第三章 怒りを知らない少女
その村では、墓標の代わりに手紙が立っていた。
エルムを出てから四日目、リュミエールはかつて戦場だった場所へ辿り着いた。地図には、グレン村と記されている。小麦畑に囲まれた小さな集落だったという。今は畑の跡も、家々の跡も、ほとんど灰に覆われていた。
星灰ではない。
焼けた木材と土と骨が混ざった、古い戦火の灰だった。
村の入口には門が残っている。片側の柱だけが立ち、もう片方は根元から折れていた。そこに、何百通もの手紙が結びつけられている。雨に濡れ、風に破れ、墨は滲み、読めるものは少ない。それでも人々は、そこへ手紙を結び続けているらしかった。
父へ。
姉さんへ。
帰ってこなかったあなたへ。
許せない。
会いたい。
どうして。
短い言葉が、紙の裂け目から覗いている。
リュミエールは門の前で立ち止まり、帳面を開いた。
グレン村。
旧戦闘区域。
人口、戦前二百三十六。
現在居住者、推定十四。
墓地機能、手紙による代替。
依頼人、ガルド・ヘイム。
元兵士。
片腕欠損。
依頼内容、上官への手紙。
ここまで書いて、リュミエールは手を止めた。
鞄の中には、ミーナからもらった星形のパンがまだ残っていた。硬くなっている。半分だけ食べ、残りは包んである。食料としては、もう適切ではない。捨てるべきだと彼女の判断機構は告げていた。
だが、捨てていない。
理由は不明。
灯台守エルンストの手紙も、まだ外套の内側にある。代筆士に向けられた短い遺言。
自分で書け。
リュミエールは、その一文を何度も思い出していた。記憶から消えない。消す必要もないはずなのに、時折、胸の奥で文字が浮かび上がるような感覚がある。
悲しみ。
後悔。
帳面には、すでに二つの言葉が書かれている。
その意味はまだ完全には分からない。
けれど、知らないままでは済まなくなっている。そう判断する自分がいることに、リュミエールは小さな違和感を覚えていた。
村の中へ入ると、風の音が変わった。
家の壁はほとんど崩れている。焼け焦げた柱だけが、肋骨のように地面から突き出していた。道は舗装されていない。ところどころに赤茶けた染みがある。戦闘から十年以上が経っているはずなのに、その色だけは土に沈みきらず、薄い影のように残っていた。
中央広場には、石の井戸があった。
井戸の縁にも、手紙が置かれている。石の隙間に差し込まれたもの、紐で結ばれたもの、燃えかけて黒くなったもの。手紙の数は、村の人口を遥かに超えていた。
「代筆士か」
背後から声がした。
振り向くと、男が立っていた。
四十代半ばに見える。背は高いが、痩せていた。右腕は肩の下からなかった。袖は空のまま結ばれている。残った左手には、薪割り用の斧が握られていた。髪には白いものが混じり、頬には深い傷跡がある。目つきは鋭い。人を見る時、相手の顔ではなく喉元を見る癖があった。
「ガルド・ヘイムさんですか」
「ああ」
「依頼を確認します」
「上官に手紙を書きたい」
「上官の氏名を」
「ヴィクトル・ラウム」
リュミエールは名前を書いた。
「階級は」
「当時は大尉」
「現在の所在は」
「墓の中だ」
「死亡済みですか」
「三年前に処刑された」
「では、死者への配達となります」
「それでいい」
ガルドは斧を肩に担ぎ直した。
「中に入れ。風が強い」
案内されたのは、村の外れにある小屋だった。元は鍛冶屋だったらしい。壁の一部は石で補修され、屋根には新しい板が打ちつけられている。中には簡素な寝台、椅子、暖炉、そして大量の紙束があった。
手紙だった。
書きかけのもの。丸めて捨てられたもの。破り裂かれたもの。焼こうとして途中でやめたもの。机の上だけでは足りず、床にも積まれている。
リュミエールはそれらを見た。
「すべて、ヴィクトル・ラウム宛てですか」
「そうだ」
「何通ありますか」
「数えていない」
「最終稿は」
「ない」
「では、代筆の目的は清書ですか」
「違う」
ガルドは椅子に腰を下ろした。片腕で斧を壁に立てかける。その動作には慣れがあった。
「俺は、言葉にしたい。俺の中で腐っているものを、外へ出したい」
「謝罪ではありませんね」
「謝罪?」
男の口元が歪んだ。
「俺が、あいつに?」
「依頼内容の分類確認です。謝罪、告白、確認、依頼、遺言、告発、呪詛、その他」
「呪詛だ」
ガルドは即答した。
「呪いの手紙を書きたい」
リュミエールは、その言葉を帳面に記録した。
「呪詛は、死者への配達に適さない場合があります」
「なぜだ」
「受取人からの応答が不安定になります。また、差出人の精神状態に影響を及ぼす可能性があります」
「上等だ」
「あなたは救済を求めていないのですか」
「求めていない」
「では、なぜ書くのですか」
ガルドは暖炉の灰を見た。
「俺がまだ人間だと確かめるためだ」
リュミエールは、その言葉を書こうとした。
俺がまだ人間だと確かめるため。
ペン先が紙の上で止まった。
人間であることを確かめるために、呪いを書く。
その構造は、彼女の既存の分類に合わなかった。手紙は、伝達の道具である。だがエルンストは、届かなくてもいいと言った。ミーナは、痛みが増しても兄の手紙を受け取った。ガルドは、救われるためではなく、呪うために書こうとしている。
どれも、非効率だった。
けれど、彼らは書く。
リュミエールは記録した。
「あなたが呪いたい理由をお話しください」
「理由?」
「はい」
「部隊が全滅した」
「詳細を」
ガルドはしばらく黙っていた。
暖炉には火が入っていない。小屋の中は寒かった。窓の外では、灰が斜めに降っている。星灰と戦火の灰が混ざり、空気は白く濁っていた。
「十二年前、この村の北で戦闘があった」
ガルドは語り始めた。
「敵軍は撤退しかけていた。俺たちは追撃命令を受けた。上官はヴィクトル・ラウム。若いが切れる男だった。部下からも慕われていた。少なくとも、その日まではな」
「追撃は成功しましたか」
「罠だった」
ガルドの声は低くなった。
「敵は撤退したふりをして、谷に爆薬を仕掛けていた。俺たちが入ったところで崖が崩れた。前方も後方も塞がれた。砲撃が始まった。逃げ場はなかった」
「ヴィクトル・ラウムは、その罠を予見できたのですか」
「分からない」
「では、過失か故意かは不明です」
ガルドの目がリュミエールを射た。
「お前は、裁判官か」
「事実確認です」
「事実なら山ほどある。俺の隣にいたレオは、腹が裂けて腸を押さえていた。まだ十七だった。母親に買ってもらった手袋をずっと気にしていた。死ぬ時も、その手袋を探していた」
リュミエールは黙った。
「ミハイルは足を吹き飛ばされた。痛いとも言わなかった。ただ、妹の名前を呼んでいた。カイは顔が半分なくなっても、まだ息をしていた。俺はこいつらを見た。全員、見た。俺の部隊は三十六人いた。戻ったのは俺だけだ」
「あなたは、なぜ生還できたのですか」
「崖の下に落ちた。死体の下敷きになった。右腕は潰れたが、血の匂いで敵に見つからなかった」
「救助は」
「二日後だ」
「その間、意識は」
「あった」
短い返事だった。
リュミエールは、その二日間を想像しようとした。
できなかった。
彼女の中には、それに対応する経験がない。痛み、恐怖、飢え、死臭、仲間の体温が失われていく時間。文字としては知っている。記録としてなら処理できる。だが、ガルドの声に含まれるものは、記録だけでは足りなかった。
「ヴィクトル・ラウムは、その時どこにいましたか」
「司令部だ」
「同行していなかったのですか」
「ああ」
「なぜですか」
「大尉だからだ。命令する側の人間は、死ぬ場所を選べる」
「その表現は、事実ですか」
「俺にとってはな」
ガルドは机の上の紙束を掴んだ。片手ではうまく揃えられず、何枚か床に落ちた。リュミエールは拾おうとしたが、彼は制した。
「触るな」
「失礼しました」
「この紙には、俺の腐ったものが染みている」
「腐ったもの」
「怒りだ」
その言葉を聞いた時、リュミエールの胸の奥が反応した。
悲しみとも、後悔とも違う。
もっと熱い。もっと硬い。空洞ではなく、閉じた拳に似ている。彼女は自分の左手を見た。指は開いている。力も入っていない。
それでも、胸の奥に何かが握られたような感覚があった。
「怒りとは、何ですか」
リュミエールは尋ねた。
ガルドは笑わなかった。
「奪われたものが、まだ自分の中で生きている証拠だ」
「憎しみとは違いますか」
「似ている。でも違う」
「どう違いますか」
「憎しみは相手を見る。怒りは、奪われたものを見る」
リュミエールは記録した。
怒りは、奪われたものを見る。
「手紙を始めます」
ガルドは言った。
「最初の一文を」
リュミエールは星紙を広げた。黒藍の紙が、冷たい小屋の中で薄く光る。
ガルドは深く息を吸った。
「ヴィクトル・ラウム。お前だけは許さない」
ペンが走った。
星紙は光らなかった。
それからガルドは言葉を吐き出した。
お前だけは許さない。
死んでも許さない。
お前の名前が歴史に残ることすら許せない。
お前が勇敢な指揮官だったと記録されるなら、その記録を焼いてやりたい。
お前が命令した地図の上で、俺たちは点だったか。
お前が報告書に書いた「損耗」という二文字の中に、レオの手袋は入っていたか。
ミハイルの妹の名は入っていたか。
カイの半分になった顔は入っていたか。
俺の右腕は、何行で処理された。
リュミエールは書いた。
整えなかった。
言葉は乱れていた。重複も多い。構成としては不適切だった。だが、ここで言葉を整理すれば、怒りの形が変わる。彼女はそう判断した。根拠はない。ただ、エルンストの謝罪を三度書いた時と同じ感覚があった。
必要な重複。
必要な歪み。
手紙は、正しい文章である前に、その人の形をしていなければならない。
「お前は処刑された」
ガルドは続けた。
「戦争の責任を取らされ、広場で首を落とされた。人々はそれで終わったと思った。国は正義を示したと言った。新聞は、無謀な命令を下した将校に裁きが下ったと書いた。だが、違う。お前の死で終わるなら、俺はこんなに長く生きていない」
彼の声が震えた。
「お前が死んでも、レオは戻らない。ミハイルも、カイも、ほかの三十三人も戻らない。俺の右腕も戻らない。夜中に、死体の下で目を覚ます夢も消えない。肉の焦げる匂いを嗅ぐたびに吐く体も治らない」
リュミエールのペンが、わずかに止まった。
「だから俺は、お前を許さない。許したら、あいつらが本当に死んでしまう気がするからだ」
小屋の中が静かになった。
外では、風が壁を叩いている。
リュミエールは最後の一文を書き終え、ガルドを見た。
「続けますか」
「まだだ」
彼は疲れたように椅子にもたれた。
「まだ足りない」
「何が足りませんか」
「分からない」
「では、休止しますか」
「いや」
ガルドは机の引き出しを開けた。中から古い封筒を取り出す。封は切られている。紙は丁寧に畳まれていた。
「これを読め」
リュミエールは受け取った。
宛名は、ガルド・ヘイム。
差出人は、ヴィクトル・ラウム。
「上官からの手紙ですか」
「処刑の三日前に届いた」
「読みましたか」
「読んだ」
「内容を手紙に反映しますか」
「分からん。だから読め」
リュミエールは封筒から紙を出した。
ガルド・ヘイムへ。
君がこの手紙を読むかどうか、私には分からない。
読まない方がよいのかもしれない。
しかし、私は書かなければならない。
北谷で失われた三十五名、そして生還した君について、私は毎日考えている。
命令を下したのは私だ。
あの地形を選んだのも私だ。
敵の撤退を好機と判断したのも私だ。
どの言葉で飾っても、結果は変わらない。
私は君たちを死地へ送った。
君は私を許す必要はない。
むしろ、許してはならないと思う。
許しは、時に生者の都合で死者を片づける行為になる。
私は明後日、処刑される。
それは罰ではあるが、償いではない。
罰は私に与えられる。
償いは、君たちに届かなければ意味がない。
届かないことを知りながら書くことを、卑怯だと思う。
だが、書かずに死ぬことの方が、もっと卑怯だと思った。
レオ・バルト。
ミハイル・セン。
カイ・オルド。
ほか、北谷で死んだ兵士たちの名を、私は覚えている。
覚えていると言う資格が私にあるかどうかも分からない。
それでも、忘れない。
忘れることだけは、私に許されていない。
君の右腕を奪った命令を、私は出した。
君の夜を壊したのは、私だ。
謝罪する。
だが、謝罪で何かが戻るとは思っていない。
もし君が私を呪うなら、その呪いは正しい。
私の墓に唾を吐くなら、それも正しい。
君がこの手紙を燃やすなら、私はそれを受け入れる。
ただ一つだけ、書かせてほしい。
北谷の作戦は、私一人の判断ではなかった。
上層部は、星灰による戦線崩壊を隠すため、短期決戦を求めていた。
私が命令を拒めば、別の誰かが同じ命令を出しただろう。
だからといって、私の罪が軽くなるわけではない。
命令に従うしかなかった、という言い訳は、死者には届かない。
戦争は終わる。
だが、星の崩壊は終わらない。
あの日、谷の上で見た灰の光は、砲撃ではなかった。
空そのものが裂けていた。
星の崩壊は、戦争より前から始まっていた。
そして、代筆士計画が、それを早めた。
私が知っているのは、そこまでだ。
君にこれを知らせることが、さらなる傷になるなら許してほしい。
許さなくていい。
ただ、知ってほしかった。
ヴィクトル・ラウム
リュミエールは手紙を読み終えた。
最後の二行が、頭の中に残った。
星の崩壊は、戦争より前から始まっていた。
そして、代筆士計画が、それを早めた。
代筆士計画。
灯台の写真にあった言葉と繋がる。第一号代筆士。感情回収実験開始。リュミエールの胸に、別の反応が生じた。冷たく、細いものが背中を通ったような感覚。
恐怖に該当する可能性。
だが、まだ分類しない。
「あなたは、この手紙をどう評価していますか」
リュミエールが尋ねると、ガルドは歯を食いしばった。
「読まなければよかった」
「理由は」
「憎みづらくなった」
「ヴィクトル・ラウムの罪は消えていません」
「分かっている」
「ならば、憎むことは可能です」
「お前は簡単に言う」
ガルドは立ち上がり、暖炉の前に行った。右腕のない袖が揺れる。
「あいつは悪人でいてくれればよかった。部下を駒としか見ない冷血な指揮官で、俺たちの名前なんか覚えていなくて、死ぬ前も自分の名誉だけ心配していた。そういう男なら、俺は楽だった」
「楽、ですか」
「憎む相手が、ちゃんと悪ければ楽なんだ」
ガルドは封筒を見下ろした。
「あいつは謝った。俺たちの名前を覚えていた。自分の命令が罪だと分かっていた。そのうえで、命令を出した。そんな人間を、俺はどう呪えばいい」
「呪わない選択もあります」
「無理だ」
「なぜですか」
「許せないからだ」
「許さないことと、呪うことは同一ですか」
ガルドは答えなかった。
リュミエールは手元の星紙を見た。そこにはガルドの怒りが書かれている。整えられていない、熱を帯びた言葉。だが、まだ末尾がない。怒りは出口を探している。出口が見つからないから、同じ場所で燃え続けている。
「ヴィクトル・ラウムの墓は、どこにありますか」
「村の北だ」
「処刑された者の墓が、この村に?」
「遺体を引き取る者がいなかった。だから、ここに埋められた。北谷で死んだ連中の近くにな」
「あなたが?」
「ああ」
「なぜですか」
ガルドは苦い顔をした。
「捨てておけなかった」
「許せない相手の遺体を?」
「そうだ」
「理由は」
「分からん」
リュミエールは、静かに言った。
「あなたは、ヴィクトル・ラウムを完全には憎めていない」
空気が変わった。
ガルドの左手が、斧の柄に伸びかけた。だが、彼は握らなかった。代わりに、机の上の紙束を叩き落とした。
「黙れ」
「不快でしたか」
「黙れと言った」
「はい」
リュミエールは口を閉じた。
ガルドは荒く息をしていた。怒りが顔に出ている。目は血走り、首筋に筋が浮かんでいる。もしリュミエールがもう一言続けていれば、彼は彼女を殴ったかもしれない。片腕でも、それは可能だった。
沈黙が落ちた。
しばらくして、ガルドは床に落ちた紙を一枚拾った。くしゃくしゃに丸められた古い手紙だ。彼はそれを広げ、破ろうとして、できなかった。
「俺は、あいつを許したいわけじゃない」
「はい」
「謝罪を受け取りたいわけでもない」
「はい」
「だが、あいつが何も感じずに死んだわけじゃないと知って、少しだけ息ができた」
ミーナと同じ言葉だった。
少しだけ、息ができる。
リュミエールは、その一致を記録した。
「それが腹立たしい」
ガルドは言った。
「なぜですか」
「俺の怒りが、あいつの謝罪に少しだけ場所を譲ったからだ」
その言葉は、リュミエールの中で長く残った。
怒りが、謝罪に場所を譲る。
それは赦しではない。救済でもない。だが、怒りだけで埋まっていた場所に、別のものが入る。入ってしまう。ガルドはそれを望んでいない。けれど、手紙を読んだ以上、なかったことにはできない。
手紙とは、受け取った者の内部を変えるものなのか。
本人が望まなくても。
「墓へ案内してください」
リュミエールは言った。
「何をする」
「配達方法を判断します」
北の墓地は、村から少し離れた丘にあった。
墓石は少ない。石を切り出す余裕がなかったのだろう。多くは木の杭で、そこに手紙が巻きつけられている。杭には名前が刻まれていた。レオ・バルト。ミハイル・セン。カイ・オルド。ほかにも、いくつもの名前が並んでいる。
ヴィクトル・ラウムの墓は、少し離れた場所にあった。
墓石はなく、低い木杭だけが立っている。名前は刻まれていない。代わりに、古い軍の認識票が釘で打ちつけられていた。
ガルドはその前で足を止めた。
「名前を刻まなかったのですか」
「刻めなかった」
「なぜ」
「俺には、あいつの名を石に残す資格がない」
「資格」
「死んだ連中の近くに置いた。それだけで精一杯だった」
リュミエールは周囲を見た。
北谷で死んだ兵士たちの墓は、ヴィクトルの墓を遠巻きに囲むように並んでいる。配置としては奇妙だった。加害者と被害者。命令した者と命令で死んだ者。離すこともできたはずだ。だが、ガルドは同じ丘に埋めた。
「あなたは、ヴィクトル・ラウムを仲間の近くに置いた」
「違う」
ガルドはすぐに否定した。
「監視だ。あいつが逃げないようにだ」
「死者は逃げません」
「分かっている」
「では」
「俺が、逃げないようにだ」
風が吹いた。
手紙の束が一斉に揺れた。紙の擦れる音は、遠くから囁きが集まってくるようだった。
ガルドは墓の前に立ち、左手で顔を覆った。
「俺は、あの日からずっとここにいる。村を離れればいいのに、離れられなかった。仲間を置いて行く気がした。あいつを置いて行く気もした。毎日ここへ来て、怒って、呪って、帰る。そうしないと、俺が生き残ったことを忘れそうになる」
「生き残ったことは、忘れたいことですか」
「分からん」
「忘れたいが、忘れることを恐れている」
ガルドは、リュミエールを見た。
今度は怒らなかった。
「お前は、感情が分からないんじゃなかったのか」
「分かりません」
「今のは、分かっている人間の言葉だ」
「推測です」
「厄介だな」
「はい」
リュミエールは星紙を取り出した。
ガルドの怒りの手紙。まだ末尾はない。
「この手紙を、どう届けますか」
彼女は尋ねた。
「燃やせ」
「受取人はヴィクトル・ラウムですか」
「そうだ」
「ヴィクトルの謝罪文を同時に燃やしますか」
「嫌だ」
「理由は」
「俺の怒りと、あいつの謝罪を一緒にするな」
「では、あなたの手紙のみ配達します」
リュミエールは頷いた。
「最後の一文を決めてください」
ガルドは、墓を見た。
長い沈黙だった。
エルンストの沈黙とも、ミーナの沈黙とも違っていた。そこには、言葉を探す苦しみがあった。怒りの奥にある、もっと小さく、もっと古いものを掘り起こそうとしている沈黙だった。
「ヴィクトル」
ガルドは言った。
「はい」
「俺は、お前を許さない」
リュミエールは書いた。
「だが」
ガルドの声が詰まった。
「俺は、もうお前だけを見て生きるのをやめる」
ペン先が止まった。
ガルドは続けた。
「レオの手袋を覚えている。ミハイルの妹の名前を覚えている。カイがいつも歌っていた下手な歌も覚えている。俺が覚えるべきなのは、お前の罪だけじゃなかった」
風が強くなった。
「俺は、お前を許さない。だが、俺の怒りを、お前だけのものにはしない」
リュミエールは、そのまま書いた。
星紙が光った。
今までとは違う光だった。
エルンストの手紙は、静かに灯るような光だった。ミーナの手紙は、痛みを含んだ温かい光だった。ガルドの手紙は、赤に近かった。炎ではない。だが、内側に熱があった。
「燃やします」
リュミエールは言った。
ガルドは頷いた。
彼女は星紙の左下に火を入れた。青い炎が生じ、すぐに赤みを帯びた。文字が一つずつほどけていく。お前だけは許さない、という最初の一文が燃える時、風が止んだ。
灰は、上へ昇らなかった。
地面にも落ちなかった。
墓石のない木杭の周りを、ゆっくりと回った。
まるで誰かが読んでいるように。
ガルドは動かなかった。片腕の男は、ただ墓を見ていた。彼の顔には涙がなかった。嗚咽もなかった。怒鳴りもしなかった。だが、身体全体が、長い間張りつめていた糸を少しずつ緩めているように見えた。
最後の一文字が燃え尽きた時、墓の前の土がわずかに沈んだ。
錯覚かもしれない。地面の下で根が崩れただけかもしれない。
だが、木杭に打ちつけられた認識票が、小さく鳴った。
金属音だった。
返事ではない。
謝罪でもない。
ただ、そこにいたものが、自分の名を呼ばれたと知ったような音だった。
ガルドの膝が折れた。
彼は墓の前に膝をつき、左手で土を掴んだ。
「畜生」
低い声だった。
「畜生。畜生」
何度も繰り返した。
リュミエールは、それを記録しなかった。
記録するには、その言葉はあまりに同じで、あまりに違っていた。一つ目の畜生と、二つ目の畜生と、三つ目の畜生は、同じ語ではなかった。怒り、悲しみ、後悔、疲労、喪失。それらが混ざっていた。
やがて、ガルドは顔を上げた。
目は赤かったが、涙はほとんど出ていなかった。
「手紙は、届いたのか」
「伝達成立の可能性があります」
「便利な言い方だ」
「はい」
「だが、今日はそれでいい」
彼は立ち上がった。
そして、ヴィクトルの墓の前に落ちていた石を拾った。片手で土を払い、木杭の根元に置く。
「何をしていますか」
「墓石にはならん」
「はい」
「だが、目印くらいにはなる」
石には名前がない。
ただの石だ。
それでも、そこに置かれた瞬間、ヴィクトル・ラウムの墓は、少しだけ墓らしくなった。
リュミエールは、それを見ていた。
「許すのですか」
「許さない」
ガルドは即答した。
「では、なぜ」
「許さない相手にも、墓くらいあっていい」
リュミエールは、その言葉を帳面に書いた。
許さない相手にも、墓くらいあっていい。
その日の夜、リュミエールはガルドの小屋に泊まった。
外は灰嵐になっていた。星灰と古い戦火の灰が混ざり、視界はほとんどない。小屋の中では、ガルドが暖炉に火を入れた。薪が燃える匂いが立ち上る。
彼は棚の奥から小さな瓶を出した。
「酒は飲むか」
「機能上は可能ですが、業務中は推奨されません」
「そうか」
ガルドは一人で飲んだ。
沈黙の多い夜だった。だが、不快な沈黙ではなかった。少なくとも、リュミエールは不快という反応を確認しなかった。
机の上には、ヴィクトルからの謝罪文が置かれている。
ガルドはそれを燃やさなかった。引き出しにも戻さなかった。ただ、そこに置いていた。
「それを、どうしますか」
リュミエールが尋ねると、ガルドは酒瓶を揺らした。
「分からん」
「保管しますか」
「たぶんな」
「なぜ」
「俺が忘れないためだ」
「ヴィクトルの罪を?」
「それもある」
「ほかには」
ガルドは、暖炉の火を見つめた。
「謝罪で戻るものはない。だが、謝罪を書いた人間がいたことまで消す必要はない」
リュミエールは頷いた。
「それは、怒りと矛盾しますか」
「する」
「では」
「人間は矛盾する」
ガルドは、彼女を見た。
「お前も、そのうちする」
「私は人間ではない可能性があります」
「人間じゃなくても、手紙を持って歩いていれば、矛盾くらい抱える」
リュミエールは、外套の内側のエルンストの手紙を意識した。
自分で書け。
鞄の中には、硬くなった星形のパン。帳面には悲しみと後悔。そして今夜、怒りという言葉が近づいている。
「ガルドさん」
「何だ」
「怒りは、悪いものですか」
ガルドは少し考えた。
「悪いこともする」
「はい」
「人を殴る。家を焼く。言わなくていい言葉を言わせる。生きている者を、死者の方へ引きずる」
「はい」
「だが、怒りがなければ、奪われたものが奪われたままになることもある」
「奪われたもの」
「そうだ。怒りは、ここにあったはずだ、と言う声だ」
リュミエールは、その言葉を聞いて、胸の奥に生じた熱を観察した。
ここにあったはずだ。
エルンストには、エリナと過ごすはずだった五十年があった。ミーナには、兄と店を続けるはずだった日々があった。ガルドには、仲間たちが生きているはずだった未来があった。
怒りは、それらが失われた場所に立つ。
ただ相手を傷つけるためではなく、失われたものの輪郭を守るために。
「怒り」
リュミエールは呟いた。
「今、何か分かったか」
「一部だけ」
「それで十分だ」
ガルドは酒を飲み干した。
「全部分かった顔をする奴ほど、信用できない」
翌朝、灰嵐は止んでいた。
村の空は相変わらず灰色だったが、風は穏やかだった。リュミエールが出発の準備をしていると、ガルドが外から戻ってきた。左手に木片を持っている。
「これを持っていけ」
「何ですか」
「レオの手袋を留めていた木札だ。あいつの墓のそばに落ちていた」
「なぜ私に」
「内陸へ行くんだろう」
「はい」
「どこかに、まだレオの母親が生きているかもしれない。生きていなくても、誰かに名前が残るかもしれない」
「配達依頼ですか」
「依頼じゃない」
ガルドは木札を差し出した。
「預けるだけだ。届けるかどうかは、お前が決めろ」
「私が」
「代筆士なんだろう」
リュミエールは木札を受け取った。
小さな札だった。手袋の持ち主を示すためのものらしく、片面に「レオ」と彫られている。文字は拙い。おそらく本人の手によるものだ。
「報酬は」
「ない」
「正式依頼ではありませんね」
「ああ」
「では、規定外です」
「だろうな」
ガルドは小さく笑った。
「お前は、規定外のパンも運んだんじゃないのか」
リュミエールは答えなかった。
なぜそれを知っているのか、と尋ねる必要はなかった。彼女の鞄の中に、まだパンの包みがある。匂いで分かったのかもしれない。
「分かりました。同行物として扱います」
「便利な言い方だ」
「はい」
村を出る前に、リュミエールはもう一度、北の墓地へ向かった。
ヴィクトルの墓の前には、昨日置かれた石があった。その隣に、小さな紙片が置かれている。ガルドの字ではない。古い文字だ。おそらく、ヴィクトルの謝罪文の写しの一部。
リュミエールは屈み、読んだ。
罰は私に与えられる。
償いは、君たちに届かなければ意味がない。
紙片は風に揺れていた。
彼女はそれを拾わなかった。そこにあるべきだと思った。思った、という言葉に、もう抵抗は少なかった。
村の入口まで戻ると、門に結ばれた無数の手紙が朝の風に鳴っていた。誰かへの怒り。誰かへの謝罪。誰かへの願い。届いたものも、届かなかったものも、破れかけた紙の中に残っている。
リュミエールは帳面を開いた。
悲しみ。
後悔。
その下に、新しい言葉を書いた。
怒り。
書いた瞬間、胸の奥にあった熱が少しだけ形を持った。
まだ理解したとは言えない。
だが、怒りがただ壊すためだけのものではないことは、分かった。怒りは奪われたものを見つめ続ける力であり、時に人を墓の前に縛りつける鎖であり、時にその鎖を自分で緩めるための火でもある。
村を離れようとした時、ガルドが声をかけた。
「代筆士」
「はい」
「お前、名前は」
「リュミエールです」
「そうか。リュミエール」
彼は初めて、彼女の名を呼んだ。
「怒りを知らないのは、幸せじゃないぞ」
「理由は」
「大切なものを奪われた時、自分が何を失ったか分からないままになる」
リュミエールは、その言葉を記録しなかった。
もう十分に覚えている、と判断したからだ。
「では、怒りを知ることは不幸ですか」
彼女が尋ねると、ガルドは少しだけ口元を緩めた。
「それも違う」
「では、何ですか」
「生きているということだ」
灰の降る道を、リュミエールは歩き出した。
背後の村では、手紙が風に鳴っている。墓標の代わりに立てられた紙の群れ。そこには、救われなかった言葉があった。救われることを拒んだ言葉もあった。それでも人々は書いた。書かなければ、奪われたものが本当に消えてしまうから。
リュミエールは鞄の留め具を確かめた。
中には星紙、硬くなったパン、レオの木札、そしてまだ空白の封筒がある。
彼女自身がいつか書くかもしれない手紙。
宛先は、まだない。
遠く、灰色の空の下に、雪をかぶった山並みが見えた。その麓に、孤児院があると聞いている。星灰で親を失った子どもたちが暮らす場所。声を失った少年が、亡き母への手紙を望んでいるという。
言葉を持たない者の手紙。
リュミエールは、その依頼の難度を想定した。
声がなければ、聞き取ることはできない。文字が書けなければ、転記もできない。表情、仕草、沈黙、持ち物。そこから言葉を作る必要がある。
代筆士の業務範囲内ではある。
だが、今のリュミエールには、それ以上の何かが待っているように感じられた。
風が吹いた。
門の手紙が、一斉に鳴った。
それは怒号ではなかった。祈りでもなかった。
ただ、生き残った者たちが、まだここにあるはずだったものの名を呼んでいる音だった。
リュミエールは足を止めずに歩いた。
胸の奥では、小さな火が消えずに残っていた。




