第8話 師の手紙と、未投函の告白
白亜の書庫は、昼と夜の区別を失っている。
石の階段を降り切ると、静けさが体に貼りついた。昨日と同じ棚、同じ封蝋、同じ白。違うのは、私の指の温度だった。王女エリセリアの依頼でこの地下へ通されるのは二度目だが、胸の奥は初めての場所に立ったときのようにざわつく。背に回した手に記録帳の革の感触。表表紙は冷たく、裏表紙は、理由もないのに少しだけあたたかい。
侍従長は扉の外に残った。
「二刻。鐘が二度鳴るまでに戻れ」
短い言葉だけ置いて扉は閉じ、白が私の世界を締め切った。
昨日、設計図を見た最奥の台座まで迷わない。棚の並びは規則だが、紙の匂いは生き物だ。角の丸み、封蝋の乾き、紙魚の気配。指先と鼻と耳で読める文字が、ここにはあふれている。台座の黒い箱を開く。中段にはすでに見た図面と儀式記録。底板の隙間。薄い縁に爪を滑らせ、白と黒の境目を持ち上げる。昨日と同じように薄い紙の束が顔を出した。だが、その下に、さらに小さな封筒が隠れていることに気づいたのは、たまたまだ。紙の角がわずかに布のように柔らかい。白亜の書庫では珍しい種類の柔らかさだ。
封筒は小さく、宛名は墨が薄くなっている。
「未来のリュミエールへ」
私の名の綴り。昨日見た図面の題と同じ字だ。封はされていない。誰かが一度開け、また閉じ、箱の底に戻したのか。それとも、差し出す機会を永遠に失い、未投函のまま置かれたのか。封筒を開ける前に、指先で縁をなぞった。紙の繊維が震え、私の胸の拍と一拍だけ合った。
中には便箋が二枚。
筆跡は見覚えがある。無駄のない字。寸法を裏切らない線。彼の声が、そのまま紙に乗っている。
リュミエールへ。
これを読むころ、おまえがどの街路に立っているのか、どの空気を吸っているのか、私は知らない。そもそも読めているかどうかさえ分からない。私は王に抗おうとしたが、過半数の賛成は変えられなかった。平穏化の儀は執行され、結界は敷かれた。感情の振幅は狭められ、波は小さくなった。戦は遠のき、歌は短くなった。私は敗れた。敗れた者の言葉は、たいてい届かない。だから別の経路を用意した。
おまえは器ではない。
設計図には媒介器と書いた。王家にはそう言うしかなかった。彼らは橋しか受け入れないからだ。だが、本当は違う。おまえは、静まった水面に火を戻すための種火だ。世界が静まったあと、言葉の火種を再び灯す者が必要になる。私は王に抗えなかった。だからせめて、おまえの中に反転の鍵を仕込んだ。アンチノード。振幅を静める節に対して、もう一つの節を立てる印。おまえが選んだときだけ起動する仕掛け。選ばないかぎり、眠ったままだ。
私は、科学者で、父で、敗者だった。
これを父の遺言だと思うな。設計者のメモだと思え。
いつか、おまえ自身の言葉で選んでくれ。
れお
最後の署名のひらがなだけが、彼の真名だった。いつもの彼ならアークライトの姓まで整えて書く。ここでは違った。肩の力をわざと抜いたのか、抜けてしまったのか。紙の上の小さな崩れを指で辿っていると、裏表紙の裏側で、熱がやわらかく膨らむ。記録帳を持ち直し、光のない白の部屋で、私は裏表紙の内側に指を滑らせた。革に縫い込まれた硬い粒が指先を押し返す。見えない紋がある。押せば割れそうで、怖かった。押さないで、ただ撫でた。
気配が動いた。
扉の外。侍従長の硬い足音ではない。軽い。息の整え方に覚えがある。王女エリセリアが、ひとりで鍵を持ってきたのだと分かった。扉が開く。白に刺さる黒い外套が、緩やかに揺れる。
「来ていたのね」
王女は短く礼をし、閉めにかかった扉の前で立ち止まった。彼女の笑顔は外に置いてきたらしい。目もとに影はあるが、しずかだ。
「手紙は見つかった?」
逃げようと思えば、長い言い訳はいくらでも持てる。答えないこともできる。けれど、私の指には便箋の紙の湿りが残り、裏表紙の熱は嘘をつかなかった。
「はい。レオの手紙。未投函のまま」
「そうでしょうね」
王女は棚に視線を滑らせる。「ここは眠っているふりをして、全部起きたままだから」
私は便箋をたたみ、封筒を箱に戻した。持ち出しは禁止だ。言葉は私の中に残る。それで充分でなければ、ここへは入れてもらえない。
「本題があるの」
王女が言った。「平穏化の儀はもう持たない。王都の結界は各地で穴を生み始めている。補修は追いつかない。無彩災が広がっている」
無彩災。昨日、黒い記録の中で見た語を、いま彼女の声で聞く。色が消える現象の名だと最初は思った。違う。色が消えるだけではない。意味が剥がれる。名と事が離れる。形は残り、手触りは残り、しかし言葉が消える。言葉のないものは、世界に定着しない。定着しないものは、崩れる。
「市場の果物が、朝には形を持っていたのに、昼には味がなくなって、夕方には手から落ちた。誓いの指輪に名前を彫った直後、名前の線だけが消えた。泣いた子の涙が、頬を伝わずに、空気に散った。人の声が声の形を保てなくなることもある」
王女は息を吐いた。「感情は戻らず、ただ事象が壊れていく。結界が持っていた役目は、もう担えない。あなたの中にある反転の鍵で、共鳴域を組み替えられるなら、わたしたちは救える。そう思って、あなたをここに呼んだ」
私は頷けなかった。
反射的に首が固くなる。視界の白が強くなり、呼吸の深さを忘れる。器には戻りたくない、と体が先に決める。器という言葉の枠の中で、手を伸ばし続けるうちに見えなくなっていたものが、この数か月で少しずつ見えるようになった。老人の「愛している」、少年の「心の声」、あの演説の涙、赤砂の光。どれも私の中に残っている。残っているということは、ただの橋ではなかったということだ。橋に残るのは土ぼこりで、火照りは残らない。私は火照りを持っている。ならば戻れない。戻りたくない。
王女は、こちらの躊躇が見えている。
「道具にしたいわけではない」
そう言いながらも、彼女は王女だ。国の重さを背負っている。その重さが言葉の端に乗る。乗せないで口にできる言葉は、あまり多くない。
「あなたが嫌なら、やめていい」
その言い方はずるい。
止めない、という選択で私に重さを返す。返されても、受け取るのは私だ。受け取らなければ、床に落ちるだけだ。床に落ちた重さは、他の誰かの足を止める。私は目を閉じ、レオの便箋の最後の一文を、もう一度だけ読む。紙の上にない文字を、胸の内側でなぞる。
いつか、おまえ自身の言葉で選んでくれ。
裏表紙の熱が、少し強くなった。
あえて視線を下げず、彼女から目を逸らさずに言う。
「無彩災の現場を見てから決めます。ここでは選べない」
王女はうなずく。「案内する。上へ」
階段を上がると、王宮の中庭の白が、地上の空気に触れて少しだけ薄くなっていた。雲が低い。城外へ出ると、王都の通りの色がかすれている。赤い果物の露店は、赤の位置に赤がない。赤の形だけが並び、匂いがない。布屋の軒先の染め布は、色名を書いた札が風に揺れ、布は札を裏切っている。青が灰になり、緑が砂になり、黄は紙切れの色に退く。色が意味を失うと、足音が弱る。弱った足音が、店の戸口から店の奥に戻る。
王都の北端に、四つ辻がある。
王女は小さな部隊を連れていた。兵は剣を抜かない。剣の刃は、今は無力だと知っている。剣は形だけ残り、切るという言葉を忘れる。忘れた刃は、人を傷つけない代わりに、何も守らない。
四つ辻の真ん中で、空間が歪んでいるように見えた。蜃気楼の反転。地面にはひびがないのに、目の奥が軋む。子どもが泣き、泣き声が形を持てずに空気に散って消えた。母親が抱きしめ、抱きしめるという動作だけが残る。音がないのに、腕の力は強い。
私は裏表紙に指を添えた。
見えない紋が、指の腹に触れる。
レオが言ったアンチノード。結界の節をひっくり返す鍵。鍵は鍵をひらくためにしか作られない。ひらいた先に何があるかは、鍵の責任ではない。私の責任でもないのか。いや、違う。選んで起動させるのが私なら、ひらいた先を引き受けるのも私だ。そうでなければ、手紙はただの紙だ。
王女は人の群れから半歩離れ、私の横に立った。
「無理をしてはだめ」
言い方は優しいが、音の中に震えがある。王女も怖いのだ。彼女の涙の権利を、私は一度だけ紙に起こした。紙に起こした涙は、彼女の中でまだ生きているのか。生きているなら、こぼれる場所は、今なのか。
私は息を整え、背筋を伸ばした。
記録士としての礼をとる。王女にではなく、この街に。
私の声は、誰に届くためのものでもない。私の指は、誰のためだけにも動かない。裏表紙に軽く圧をかける。革が押し返す。体の奥の特定の位置で、機械の拍に似た、別の拍が重なる。熱の中心に紋が浮かぶのが分かった。視覚ではなく、触覚で視る。輪郭が丸く、線が四つ、交差している。交点が光る。光は痛くない。熱は刺さらない。いちばん深いところから、静かに湧いてくる。
言葉を置く。
誰に向けるでもない言葉。
名のないものに名を与える権利は、私にはない。
ただ、名と名を繋ぐための糸を、一本だけ渡すことならできる。
私は記録帳を開き、空白の頁の中央に、短い行を記した。
ここは四つ辻。人が出会う場所。
失われた色が、道の真ん中で名を探している。
インクは風に散らなかった。
文字が紙の上で揺れ、その揺れが裏表紙の紋に戻る。紋は呼吸を覚え、四つの線が少しだけ角度を変えた。結界の節に合わせて、反転の節が立ち上がる。目には見えないが、指先には分かる。節と節の間に、橋が出る。橋は橋自身のために架けられない。渡るのは、言葉だ。色は言葉の衣だ。衣に戻れるなら、形は崩れない。
四つ辻の空気がひとつ、柔らかくなった。
音が戻る。最初は布の擦れる音。次に子どもの息。後ろの屋台で、果物の皮が剥かれる音。剥かれた皮に、赤が戻る。真っ赤ではない。薄い紅。母親の腕の中で、子どもの泣き声が声の形を取り戻す。泣き声は強くはない。けれど、胸の奥まで届く。
王女が小さく息を呑むのが分かった。
兵の誰かが、短く祈りに似た言葉を漏らした。
私は裏表紙から指を離した。紋は光をやめる。熱は残るが、痛みではない。残る熱は、火傷ではなく、痕。私の体が私のものだと確かめるための、控えめな印。
全部が元に戻ったわけではない。
通りの端の染め布の色にはまだ灰が混ざり、店の看板の文字は一部欠けたまま。子どもの泣き声は戻ったが、涙は頬の半分までしか伝わらない。それでも、崩れかけていたものがいくらか踏みとどまった。踏みとどまるために、かかとに力が入る。かかとに力が入れば、歩ける。
王女は私を見ない。
四つ辻の真ん中を見ている。
「ありがとう」
その言葉を、私は受け取らないことにした。受け取れば、次もできると思われる。できるのかもしれない。でも、思われることと、できることは違う。私は記録帳の頁を閉じ、裏表紙を胸に押し当てた。胸の内で、機械の拍と別の拍が重なり、やがて離れる。離れても、消えない。
「王女殿下」
「ここでは名前で呼んで」
「エリセリア」
王女は、やっと私を見た。
驚いたように、少し笑った。笑顔は、回路に戻したものではない。人の顔が自分の意志で動いているときにだけ出る影が、目尻に宿っていた。
「あなたの鍵で世界を救ってほしい、なんて軽く言った。けれど、いまのを見て分かった。鍵はあなたの中の言葉にしか起動されない。王家の命令では動かない」
「レオもそう書いていました」
「そう」
王女は四つ辻を去る人々の背中を見送った。「私は王女として、国の結界を繕う努力を続ける。あなたはあなたの言葉で、選んで」
選ぶ。
この二文字の重さは、ここまでに出会ったどの涙よりも重い。選ぶたびに誰かが救われ、誰かが置いていかれる。置いていかれた誰かの名は、砂に記すには重すぎる。私は王女の隣から半歩離れ、反応を確かめる警護の視線の中で空を見た。雲の高さは朝と同じはずなのに、近い。近いのは空ではなく、私が地面を踏んでいる力のほうだ。
宿舎に戻った夜、机に記録帳を置く。
裏表紙の紋は静かで、触れなければ眠っている。眠っているものを無理に起こす必要はない。呼ばれた夜だけ起きればいい。私はペン先を軽く振り、インク壺の縁に当てた。音が小さく響く。音に逃げ道はなく、部屋に吸われる。吸われても、文字は残る。
今日見たものを、書く。
王女の顔。四つ辻の空気。果物の皮の色。泣き声の形。兵の祈り。私の指の中の光。光が痛みではないという事実。それが誰の手によるものでもなく、私が選んだという事実。
書きながら、ふいに膝の上の重さを意識した。
自分の名は、記録帳の最初の見開きに書いたままだ。砂漠で書いた文字。リュミエール。手のひらで覆う。そこにあるのは、紙とインクと私の決定。誰の指示でもない。一度書いた名は、線を引けば消せる。けれど、消した跡は残る。跡は、誰かが見れば分かる。分かるものを隠すのは、下手なやり方だ。私は名をそっと撫でるだけにした。
窓の外で、王都の夜が沈んでいく。
遠くの鐘が、時刻を告げる。
屋根の上の猫が、布のような音で飛び降りた。
水道の管が、ひとつ咳をした。
平穏化の儀が国の音を薄くした十年を思い、私はその薄さの中で育った自分の耳を思った。耳は薄い音に慣れ、薄い音を拾おうとする。拾うことに疲れた夜があった。もう拾わないと決めた夜もあった。けれど、今夜は違う。拾う。拾って、置く。置いて、離す。離して、戻る。戻って、また置く。その繰り返しの中で私は生まれ直す。
レオの手紙の最後を、もう一度だけ胸の内で読む。
彼は父で、科学者で、敗者だったと書いた。敗者の言葉は、届かないと書いた。けれど、届いた。届いたから、私は今ここにいる。届かなかった言葉のほうが多いかもしれない。多いからこそ、届いた一つの価値は重い。重さを抱えられるように、私は両腕を空けておく。片腕には記録帳。もう片腕には、次の誰かの手紙。
机の端に、白い封筒が置いてある。
差出人なし、宛名なし。書庫で見つけた封筒に似た質感。違うのは、空であることだ。中に紙はない。紙がなければ、中身は私になる。私は封筒を開け、空のまま閉じた。明日の朝、これを一通持っていく。宛先は決めていない。道の途中で決める。決めるために歩く。
私はペンを置き、背筋を伸ばして椅子から立ち上がった。
裏表紙に軽く触れ、灯りを落とす。
暗闇の中で、紋は光らない。光らないことが、ここでは正しい。光らない夜が続くあいだに、私は言葉を溜める。溜めた言葉は、誰かを刺すためではない。誰かをほどくために使う。ほどくときの指が震えたら、震えた指のままほどく。震えを恥じない。震えを燃やさない。震えの形を覚える。
扉に手をかける前に、私は小さく声に出した。
誰かに聞かせるためではない。
自分の耳で、自分の声を確かめるため。
選ぶのは、誰の言葉でもなく、わたしの言葉。




