「人間の感情を集めるためです」

「私たちは、神に祈るための存在ではない」

「いいえ」

「人間の代わりに手紙を書くためだけでもない」

「本来は違います」

 ユリウスは、中央の装置に手を置いた。

「人々の悲しみ、怒り、愛、後悔、祈り。それらを星紙へ転写し、代筆士を媒介として集積する。十分な感情が蓄積されれば、壊れた星層を修復できる。そう考えられていた」

「感情を持たない個体に、感情を集める」

「そうです」

「矛盾しています」

「だから失敗した」

 ユリウスの声は低かった。

「最初の個体は、感情を受け止めきれなかったと記録されています。次の個体は感情器官が未完成。さらに次の個体は、記憶転写に異常を起こした。研究は中断され、施設は封印された。表向きには、聖堂の地下墓所として扱われた」

 リュミエールは、鞄から孤児院の帳簿を取り出した。

「この記録と一致します」

 ユリウスは目を細めた。

「どこでそれを」

「孤児院です」

「聖ミリアですか」

「はい」

「そこにも施設があったのか」

 彼は苦い顔をした。

「どれだけ広がっていたんだ」

 リュミエールは帳簿を開いた。

 ルミナ。

 リュミエール。

 ルシア。

 レティシア。

「ルミナとは誰ですか」

 ユリウスは答える前に、棚から一冊の記録を探し出した。表紙には「第一号」と書かれている。中の多くは破損していたが、いくつかのページは読めた。

 第一号代筆士、ルミナ。

 感情受容反応、初期成功。

 悲嘆、怒り、恐怖、愛着、祈願を順次転写。

 反応過多。

 自我境界の不安定化。

 湖施設へ移送。

 以後、記録断絶。

「湖施設」

 リュミエールは呟いた。

「場所は」

「ここには書かれていません」

「ルミナは生存していますか」

「分かりません」

「私は、ルミナと同じ顔ですか」

 ユリウスは答えなかった。

 それが答えだった。

 リュミエールは、自分の顔に触れた。

 顔は、ただの形である。そう教えられてきた。識別のための外見。代筆士の身体は、業務遂行に最適化されている。彼女はそう認識していた。

 だが、灯台の写真に写っていた少女。

 孤児院の帳簿に並ぶ名前。

 ルミナ。

 リュミエール。

 ルシア。

 レティシア。

 同じ顔の少女たち。

 それは識別ではなく、複製に近い。

「私は、誰かの代わりですか」

 言葉は、彼女の口から自然に出た。

 ユリウスは静かに言った。

「私には分かりません」

「分からない」

「ただ、記録上、代筆士たちは同一原型をもとに作られたとあります」

「原型」

「ある少女の姿です」

「その少女の名前は」

 ユリウスは記録をめくった。

 だが、該当箇所は白く抜けていた。

 名前が消えている。

「分かりません」

 リュミエールは、その白い空白を見つめた。

 誰かの姿をもとに作られた。

 しかし、その誰かの名はない。

 名前のない墓標と同じだ。

 胸の奥に、細い針のような感覚が生じた。

 自分の名前は、誰かに呼ばれるためのものなのか。

 それとも、誰かの喪失に貼られた札なのか。

 リュミエール。

 その名は、誰がつけたのか。

 答えはなかった。

「あなたは神を告発したいと言いました」

 リュミエールは、ユリウスへ向き直った。

「はい」

「しかし、この施設を見る限り、人々の祈りを材料として扱ったのは神ではなく人間です」

「そうです」

「ならば、告発対象は神ではなく、研究者ではありませんか」

 ユリウスは少し笑った。

「あなたは正確です」

「では、手紙の宛先を変更しますか」

「いいえ」

「なぜ」

 ユリウスは中央の硝子棺を見た。

「人間が罪を犯したことは分かっています。研究者たちが人の祈りを材料にしたことも、代筆士を作ったことも、許されることではない。ですが、それでも私は問いたい。神よ、あなたはそれを見ていたのですか、と」

「見ていた場合、なぜ止めなかったのか」

「そうです」

「見ていなかった場合」

「それはそれで、神ではない」

 ユリウスは聖典を抱え直した。

「私の手紙は、研究者への告発では足りません。私は、人間が神の沈黙を利用したことを告発したい。そして神が、本当にいるなら、その沈黙の責任を問いたい」

 リュミエールは星紙を見た。

 まだ燃やされていない神への手紙。

 その紙は、地下室に入ってから光を保っている。宛先不明でありながら、反応は消えない。神に反応しているのか。人々の祈りの記録に反応しているのか。あるいは、代筆士計画そのものに反応しているのか。

「手紙を続けます」

 ユリウスは言った。

 二人は地上の聖堂へ戻った。

 祭壇の前に星紙を置き、リュミエールは再びペンを取った。

 ユリウスは顔のない神像へ向かって立つ。

「神へ」

 彼は続けた。

「私は、あなたが沈黙していることを責めていました。けれど今日、私は人間の沈黙も見ました。祈りを集め、悲しみを測定し、怒りを分類し、愛を材料にした者たちの沈黙です。彼らは、人々の声を聞いた。聞いたうえで、道具にした」

 リュミエールは書いた。

「もしあなたが存在するなら、あなたの名は利用されました。あなたの沈黙は、許可として扱われました。ならば、問います。沈黙は無罪ですか。見ているだけの者に、責任はありませんか」

 聖堂の空気が重くなった。

 長椅子に座っていた数人が顔を上げた。祈らない老婆も、扉の近くに立っていた。誰も止めなかった。神への告発を、聖堂の中で聞いている。

「私は、もう神のために祈れません」

 ユリウスは言った。

「けれど、人々のために扉を開けることはできます。祈れない者も、怒る者も、信じられない者も、ここに入れるようにします。神が答えなくても、人は互いの声を聞くことができるからです」

 星紙が強く光った。

 ユリウスは少し息を止めた。

「最後の一文を」

 リュミエールが促すと、彼は神像を見上げた。

「神よ。もしあなたが沈黙するなら、私はあなたの沈黙まで、人々のために開きます」

 リュミエールは書いた。

 手紙は完成した。

「配達しますか」

「はい」

「神への配達は、結果を保証できません」

「知っています」

「反応が発生しない可能性があります」

「それでも構いません」

「反応が発生した場合、解釈不能の可能性があります」

 ユリウスは微笑んだ。

「神の返事が分かりやすいものであるはずがありません」

 リュミエールは火を入れた。

 星紙の端が燃える。

 炎は青くなかった。

 白かった。

 聖堂の中のすべての星灰が、その光に反応した。床に積もった灰、神像の肩に積もった灰、長椅子の隙間に入り込んだ灰。それらが一斉に淡く浮かび上がる。

 手紙の文字は、燃えながら上へ昇った。

 これまでの死者への配達では、灰は海へ落ちたり、墓へ吸い込まれたり、封鎖壁へ流れたりした。だが、今回は違った。文字は煙にならず、光の線となって聖堂の天井へ向かう。薔薇窓の割れた穴を通り、灰色の空へ抜けていく。

 誰も声を出さなかった。

 白い光が空へ消えた瞬間、鐘楼で音がした。

 巨大な鐘が、わずかに揺れた。

 鳴った、とは言い切れない。

 音は出なかった。

 ただ、長く沈黙していた金属が、内部で震えたような低い気配が聖堂全体に伝わった。

 祈らない老婆が、膝をついた。

 別の男が顔を覆った。

 ユリウスは、目を閉じた。

「返事ですか」

 彼は尋ねた。

「判定不能です」

 リュミエールは答えた。

「そうですか」

「はい」

「でも、聞こえた気がしました」

「音は観測されていません」

「ええ」

 ユリウスは顔を上げた。

「それでも、聞こえた気がした」

 リュミエールは、否定しなかった。

 聖堂の地下へ戻ると、変化が起きていた。

 中央の硝子棺の横にある壁が、光っていた。古い記録の棚の奥。そこには、昨日までは見えなかった小さな扉が現れている。金属製で、星紙と同じ黒藍色をしていた。

 ユリウスが鍵を探そうとしたが、リュミエールが近づくと、扉は静かに開いた。

 中には、一通の封筒があった。

 黒い封筒。

 宛名が書かれている。

 リュミエールへ。

 彼女は手を伸ばした。

 封筒は冷たかった。星紙ではない。だが、同じ素材を含んでいるように見えた。封蝋には、円と星と手紙の紋章が押されている。

「開けますか」

 ユリウスが尋ねた。

 リュミエールは封筒を見た。

 自分に宛てられた手紙。

 エルンストの手紙もそうだった。だが、これは違う。これは、代筆士計画の内部から出てきた。誰が書いたのか分からない。いつ書かれたのかも分からない。なぜ自分の名があるのかも不明。

 封を切ろうとした。

 だが、封蝋は動かなかった。

 刃を当てても、指で押しても、開かない。

「封印されています」

 リュミエールは言った。

「条件付きかもしれません」

 ユリウスが記録を見ながら言った。

「代筆士計画では、一定の感情反応を満たすまで開かない星紙封印が使われていたようです」

「一定の感情反応」

「はい」

「私は、まだ条件を満たしていない」

「おそらく」

 リュミエールは封筒を鞄に入れた。

 エルンストの手紙。

 ノエルの壊れたオルゴール。

 エリスとアレンの誓約文。

 レオの木札。

 代筆士計画の帳簿。

 そして、自分に宛てられた開かない手紙。

 荷物は増えていた。

 物理的な重量だけではない。

 どれも、彼女の内側に何かを残していく。

「司祭」

 リュミエールはユリウスを見た。

「私は、何のために作られたのですか」

 ユリウスは答えなかった。

 しばらく考えたあと、静かに言った。

「それは、あなたを作った者にしか分からない問いです」

「作った者は、おそらくもういません」

「では、あなたが決めるしかありません」

「作られたものが、自分の目的を決められるのですか」

「人間も似たようなものです」

「人間は作られた存在ですか」

「生まれた存在です」

「違いは」

 ユリウスは少し笑った。

「私にも、はっきりとは分かりません」

「司祭でも」

「司祭でも」

 彼は顔のない神像の方を見上げた。

「ただ、作られた理由と、生きる理由は同じではないと思います」

 リュミエールは、その言葉を帳面に書いた。

 作られた理由と、生きる理由は同じではない。

 翌朝、大聖堂の扉は開かれていた。

 ユリウスが開けたのだという。何年も半分だけ閉じられていた大扉を、町の者たちと一緒に押し開けた。星灰が中へ入る。寒さも入る。だが、同時に外の空気が流れ込んだ。

 聖堂の中には、祈る者も、祈らない者もいた。

 老婆は長椅子に座り、手を組んではいなかった。ただ、隣の若い母親の話を聞いていた。母親は星灰病の子どものことを話している。ユリウスは祭壇の前ではなく、扉の近くに立って人々を迎えていた。

「祈らないのですか」

 リュミエールが尋ねると、彼は首を横に振った。

「今朝は、聞くことにしました」

「神ではなく、人の声を」

「はい」

「それが司祭の仕事ですか」

「少なくとも、今日の私の仕事です」

 ユリウスは、リュミエールの鞄を見た。

「封筒は大切に」

「はい」

「いつか開く時が来るでしょう」

「条件は不明です」

「なら、旅を続けるしかありませんね」

 旅を続ける。

 これまで、リュミエールにとって移動は業務だった。依頼があるから行く。手紙があるから届ける。宛先があるから進む。

 しかし今は、少し違っていた。

 封筒を開くため。

 自分が何者かを知るため。

 作られた理由ではなく、生きる理由を確かめるため。

 それらは業務ではない。

 では、何なのか。

 まだ言葉はなかった。

 聖堂を出る前に、ユリウスが呼び止めた。

「リュミエールさん」

「はい」

「もし神から返事が来たら、私に届けてください」

「神の返事を識別できる保証はありません」

「それでも」

「分かりました」

 ユリウスは微笑んだ。

「それから、あなたは神に祈りますか」

「祈りの機能はありません」

「そうですか」

「ですが」

 リュミエールは、顔のない神像を一度見た。

「問うことはできます」

 ユリウスの目がわずかに見開かれた。

「それは、祈りに近いかもしれません」

「そうですか」

「ええ」

 リュミエールは聖堂を出た。

 外では星灰が降っている。鐘はまだ鳴らない。だが、鐘楼の中で、巨大な金属がほんの少しだけ光っているように見えた。

 錯覚かもしれない。

 彼女は、そう記録しなかった。

 通りを歩きながら、帳面を開いた。

 悲しみ。

 後悔。

 怒り。

 母の手の温度。

 愛。

 名前。

 その下に、新しい言葉を書こうとした。

 祈り。

 だが、ペンが止まった。

 ユリウスの手紙は、祈りではなく告発だった。だが、その根には返事を求める心があった。沈黙に向かって黙っていられないこと。答えがないと知りながら問うこと。存在するかどうかも分からない相手へ、それでも言葉を投げること。

 それを祈りと呼ぶのかもしれない。

 リュミエールは書いた。

 祈り。

 返事の保証がない相手へ、それでも言葉を送ること。

 書いたあと、彼女は空を見上げた。

 灰色の空。

 壊れた星層。

 そこから降る、世界の記録の残骸。

 神がいるかどうかは分からない。

 けれど、人間はその空へ向かって手紙を書く。

 死者へ。

 神へ。

 まだ生きている誰かへ。

 そして、いつかの自分へ。

 リュミエールは鞄の中の黒い封筒を意識した。

 リュミエールへ。

 誰が書いたのか。

 何を伝えようとしているのか。

 まだ開かない。

 まだ、足りないものがある。

 大聖堂都市を抜ける道の先には、湖があると聞いた。

 鏡の湖。

 死者ではなく、ありえた未来を映す湖。そこに近づいた者は、自分が選ばなかった人生に囚われるという。

 湖施設。

 ルミナの記録にあった言葉。

 第一号代筆士。

 感情を得た最初の成功例。

 自分と同じ顔をした少女。

 リュミエールは、灰の降る道を歩き出した。

 背後では、聖堂の扉が開いたままになっている。

 祈らない者たちの声が、そこから少しずつ外へ漏れていた。

 鐘は鳴らない。

 それでも、その沈黙はもう、完全な沈黙ではなかった。



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