第九章 博士が書けなかった手紙
廃都アストレアには、門がなかった。
かつては高い外壁に囲まれた学術都市だったという。星層研究の中心地。医師、天文学者、神学者、言語学者、錬金術師、記録士、そして代筆士計画に関わる者たちが集められた都市。地図には、そう記されている。
けれどリュミエールが辿り着いた時、そこに都市を守るものは何も残っていなかった。
外壁は崩れ、門柱は倒れ、通りの輪郭は灰に埋もれている。建物は骨組みだけになり、窓には硝子がなく、白い星灰が室内にまで積もっていた。通りを歩く者はいない。商店もない。子どもの声も、鐘の音も、祈りの声もない。
ただ、紙だけが舞っていた。
星灰ではない。
古い手紙だった。
破れた封筒、焦げた便箋、宛名の消えた紙片。風が吹くたびに、廃都の通りを白い鳥の群れのように舞う。手に取ろうとすると、紙は脆く崩れた。文字のほとんどは読めない。だが、たまに一語だけ残っているものがあった。
返事を。
まだ。
娘へ。
許して。
リュミエールは、通りの中央で足を止めた。
胸の奥に、鏡の湖で得た恐怖がまだ残っている。
失いたくないものがある証拠。
そう帳面に書いた。書いたあと、その言葉は消えなかった。むしろ、歩けば歩くほど輪郭を増している。恐怖は彼女の足を止めなかった。けれど、何かを選ばせようとしている。
廃都アストレア。
ここに、オルフェ・アストレア博士の研究塔がある。
代筆士計画の中心人物。
娘を失った父。
死者への手紙を研究し、星層へ手を入れた者。
世界崩壊の裂け目を広げた者。
ルミナは言った。
博士は、世界を救いたかったのではない。娘にもう一度会いたかった。
リュミエールは、鞄の中の黒い封筒を意識した。
封はまだ開かない。
だが、鏡の湖を離れた後、封蝋には細い亀裂が入っていた。
何かが近づいている。
そう判断するしかなかった。
塔は、都市の中心に立っていた。
天を突くような白い塔。だが、その白さは清潔なものではない。星灰に覆われ、壁はところどころ剥落し、窓は黒い穴になっている。頂上付近には巨大な天文観測用の環があり、錆びた金属の輪が傾いたまま空を向いていた。
塔の入口には、銘板が残っていた。
アストレア星層研究所。
その下に、小さく刻まれた名前がある。
所長 オルフェ・アストレア。
リュミエールはその文字に触れた。
冷たい。
ただの金属だ。人の罪も、喪失も、狂気も、そこには残っていない。だが、その名を見た瞬間、胸の中で何かが強く握られた。
怒り。
ガルドから学んだ感情。
奪われたものが、まだ自分の中で生きている証拠。
自分から何が奪われたのか、リュミエールにはまだ分からない。だが、博士の名を見た時、彼女は確かに怒りに近いものを感じた。
塔の扉は開いていた。
中へ入ると、空気が変わった。
外は風と灰の匂いがした。塔の中には、紙と薬品と古い鉄の匂いが残っていた。円形の玄関ホールには、割れた硝子ケースが並び、星層に関する模型が倒れている。壁には、星空を模した巨大な図が描かれていた。だが、星の位置を示す金属片は多くが剥がれ落ち、床に散らばっている。
リュミエールは帳面を開いた。
廃都アストレア。
星層研究所。
外部損壊、中程度。
内部資料、残存可能性あり。
目的、オルフェ・アストレア博士の記録調査。
関連、代筆士計画。
関連、世界崩壊原因。
関連、黒い封筒。
書き終えた時、塔の奥で紙の擦れる音がした。
風ではない。
リュミエールは顔を上げた。
廊下の向こうに、白い影が見えた。
人影ではない。光でもない。星灰が集まって、人の形を作りかけているように見えた。それはすぐに崩れ、紙片になって床へ落ちた。
そこには、一通の封筒があった。
宛名は消えている。
差出人だけが読めた。
オルフェ・アストレア。
リュミエールは封筒を拾った。中の紙は脆い。開くと、途中まで書かれた文章があった。
今日も、君に返事を書けなかった。
それだけだった。
リュミエールは、その一文を見つめた。
返事を書けなかった。
博士は、娘へ手紙を書いていたのではないのか。手紙は廃都中に舞っている。だが、それは返事ではなかったのかもしれない。
問い。
謝罪。
弁明。
祈り。
博士は、娘からの返事を求め続けた。だが、本当に書けなかったのは、自分から娘へ向けた返事だったのかもしれない。
塔の一階には、資料室があった。
扉は壊れていた。中には棚が並び、紙束が床に散乱している。多くは星灰に触れて文字が消えていたが、奥の金属棚には密閉箱が残っていた。リュミエールは箱の留め具を外し、中の資料を確認した。
星層損傷観測記録。
祈祷転写実験。
感情波形と星紙応答。
死者通信仮説。
代筆士計画、初期設計。
彼女は、代筆士計画の資料を開いた。
研究目的。
一、星灰現象による記録層劣化の修復。
二、人間の強感情を星紙へ転写し、安定化させる技術の確立。
三、感情受容体としての代筆士個体の運用。
四、死者記録への干渉可能性の検証。
文面は冷たかった。
人間の悲しみも、怒りも、祈りも、すべて「強感情」として分類されている。ノエルの涙も、エリスの誓いも、ガルドの怒りも、この資料の上では波形と反応値になる。
リュミエールはページをめくった。
原型情報。
その項目は黒く塗りつぶされていた。
いや、塗りつぶされたのではない。名前だけが消えている。
原型個体。
オルフェ・アストレア博士の実子。
年齢、十歳。
星灰病により死亡。
死亡後、博士により記録保全処理。
以後、代筆士個体の外見原型として登録。
名前の欄は白い空白。
リュミエールは、その空白に指を置いた。
自分の顔の原型となった少女。
博士の娘。
名の消えた子ども。
世界のどこからも名前を削られた存在。
ルミナが言っていた。何かが、彼女の名を世界から削った、と。
博士なのか。
博士は、娘を忘れたくなかったのではないのか。なぜ名を消す必要があったのか。
資料の続きには、こうあった。
注記。
原型個体名は、星層干渉実験により高負荷対象となるため、記録上から一時隔離する。
名前の保持は、死者記録の固定化を招き、改変実験の妨げとなる。
リュミエールの胸が冷たくなった。
博士は、娘の名前を消した。
忘れたからではない。
会いたかったから。
死を固定させないために。娘が死者として世界に縫いとめられるのを避けるために。名前を消せば、死者記録を改変できる。もう一度、生きている状態へ書き換えられるかもしれない。
名前は存在を世界に縫いとめる針。
ラグレーンで、彼女はそう書いた。
博士は、その針を抜いたのだ。
娘を救うために。
娘を世界からほどいた。
「違う」
リュミエールは、思わず声に出した。
誰もいない資料室に、その声だけが落ちた。
「それは、違う」
何が違うのか。
合理的には、博士の行動には目的がある。死者記録固定化を避けるための名前隔離。星層改変実験のための措置。娘の復元可能性を高める仮説上の手段。
だが、それは違う。
セラが墓前で呼んだマレアの名。ノエルが母を呼んだ声。エリスが何度でも名乗ると言った言葉。それらを思えば、博士の行為は愛ではなかった。
少なくとも、愛だけではなかった。
愛の名をした暴力だった。
リュミエールは、資料を鞄に入れず、その場に戻した。
この冷たい紙を持って歩きたくなかった。
それも、判断としては不合理だった。
塔の螺旋階段を上る。
二階には実験室があった。硝子管、金属の椅子、計測器、焦げた星紙。壁には、無数の手紙が貼られていた。すべて同じ宛先だった。
娘へ。
ただし、名前はない。
愛する娘へ。
私の小さな星へ。
君へ。
もう一度だけ、私の声を聞いてくれ。
返事をしてくれ。
起きてくれ。
なぜ黙っている。
私はまだ、終わっていない。
君も終わっていないはずだ。
リュミエールは一通ずつ見ていった。
最初の手紙は、まだ父親の悲しみだった。
君のいない部屋に入れない。
君の椅子がそのままだ。
朝になると、君の咳が聞こえないことに驚く。
私は、今日も君のために水を温めてしまった。
次の手紙は、祈りだった。
神よ、返してください。
私の命でよい。
私の記憶でよい。
私の名でよい。
あの子を返してください。
さらに後の手紙は、研究記録に近づいていく。
死者記録への干渉、微弱反応あり。
星紙への父性悲嘆転写、安定。
原型名削除後、波形変動。
復元可能性、理論上維持。
そして終盤の手紙は、もはや手紙ではなかった。
返事をしろ。
沈黙するな。
私は世界を差し出した。
なぜ戻らない。
君が戻らないなら、世界に意味はない。
リュミエールは、その最後の紙の前で立ち止まった。
世界に意味はない。
博士は、自分の喪失で世界を測った。
そして、世界を壊した。
ガルドの怒りが胸に戻ってきた。ユリウスの告発も。セラの名を呼ぶ声も。ノエルの「おかあさん」も。
この人は、どれだけの名前を消したのか。
この人の願いのために、どれだけの手紙が届かなくなったのか。
その怒りは、今度こそ自分のもののように感じた。
だが、壁に貼られた最初の手紙を見ると、怒りだけではいられなかった。
君の椅子がそのままだ。
朝になると、君の咳が聞こえないことに驚く。
その言葉は、父親のものだった。
リュミエールには父親がいない。母親もいない。だが、ノエルとリサを見た。エルンストとエリナを見た。失った者が、何度も同じ不在に驚くことを知っている。
博士もまた、最初から怪物だったわけではない。
喪失が、人を怪物へ近づけた。
その事実は、怒りを消さなかった。
ただ、怒りを単純にしてくれなかった。
三階は、子どもの部屋だった。
研究塔の中に、不自然なほど小さな部屋が残っていた。壁紙は星柄。棚には絵本。ベッドは小さく、枕元には木製の鳥の玩具が置かれている。窓際には、子ども用の机と椅子。机の上には、未完成の絵があった。
灰色の空ではない。
青い空。
その下に、白い塔と、手をつなぐ二人の人物。
片方は白衣の男。
もう片方は、薄青の目をした少女。
絵の隅に、文字がある。
おとうさんへ。
その下に、名前が書かれていたはずの場所があった。
だが、そこも白く抜けている。
リュミエールは絵を手に取った。
紙は古い。だが、子どもの筆圧はまだ残っている。線は不安定だが、明るい。塔はまっすぐではない。父親の顔は大きすぎる。少女の手は丸い。けれど、そこには確かに世界を愛していた子どもの目がある。
博士の娘は、世界を描いていた。
父と手をつなぐ青空の世界。
その父が、娘の名を消し、世界を壊した。
リュミエールは絵を元の場所に戻した。
机の引き出しに、小さな紙束が入っていた。子どもの字で書かれた短い手紙だった。
おとうさんへ。
きょうはせきがすくなかったです。
だから、あしたはそとにいきたいです。
おとうさんへ。
ほしのはなしを、またしてください。
ほしは、どうしておちてこないのですか。
おとうさんへ。
わたしがねむっているあいだも、せかいはあるのですか。
最後の一通は、途中で止まっていた。
おとうさんへ。
もし、わたしが
その先はない。
手が震えたのか、インクが滲んでいる。
リュミエールは、長くその紙を見つめた。
もし、わたしが。
何を書こうとしたのか。
死んだら。
いなくなったら。
忘れたら。
眠ったままになったら。
答えはない。
博士は、この続きを一生探したのかもしれない。
塔の最上階へ続く階段は、途中で崩れていた。
だが、代筆士の身体能力なら越えられる。リュミエールは壊れた段を慎重に踏み、壁の突起に手をかけて上った。星灰が降り積もり、石は滑りやすい。足元が一度崩れたが、彼女は無言で体勢を戻した。
最上階は、博士の私室兼観測室だった。
天井の半分は開いている。巨大な天文環が頭上で錆びつき、灰色の空を測るように傾いていた。部屋の中央には机がある。机の周囲には、膨大な手紙が積まれていた。
すべて、同じ筆跡。
オルフェ・アストレア。
リュミエールは机へ近づいた。
上に置かれていたのは、一冊の日誌だった。
表紙はひび割れ、留め金は錆びている。だが、ページは比較的きれいだった。博士が最後まで使っていたものだろう。
彼女は開いた。
最初のページには、こう書かれていた。
私は世界を救いたい。
次のページ。
正確には、そう言うことにした。
リュミエールは、目を細めた。
日誌は、独白だった。
私は世界を救いたい。
そう言えば、人は協力する。
そう言えば、資金も、人材も、許可も得られる。
星灰は現実の脅威だ。星層は確かに壊れている。修復は必要だ。
その点に嘘はない。
だが、本当のことを書けば、誰も私を許さないだろう。
私は世界を救いたいのではない。
娘を失った私を、救いたい。
リュミエールの手が止まった。
それは、プロットの中で知っていた言葉ではない。
実際に博士の手で書かれた、告白だった。
彼女は続きを読んだ。
娘の死は、世界の誤記である。
私はそう考えた。
こんなにも愛されていた子が、十歳で死ぬはずがない。
あの子が私より先に消えるなど、世界の方が間違っている。
ならば、記録を直せばよい。
最初は本気で、そう思っていた。
死を否定することと、娘を愛することの区別がつかなかった。
リュミエールは、ページをめくる。
代筆士計画は、成功しつつある。
感情の転写は可能だ。
死者宛ての言葉は、星層へ届く。
ルミナは反応した。
彼女は泣いた。
泣いたのだ。
私は喜んだ。
その涙が、彼女のものか、材料にされた誰かのものかを考えなかった。
私は、また一人の子を利用した。
ルミナが私を見た時、私は娘の顔を見た。
だが、彼女は娘ではなかった。
それを知っていたのに、知らないふりをした。
ページの端に、インクの染みがある。
涙の跡かもしれなかった。
さらに読む。
第二期個体、リュミエール。
感情器官、未完成。
反応は安定している。
ルミナのような破綻はない。
研究者たちは成功に近づいたと言う。
だが、あの子は空白だ。
空白のまま、人の悲しみを書かされる。
私は何をしているのか。
リュミエール。
博士は、自分の名を書いていた。
リュミエールは、その文字を見た。
自分を作った者の一人。あるいは、直接作った者。博士はリュミエールを空白と呼んだ。だが、その空白に気づいても、実験を止めなかった。
怒りが戻る。
同時に、別のものもあった。
博士は迷っていた。
だが、迷っても止まらなかった。
その罪は軽くならない。
日誌の終盤では、文字が乱れていた。
星層干渉実験、失敗。
娘の記録、復元不能。
原型名の消失が進行。
世界記録の裂け目拡大。
星灰濃度上昇。
各地で名前消失、記憶欠損、死者反応異常。
私がやった。
私が裂け目を広げた。
世界は最初から壊れかけていた。
だが、私が傷を広げた。
私は、娘を取り戻せなかった。
その代わり、世界から多くの子の名を奪った。
多くの親に、私と同じ喪失を与えた。
それなのに、まだ私は手紙を書いている。
何と書けばいい。
愛している、と書けばいいのか。
すまない、と書けばいいのか。
戻ってきてくれ、と書けばいいのか。
許してくれ、と書けばいいのか。
どれも違う。
私は、娘への手紙を書いているふりをして、自分への弁明を書いていた。
最後のページには、短い一文があった。
今日も、君に返事を書けなかった。
それで日誌は終わっていた。
リュミエールは、長い時間、日誌を開いたまま立っていた。
博士は怪物だったのか。
父親だったのか。
研究者だったのか。
罪人だったのか。
そのすべてだった。
エルンストは五十年遅れで妻へ返事を書いた。ミーナは兄へ怒りを返した。ガルドは許せない上官へ呪いを書いた。ノエルは母へありがとうを書いた。エリスとアレンは互いの嘘を手紙にした。セラは名の消えた祖先へ名前を返した。ユリウスは神の沈黙へ告発を書いた。
だが、博士は書けなかった。
書き続けたのに、返事を書けなかった。
娘へではなく、娘の死に対して。
自分が壊した世界に対して。
作った代筆士たちに対して。
自分自身の罪に対して。
机の奥に、小さな箱があった。
鍵はかかっていない。中には、一枚の星紙が入っていた。
これまで見た星紙とは違っていた。黒藍ではなく、ほとんど透明に近い。だが、角度を変えると、内部に無数の文字が流れている。誰かの手紙の断片。祈り。名前。謝罪。怒り。愛。
箱の蓋の裏に、博士の字で説明があった。
最後の星紙。
全感情集積体が、自身の言葉で記述することにより、星層裂傷の縫合が可能。
ただし、書き手は記録層へ転写され、個体としての存在を維持できない可能性が高い。
必要条件。
悲嘆、後悔、怒り、愛着、恐怖、祈願、自己意志。
特に、自己意志の発現が不可欠。
リュミエールは、その星紙を見つめた。
世界を修復する方法。
最後の手紙。
書けば、書き手は消える。
鏡の湖で見た未来が脳裏に浮かんだ。
身体が光になり、指先からほどける自分。
微笑みながら、配達、完了しました、と言う自分。
あれは可能性の一つ。
だが、ここにその仕組みがある。
ただの幻ではなかった。
リュミエールは、星紙に触れようとして、手を止めた。
恐怖があった。
はっきりと。
消えたくない。
その言葉が胸の奥に浮かんだ。
自分がそう思ったことに、彼女は戸惑った。
消えたくない。
まだ知らないことがある。
まだ届けていない言葉がある。
まだ黒い封筒は開いていない。
まだ自分の手紙を書いていない。
まだ、自分が何のために生きるのか決めていない。
リュミエールは、星紙を箱ごと鞄に入れた。
その瞬間、塔が揺れた。
外からではない。塔の内部、星層研究所そのものが、長い眠りから目を覚ましたように震えた。壁に貼られた手紙が一斉に揺れる。床に散らばった紙片が舞い上がる。天井の天文環が軋んだ。
そして、机の上に一通の手紙が現れた。
いや、そこに最初からあったのに、今まで見えていなかったのかもしれない。
白い封筒。
宛名はない。
差出人もない。
封は開いている。
中には、一枚の紙があった。
字は博士のものだった。
もし誰かがこれを読んでいるなら、私はもういないだろう。
私は、最後まで娘への返事を書けなかった。
何を書いても、弁明になった。
何を書いても、娘のためではなく、自分を救うための言葉になった。
だから、ここに事実だけを書く。
私は娘を愛していた。
その愛で、娘の名を消した。
その愛で、他の子どもたちの名も危うくした。
その愛で、代筆士を作った。
その愛で、ルミナを壊した。
その愛で、リュミエールを空白のまま世界へ送り出した。
愛は、罪を免除しない。
これだけは、最後に分かった。
リュミエール。
もし君がこの手紙を読むなら、私を許す必要はない。
私を父と呼ぶ必要もない。
私の願いを継ぐ必要もない。
最後の星紙は、君を消すかもしれない。
世界を救うために君が消えなければならないなどと、私は言う資格がない。
それでも、もし君がいつか書くなら。
博士のためではなく。
世界のためですらなく。
君自身が届けたいと思う言葉のために書きなさい。
私は、君に目的を与えた。
だが、君の願いまで作ることはできない。
君は、私の娘ではない。
私の失敗作でもない。
私の償いでもない。
君は、リュミエールだ。
そこで手紙は終わっていた。
リュミエールは動けなかった。
胸の奥で、何かが崩れた。
怒りは消えない。
博士を許したわけではない。許せるはずもない。彼は娘の名を消し、ルミナを壊し、自分を空白として作り、世界の傷を広げた。
だが、彼は最後に書いていた。
書けなかったと言いながら、これはリュミエールへの手紙だった。
君は、リュミエールだ。
その一文だけが、胸の中で繰り返される。
誰かの代わりではない。
失敗作でもない。
償いでもない。
リュミエール。
自分の名前が、初めて自分の中で重みを持った。
その時、鞄の中の黒い封筒が熱を帯びた。
リュミエールは取り出した。
封蝋の亀裂が広がっている。
だが、まだ完全には開かない。
足りない。
まだ、自己意志が足りない。
最後の星紙の条件。
悲嘆、後悔、怒り、愛着、恐怖、祈願、自己意志。
自己意志。
自分の願い。
リュミエールは、博士の手紙を丁寧に畳んだ。
それを持っていくか迷った。
迷ったことに気づき、彼女は少しだけ目を伏せた。
以前なら、必要資料として即座に回収しただろう。今は違う。この手紙を持っていくことが、自分にとって何を意味するのかを考えている。
怒りの対象を持ち歩くのか。
自分をリュミエールと呼んだ言葉を持ち歩くのか。
許さないまま、受け取るのか。
ガルドの言葉が戻る。
許さない相手にも、墓くらいあっていい。
リュミエールは手紙を鞄に入れた。
許すためではない。
忘れないために。
塔を降りる途中、彼女は一階の資料室へ戻った。
原型個体の名前欄は、まだ空白のままだった。博士の娘の名は分からない。世界から隔離され、消され、書き戻されていない。
リュミエールはペンを取った。
資料に直接書くことは、記録改竄にあたる。
しかし、この空白を空白のままにしておくことも、博士の行為を追認するように思えた。
彼女は空白の横に、小さく書いた。
名を消された少女。
存在した。
名前ではない。
だが、消えた者がいたという記録。
それだけでも残したかった。
塔を出ると、廃都の空は暗くなっていた。
暗くなる、という表現は正確ではない。夜明けも昼も曖昧な世界では、明暗の差は小さい。だが、その時のアストレアは、朝よりも深い灰色に沈んでいた。
通りを舞っていた手紙が、静かに地面へ落ちていく。
塔の上から、錆びた天文環が空を指している。
リュミエールは振り返った。
ここで、世界を救うという名目のもと、死者へ返事を求める研究が行われた。人の悲しみが集められ、祈りが分類され、代筆士が作られた。ルミナが壊れ、リュミエールが生まれた。
怒りがある。
同情もある。
恐怖もある。
そして、それらのどれにも収まらないものがある。
リュミエールは帳面を開いた。
悲しみ。
後悔。
怒り。
母の手の温度。
愛。
名前。
祈り。
恐怖。
その下に、新しい言葉を書いた。
罪。
少し間を置いて、さらに書く。
愛は、罪を免除しない。
博士の言葉だった。
だが、今はリュミエール自身の理解でもあった。
罪があるから、愛が消えるわけではない。
愛があるから、罪が消えるわけでもない。
人間は矛盾する。
代筆士も、これから矛盾を抱えるのかもしれない。
廃都を出る前に、リュミエールは一通の手紙を書いた。
星紙ではなく、普通の紙だった。
宛先は、オルフェ・アストレア博士。
死者への配達を行うつもりはなかった。博士に届けたいわけではない。これは、記録でも報告書でもない。彼女自身の言葉を試すためのものだった。
オルフェ・アストレア博士へ。
私はあなたを許しません。
あなたは、娘の名を消しました。
ルミナを壊しました。
私を空白として作りました。
世界の傷を広げました。
多くの人から、名前と記憶と未来を奪いました。
けれど、あなたが娘を愛していなかったとは書きません。
あなたの愛は、罪になりました。
あなたの悲しみは、他者の悲しみを生みました。
あなたの祈りは、世界の裂け目を広げました。
私は、あなたの償いにはなりません。
あなたの娘にもなりません。
あなたの失敗作にもなりません。
私はリュミエールです。
まだ、自分の願いは分かりません。
けれど、あなたの願いではないものを探します。
手紙はそこで終えた。
リュミエールは読み返した。
整ってはいない。感情が混ざっている。怒り、拒絶、理解、宣言。そのどれもが完全ではない。
だが、初めて自分で書いた手紙だった。
誰かの代筆ではない。
彼女自身の言葉。
リュミエールは、その紙を塔の入口に置いた。配達ではなく、置いていく。博士が読むことはない。星紙でもないから、死者へ届く保証もない。
それでも、書いた。
書いたことに意味があった。
廃都を離れる時、星灰が少し強く降り始めた。
リュミエールは外套のフードを上げた。鞄の中には最後の星紙がある。博士の手紙がある。黒い封筒がある。壊れたオルゴールも、古い木札も、誓約文も、まだ捨てられないパンの欠片もある。
重い。
けれど、その重さは彼女を地面へ縫いとめていた。
存在を世界に縫いとめる針。
名前だけではない。
受け取った手紙も、書いた言葉も、抱えた矛盾も、すべてが彼女をリュミエールにしていく。
道は南へ続いていた。
星灰は激しさを増し、各地の町が消え始めているという。ユリウスの聖堂も、セラの町も、ミルヴァも、孤児院も、グレン村も、エルムも、リノヴァも、いつまで残るか分からない。
最後の星紙は、世界を修復する可能性を持つ。
だが、書けば自分は消えるかもしれない。
リュミエールはまだ決められなかった。
決められないことを、恥とは思わなかった。
恐怖がある。
怒りがある。
失いたくないものがある。
ならば、すぐに答えを出せなくてもいい。
彼女は歩き出した。
次に向かうのは、これまで出会った人々のもとだった。
最後の手紙を書く前に、自分が何を届けてきたのかを確かめる必要がある。
自分の願いは、まだ見つかっていない。
だが、博士の塔を離れるリュミエールの足取りは、来た時よりも確かだった。




