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星を綴る代筆士 ― 感情を知らない少女は、滅びゆく世界に手紙を届ける  作者: 二条理|アコンプリス


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9/12

第九章 博士が書けなかった手紙

 廃都アストレアには、門がなかった。

 かつては高い外壁に囲まれた学術都市だったという。星層研究の中心地。医師、天文学者、神学者、言語学者、錬金術師、記録士、そして代筆士計画に関わる者たちが集められた都市。地図には、そう記されている。

 けれどリュミエールが辿り着いた時、そこに都市を守るものは何も残っていなかった。

 外壁は崩れ、門柱は倒れ、通りの輪郭は灰に埋もれている。建物は骨組みだけになり、窓には硝子がなく、白い星灰が室内にまで積もっていた。通りを歩く者はいない。商店もない。子どもの声も、鐘の音も、祈りの声もない。

 ただ、紙だけが舞っていた。

 星灰ではない。

 古い手紙だった。

 破れた封筒、焦げた便箋、宛名の消えた紙片。風が吹くたびに、廃都の通りを白い鳥の群れのように舞う。手に取ろうとすると、紙は脆く崩れた。文字のほとんどは読めない。だが、たまに一語だけ残っているものがあった。

 返事を。

 まだ。

 娘へ。

 許して。

 リュミエールは、通りの中央で足を止めた。

 胸の奥に、鏡の湖で得た恐怖がまだ残っている。

 失いたくないものがある証拠。

 そう帳面に書いた。書いたあと、その言葉は消えなかった。むしろ、歩けば歩くほど輪郭を増している。恐怖は彼女の足を止めなかった。けれど、何かを選ばせようとしている。

 廃都アストレア。

 ここに、オルフェ・アストレア博士の研究塔がある。

 代筆士計画の中心人物。

 娘を失った父。

 死者への手紙を研究し、星層へ手を入れた者。

 世界崩壊の裂け目を広げた者。

 ルミナは言った。

 博士は、世界を救いたかったのではない。娘にもう一度会いたかった。

 リュミエールは、鞄の中の黒い封筒を意識した。

 封はまだ開かない。

 だが、鏡の湖を離れた後、封蝋には細い亀裂が入っていた。

 何かが近づいている。

 そう判断するしかなかった。

 塔は、都市の中心に立っていた。

 天を突くような白い塔。だが、その白さは清潔なものではない。星灰に覆われ、壁はところどころ剥落し、窓は黒い穴になっている。頂上付近には巨大な天文観測用の環があり、錆びた金属の輪が傾いたまま空を向いていた。

 塔の入口には、銘板が残っていた。

 アストレア星層研究所。

 その下に、小さく刻まれた名前がある。

 所長 オルフェ・アストレア。

 リュミエールはその文字に触れた。

 冷たい。

 ただの金属だ。人の罪も、喪失も、狂気も、そこには残っていない。だが、その名を見た瞬間、胸の中で何かが強く握られた。

 怒り。

 ガルドから学んだ感情。

 奪われたものが、まだ自分の中で生きている証拠。

 自分から何が奪われたのか、リュミエールにはまだ分からない。だが、博士の名を見た時、彼女は確かに怒りに近いものを感じた。

 塔の扉は開いていた。

 中へ入ると、空気が変わった。

 外は風と灰の匂いがした。塔の中には、紙と薬品と古い鉄の匂いが残っていた。円形の玄関ホールには、割れた硝子ケースが並び、星層に関する模型が倒れている。壁には、星空を模した巨大な図が描かれていた。だが、星の位置を示す金属片は多くが剥がれ落ち、床に散らばっている。

 リュミエールは帳面を開いた。

 廃都アストレア。

 星層研究所。

 外部損壊、中程度。

 内部資料、残存可能性あり。

 目的、オルフェ・アストレア博士の記録調査。

 関連、代筆士計画。

 関連、世界崩壊原因。

 関連、黒い封筒。

 書き終えた時、塔の奥で紙の擦れる音がした。

 風ではない。

 リュミエールは顔を上げた。

 廊下の向こうに、白い影が見えた。

 人影ではない。光でもない。星灰が集まって、人の形を作りかけているように見えた。それはすぐに崩れ、紙片になって床へ落ちた。

 そこには、一通の封筒があった。

 宛名は消えている。

 差出人だけが読めた。

 オルフェ・アストレア。

 リュミエールは封筒を拾った。中の紙は脆い。開くと、途中まで書かれた文章があった。

 今日も、君に返事を書けなかった。

 それだけだった。

 リュミエールは、その一文を見つめた。

 返事を書けなかった。

 博士は、娘へ手紙を書いていたのではないのか。手紙は廃都中に舞っている。だが、それは返事ではなかったのかもしれない。

 問い。

 謝罪。

 弁明。

 祈り。

 博士は、娘からの返事を求め続けた。だが、本当に書けなかったのは、自分から娘へ向けた返事だったのかもしれない。

 塔の一階には、資料室があった。

 扉は壊れていた。中には棚が並び、紙束が床に散乱している。多くは星灰に触れて文字が消えていたが、奥の金属棚には密閉箱が残っていた。リュミエールは箱の留め具を外し、中の資料を確認した。

 星層損傷観測記録。

 祈祷転写実験。

 感情波形と星紙応答。

 死者通信仮説。

 代筆士計画、初期設計。

 彼女は、代筆士計画の資料を開いた。

 研究目的。

 一、星灰現象による記録層劣化の修復。

 二、人間の強感情を星紙へ転写し、安定化させる技術の確立。

 三、感情受容体としての代筆士個体の運用。

 四、死者記録への干渉可能性の検証。

 文面は冷たかった。

 人間の悲しみも、怒りも、祈りも、すべて「強感情」として分類されている。ノエルの涙も、エリスの誓いも、ガルドの怒りも、この資料の上では波形と反応値になる。

 リュミエールはページをめくった。

 原型情報。

 その項目は黒く塗りつぶされていた。

 いや、塗りつぶされたのではない。名前だけが消えている。

 原型個体。

 オルフェ・アストレア博士の実子。

 年齢、十歳。

 星灰病により死亡。

 死亡後、博士により記録保全処理。

 以後、代筆士個体の外見原型として登録。

 名前の欄は白い空白。

 リュミエールは、その空白に指を置いた。

 自分の顔の原型となった少女。

 博士の娘。

 名の消えた子ども。

 世界のどこからも名前を削られた存在。

 ルミナが言っていた。何かが、彼女の名を世界から削った、と。

 博士なのか。

 博士は、娘を忘れたくなかったのではないのか。なぜ名を消す必要があったのか。

 資料の続きには、こうあった。

 注記。

 原型個体名は、星層干渉実験により高負荷対象となるため、記録上から一時隔離する。

 名前の保持は、死者記録の固定化を招き、改変実験の妨げとなる。

 リュミエールの胸が冷たくなった。

 博士は、娘の名前を消した。

 忘れたからではない。

 会いたかったから。

 死を固定させないために。娘が死者として世界に縫いとめられるのを避けるために。名前を消せば、死者記録を改変できる。もう一度、生きている状態へ書き換えられるかもしれない。

 名前は存在を世界に縫いとめる針。

 ラグレーンで、彼女はそう書いた。

 博士は、その針を抜いたのだ。

 娘を救うために。

 娘を世界からほどいた。

「違う」

 リュミエールは、思わず声に出した。

 誰もいない資料室に、その声だけが落ちた。

「それは、違う」

 何が違うのか。

 合理的には、博士の行動には目的がある。死者記録固定化を避けるための名前隔離。星層改変実験のための措置。娘の復元可能性を高める仮説上の手段。

 だが、それは違う。

 セラが墓前で呼んだマレアの名。ノエルが母を呼んだ声。エリスが何度でも名乗ると言った言葉。それらを思えば、博士の行為は愛ではなかった。

 少なくとも、愛だけではなかった。

 愛の名をした暴力だった。

 リュミエールは、資料を鞄に入れず、その場に戻した。

 この冷たい紙を持って歩きたくなかった。

 それも、判断としては不合理だった。

 塔の螺旋階段を上る。

 二階には実験室があった。硝子管、金属の椅子、計測器、焦げた星紙。壁には、無数の手紙が貼られていた。すべて同じ宛先だった。

 娘へ。

 ただし、名前はない。

 愛する娘へ。

 私の小さな星へ。

 君へ。

 もう一度だけ、私の声を聞いてくれ。

 返事をしてくれ。

 起きてくれ。

 なぜ黙っている。

 私はまだ、終わっていない。

 君も終わっていないはずだ。

 リュミエールは一通ずつ見ていった。

 最初の手紙は、まだ父親の悲しみだった。

 君のいない部屋に入れない。

 君の椅子がそのままだ。

 朝になると、君の咳が聞こえないことに驚く。

 私は、今日も君のために水を温めてしまった。

 次の手紙は、祈りだった。

 神よ、返してください。

 私の命でよい。

 私の記憶でよい。

 私の名でよい。

 あの子を返してください。

 さらに後の手紙は、研究記録に近づいていく。

 死者記録への干渉、微弱反応あり。

 星紙への父性悲嘆転写、安定。

 原型名削除後、波形変動。

 復元可能性、理論上維持。

 そして終盤の手紙は、もはや手紙ではなかった。

 返事をしろ。

 沈黙するな。

 私は世界を差し出した。

 なぜ戻らない。

 君が戻らないなら、世界に意味はない。

 リュミエールは、その最後の紙の前で立ち止まった。

 世界に意味はない。

 博士は、自分の喪失で世界を測った。

 そして、世界を壊した。

 ガルドの怒りが胸に戻ってきた。ユリウスの告発も。セラの名を呼ぶ声も。ノエルの「おかあさん」も。

 この人は、どれだけの名前を消したのか。

 この人の願いのために、どれだけの手紙が届かなくなったのか。

 その怒りは、今度こそ自分のもののように感じた。

 だが、壁に貼られた最初の手紙を見ると、怒りだけではいられなかった。

 君の椅子がそのままだ。

 朝になると、君の咳が聞こえないことに驚く。

 その言葉は、父親のものだった。

 リュミエールには父親がいない。母親もいない。だが、ノエルとリサを見た。エルンストとエリナを見た。失った者が、何度も同じ不在に驚くことを知っている。

 博士もまた、最初から怪物だったわけではない。

 喪失が、人を怪物へ近づけた。

 その事実は、怒りを消さなかった。

 ただ、怒りを単純にしてくれなかった。

 三階は、子どもの部屋だった。

 研究塔の中に、不自然なほど小さな部屋が残っていた。壁紙は星柄。棚には絵本。ベッドは小さく、枕元には木製の鳥の玩具が置かれている。窓際には、子ども用の机と椅子。机の上には、未完成の絵があった。

 灰色の空ではない。

 青い空。

 その下に、白い塔と、手をつなぐ二人の人物。

 片方は白衣の男。

 もう片方は、薄青の目をした少女。

 絵の隅に、文字がある。

 おとうさんへ。

 その下に、名前が書かれていたはずの場所があった。

 だが、そこも白く抜けている。

 リュミエールは絵を手に取った。

 紙は古い。だが、子どもの筆圧はまだ残っている。線は不安定だが、明るい。塔はまっすぐではない。父親の顔は大きすぎる。少女の手は丸い。けれど、そこには確かに世界を愛していた子どもの目がある。

 博士の娘は、世界を描いていた。

 父と手をつなぐ青空の世界。

 その父が、娘の名を消し、世界を壊した。

 リュミエールは絵を元の場所に戻した。

 机の引き出しに、小さな紙束が入っていた。子どもの字で書かれた短い手紙だった。

 おとうさんへ。

 きょうはせきがすくなかったです。

 だから、あしたはそとにいきたいです。

 おとうさんへ。

 ほしのはなしを、またしてください。

 ほしは、どうしておちてこないのですか。

 おとうさんへ。

 わたしがねむっているあいだも、せかいはあるのですか。

 最後の一通は、途中で止まっていた。

 おとうさんへ。

 もし、わたしが

 その先はない。

 手が震えたのか、インクが滲んでいる。

 リュミエールは、長くその紙を見つめた。

 もし、わたしが。

 何を書こうとしたのか。

 死んだら。

 いなくなったら。

 忘れたら。

 眠ったままになったら。

 答えはない。

 博士は、この続きを一生探したのかもしれない。

 塔の最上階へ続く階段は、途中で崩れていた。

 だが、代筆士の身体能力なら越えられる。リュミエールは壊れた段を慎重に踏み、壁の突起に手をかけて上った。星灰が降り積もり、石は滑りやすい。足元が一度崩れたが、彼女は無言で体勢を戻した。

 最上階は、博士の私室兼観測室だった。

 天井の半分は開いている。巨大な天文環が頭上で錆びつき、灰色の空を測るように傾いていた。部屋の中央には机がある。机の周囲には、膨大な手紙が積まれていた。

 すべて、同じ筆跡。

 オルフェ・アストレア。

 リュミエールは机へ近づいた。

 上に置かれていたのは、一冊の日誌だった。

 表紙はひび割れ、留め金は錆びている。だが、ページは比較的きれいだった。博士が最後まで使っていたものだろう。

 彼女は開いた。

 最初のページには、こう書かれていた。

 私は世界を救いたい。

 次のページ。

 正確には、そう言うことにした。

 リュミエールは、目を細めた。

 日誌は、独白だった。

 私は世界を救いたい。

 そう言えば、人は協力する。

 そう言えば、資金も、人材も、許可も得られる。

 星灰は現実の脅威だ。星層は確かに壊れている。修復は必要だ。

 その点に嘘はない。

 だが、本当のことを書けば、誰も私を許さないだろう。

 私は世界を救いたいのではない。

 娘を失った私を、救いたい。

 リュミエールの手が止まった。

 それは、プロットの中で知っていた言葉ではない。

 実際に博士の手で書かれた、告白だった。

 彼女は続きを読んだ。

 娘の死は、世界の誤記である。

 私はそう考えた。

 こんなにも愛されていた子が、十歳で死ぬはずがない。

 あの子が私より先に消えるなど、世界の方が間違っている。

 ならば、記録を直せばよい。

 最初は本気で、そう思っていた。

 死を否定することと、娘を愛することの区別がつかなかった。

 リュミエールは、ページをめくる。

 代筆士計画は、成功しつつある。

 感情の転写は可能だ。

 死者宛ての言葉は、星層へ届く。

 ルミナは反応した。

 彼女は泣いた。

 泣いたのだ。

 私は喜んだ。

 その涙が、彼女のものか、材料にされた誰かのものかを考えなかった。

 私は、また一人の子を利用した。

 ルミナが私を見た時、私は娘の顔を見た。

 だが、彼女は娘ではなかった。

 それを知っていたのに、知らないふりをした。

 ページの端に、インクの染みがある。

 涙の跡かもしれなかった。

 さらに読む。

 第二期個体、リュミエール。

 感情器官、未完成。

 反応は安定している。

 ルミナのような破綻はない。

 研究者たちは成功に近づいたと言う。

 だが、あの子は空白だ。

 空白のまま、人の悲しみを書かされる。

 私は何をしているのか。

 リュミエール。

 博士は、自分の名を書いていた。

 リュミエールは、その文字を見た。

 自分を作った者の一人。あるいは、直接作った者。博士はリュミエールを空白と呼んだ。だが、その空白に気づいても、実験を止めなかった。

 怒りが戻る。

 同時に、別のものもあった。

 博士は迷っていた。

 だが、迷っても止まらなかった。

 その罪は軽くならない。

 日誌の終盤では、文字が乱れていた。

 星層干渉実験、失敗。

 娘の記録、復元不能。

 原型名の消失が進行。

 世界記録の裂け目拡大。

 星灰濃度上昇。

 各地で名前消失、記憶欠損、死者反応異常。

 私がやった。

 私が裂け目を広げた。

 世界は最初から壊れかけていた。

 だが、私が傷を広げた。

 私は、娘を取り戻せなかった。

 その代わり、世界から多くの子の名を奪った。

 多くの親に、私と同じ喪失を与えた。

 それなのに、まだ私は手紙を書いている。

 何と書けばいい。

 愛している、と書けばいいのか。

 すまない、と書けばいいのか。

 戻ってきてくれ、と書けばいいのか。

 許してくれ、と書けばいいのか。

 どれも違う。

 私は、娘への手紙を書いているふりをして、自分への弁明を書いていた。

 最後のページには、短い一文があった。

 今日も、君に返事を書けなかった。

 それで日誌は終わっていた。

 リュミエールは、長い時間、日誌を開いたまま立っていた。

 博士は怪物だったのか。

 父親だったのか。

 研究者だったのか。

 罪人だったのか。

 そのすべてだった。

 エルンストは五十年遅れで妻へ返事を書いた。ミーナは兄へ怒りを返した。ガルドは許せない上官へ呪いを書いた。ノエルは母へありがとうを書いた。エリスとアレンは互いの嘘を手紙にした。セラは名の消えた祖先へ名前を返した。ユリウスは神の沈黙へ告発を書いた。

 だが、博士は書けなかった。

 書き続けたのに、返事を書けなかった。

 娘へではなく、娘の死に対して。

 自分が壊した世界に対して。

 作った代筆士たちに対して。

 自分自身の罪に対して。

 机の奥に、小さな箱があった。

 鍵はかかっていない。中には、一枚の星紙が入っていた。

 これまで見た星紙とは違っていた。黒藍ではなく、ほとんど透明に近い。だが、角度を変えると、内部に無数の文字が流れている。誰かの手紙の断片。祈り。名前。謝罪。怒り。愛。

 箱の蓋の裏に、博士の字で説明があった。

 最後の星紙。

 全感情集積体が、自身の言葉で記述することにより、星層裂傷の縫合が可能。

 ただし、書き手は記録層へ転写され、個体としての存在を維持できない可能性が高い。

 必要条件。

 悲嘆、後悔、怒り、愛着、恐怖、祈願、自己意志。

 特に、自己意志の発現が不可欠。

 リュミエールは、その星紙を見つめた。

 世界を修復する方法。

 最後の手紙。

 書けば、書き手は消える。

 鏡の湖で見た未来が脳裏に浮かんだ。

 身体が光になり、指先からほどける自分。

 微笑みながら、配達、完了しました、と言う自分。

 あれは可能性の一つ。

 だが、ここにその仕組みがある。

 ただの幻ではなかった。

 リュミエールは、星紙に触れようとして、手を止めた。

 恐怖があった。

 はっきりと。

 消えたくない。

 その言葉が胸の奥に浮かんだ。

 自分がそう思ったことに、彼女は戸惑った。

 消えたくない。

 まだ知らないことがある。

 まだ届けていない言葉がある。

 まだ黒い封筒は開いていない。

 まだ自分の手紙を書いていない。

 まだ、自分が何のために生きるのか決めていない。

 リュミエールは、星紙を箱ごと鞄に入れた。

 その瞬間、塔が揺れた。

 外からではない。塔の内部、星層研究所そのものが、長い眠りから目を覚ましたように震えた。壁に貼られた手紙が一斉に揺れる。床に散らばった紙片が舞い上がる。天井の天文環が軋んだ。

 そして、机の上に一通の手紙が現れた。

 いや、そこに最初からあったのに、今まで見えていなかったのかもしれない。

 白い封筒。

 宛名はない。

 差出人もない。

 封は開いている。

 中には、一枚の紙があった。

 字は博士のものだった。

 もし誰かがこれを読んでいるなら、私はもういないだろう。

 私は、最後まで娘への返事を書けなかった。

 何を書いても、弁明になった。

 何を書いても、娘のためではなく、自分を救うための言葉になった。

 だから、ここに事実だけを書く。

 私は娘を愛していた。

 その愛で、娘の名を消した。

 その愛で、他の子どもたちの名も危うくした。

 その愛で、代筆士を作った。

 その愛で、ルミナを壊した。

 その愛で、リュミエールを空白のまま世界へ送り出した。

 愛は、罪を免除しない。

 これだけは、最後に分かった。

 リュミエール。

 もし君がこの手紙を読むなら、私を許す必要はない。

 私を父と呼ぶ必要もない。

 私の願いを継ぐ必要もない。

 最後の星紙は、君を消すかもしれない。

 世界を救うために君が消えなければならないなどと、私は言う資格がない。

 それでも、もし君がいつか書くなら。

 博士のためではなく。

 世界のためですらなく。

 君自身が届けたいと思う言葉のために書きなさい。

 私は、君に目的を与えた。

 だが、君の願いまで作ることはできない。

 君は、私の娘ではない。

 私の失敗作でもない。

 私の償いでもない。

 君は、リュミエールだ。

 そこで手紙は終わっていた。

 リュミエールは動けなかった。

 胸の奥で、何かが崩れた。

 怒りは消えない。

 博士を許したわけではない。許せるはずもない。彼は娘の名を消し、ルミナを壊し、自分を空白として作り、世界の傷を広げた。

 だが、彼は最後に書いていた。

 書けなかったと言いながら、これはリュミエールへの手紙だった。

 君は、リュミエールだ。

 その一文だけが、胸の中で繰り返される。

 誰かの代わりではない。

 失敗作でもない。

 償いでもない。

 リュミエール。

 自分の名前が、初めて自分の中で重みを持った。

 その時、鞄の中の黒い封筒が熱を帯びた。

 リュミエールは取り出した。

 封蝋の亀裂が広がっている。

 だが、まだ完全には開かない。

 足りない。

 まだ、自己意志が足りない。

 最後の星紙の条件。

 悲嘆、後悔、怒り、愛着、恐怖、祈願、自己意志。

 自己意志。

 自分の願い。

 リュミエールは、博士の手紙を丁寧に畳んだ。

 それを持っていくか迷った。

 迷ったことに気づき、彼女は少しだけ目を伏せた。

 以前なら、必要資料として即座に回収しただろう。今は違う。この手紙を持っていくことが、自分にとって何を意味するのかを考えている。

 怒りの対象を持ち歩くのか。

 自分をリュミエールと呼んだ言葉を持ち歩くのか。

 許さないまま、受け取るのか。

 ガルドの言葉が戻る。

 許さない相手にも、墓くらいあっていい。

 リュミエールは手紙を鞄に入れた。

 許すためではない。

 忘れないために。

 塔を降りる途中、彼女は一階の資料室へ戻った。

 原型個体の名前欄は、まだ空白のままだった。博士の娘の名は分からない。世界から隔離され、消され、書き戻されていない。

 リュミエールはペンを取った。

 資料に直接書くことは、記録改竄にあたる。

 しかし、この空白を空白のままにしておくことも、博士の行為を追認するように思えた。

 彼女は空白の横に、小さく書いた。

 名を消された少女。

 存在した。

 名前ではない。

 だが、消えた者がいたという記録。

 それだけでも残したかった。

 塔を出ると、廃都の空は暗くなっていた。

 暗くなる、という表現は正確ではない。夜明けも昼も曖昧な世界では、明暗の差は小さい。だが、その時のアストレアは、朝よりも深い灰色に沈んでいた。

 通りを舞っていた手紙が、静かに地面へ落ちていく。

 塔の上から、錆びた天文環が空を指している。

 リュミエールは振り返った。

 ここで、世界を救うという名目のもと、死者へ返事を求める研究が行われた。人の悲しみが集められ、祈りが分類され、代筆士が作られた。ルミナが壊れ、リュミエールが生まれた。

 怒りがある。

 同情もある。

 恐怖もある。

 そして、それらのどれにも収まらないものがある。

 リュミエールは帳面を開いた。

 悲しみ。

 後悔。

 怒り。

 母の手の温度。

 愛。

 名前。

 祈り。

 恐怖。

 その下に、新しい言葉を書いた。

 罪。

 少し間を置いて、さらに書く。

 愛は、罪を免除しない。

 博士の言葉だった。

 だが、今はリュミエール自身の理解でもあった。

 罪があるから、愛が消えるわけではない。

 愛があるから、罪が消えるわけでもない。

 人間は矛盾する。

 代筆士も、これから矛盾を抱えるのかもしれない。

 廃都を出る前に、リュミエールは一通の手紙を書いた。

 星紙ではなく、普通の紙だった。

 宛先は、オルフェ・アストレア博士。

 死者への配達を行うつもりはなかった。博士に届けたいわけではない。これは、記録でも報告書でもない。彼女自身の言葉を試すためのものだった。

 オルフェ・アストレア博士へ。

 私はあなたを許しません。

 あなたは、娘の名を消しました。

 ルミナを壊しました。

 私を空白として作りました。

 世界の傷を広げました。

 多くの人から、名前と記憶と未来を奪いました。

 けれど、あなたが娘を愛していなかったとは書きません。

 あなたの愛は、罪になりました。

 あなたの悲しみは、他者の悲しみを生みました。

 あなたの祈りは、世界の裂け目を広げました。

 私は、あなたの償いにはなりません。

 あなたの娘にもなりません。

 あなたの失敗作にもなりません。

 私はリュミエールです。

 まだ、自分の願いは分かりません。

 けれど、あなたの願いではないものを探します。

 手紙はそこで終えた。

 リュミエールは読み返した。

 整ってはいない。感情が混ざっている。怒り、拒絶、理解、宣言。そのどれもが完全ではない。

 だが、初めて自分で書いた手紙だった。

 誰かの代筆ではない。

 彼女自身の言葉。

 リュミエールは、その紙を塔の入口に置いた。配達ではなく、置いていく。博士が読むことはない。星紙でもないから、死者へ届く保証もない。

 それでも、書いた。

 書いたことに意味があった。

 廃都を離れる時、星灰が少し強く降り始めた。

 リュミエールは外套のフードを上げた。鞄の中には最後の星紙がある。博士の手紙がある。黒い封筒がある。壊れたオルゴールも、古い木札も、誓約文も、まだ捨てられないパンの欠片もある。

 重い。

 けれど、その重さは彼女を地面へ縫いとめていた。

 存在を世界に縫いとめる針。

 名前だけではない。

 受け取った手紙も、書いた言葉も、抱えた矛盾も、すべてが彼女をリュミエールにしていく。

 道は南へ続いていた。

 星灰は激しさを増し、各地の町が消え始めているという。ユリウスの聖堂も、セラの町も、ミルヴァも、孤児院も、グレン村も、エルムも、リノヴァも、いつまで残るか分からない。

 最後の星紙は、世界を修復する可能性を持つ。

 だが、書けば自分は消えるかもしれない。

 リュミエールはまだ決められなかった。

 決められないことを、恥とは思わなかった。

 恐怖がある。

 怒りがある。

 失いたくないものがある。

 ならば、すぐに答えを出せなくてもいい。

 彼女は歩き出した。

 次に向かうのは、これまで出会った人々のもとだった。

 最後の手紙を書く前に、自分が何を届けてきたのかを確かめる必要がある。

 自分の願いは、まだ見つかっていない。

 だが、博士の塔を離れるリュミエールの足取りは、来た時よりも確かだった。



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