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星を綴る代筆士 ― 感情を知らない少女は、滅びゆく世界に手紙を届ける  作者: 二条理|アコンプリス


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第三章 怒りを知らない少女

 その村では、墓標の代わりに手紙が立っていた。

 エルムを出てから四日目、リュミエールはかつて戦場だった場所へ辿り着いた。地図には、グレン村と記されている。小麦畑に囲まれた小さな集落だったという。今は畑の跡も、家々の跡も、ほとんど灰に覆われていた。

 星灰ではない。

 焼けた木材と土と骨が混ざった、古い戦火の灰だった。

 村の入口には門が残っている。片側の柱だけが立ち、もう片方は根元から折れていた。そこに、何百通もの手紙が結びつけられている。雨に濡れ、風に破れ、墨は滲み、読めるものは少ない。それでも人々は、そこへ手紙を結び続けているらしかった。

 父へ。

 姉さんへ。

 帰ってこなかったあなたへ。

 許せない。

 会いたい。

 どうして。

 短い言葉が、紙の裂け目から覗いている。

 リュミエールは門の前で立ち止まり、帳面を開いた。

 グレン村。

 旧戦闘区域。

 人口、戦前二百三十六。

 現在居住者、推定十四。

 墓地機能、手紙による代替。

 依頼人、ガルド・ヘイム。

 元兵士。

 片腕欠損。

 依頼内容、上官への手紙。

 ここまで書いて、リュミエールは手を止めた。

 鞄の中には、ミーナからもらった星形のパンがまだ残っていた。硬くなっている。半分だけ食べ、残りは包んである。食料としては、もう適切ではない。捨てるべきだと彼女の判断機構は告げていた。

 だが、捨てていない。

 理由は不明。

 灯台守エルンストの手紙も、まだ外套の内側にある。代筆士に向けられた短い遺言。

 自分で書け。

 リュミエールは、その一文を何度も思い出していた。記憶から消えない。消す必要もないはずなのに、時折、胸の奥で文字が浮かび上がるような感覚がある。

 悲しみ。

 後悔。

 帳面には、すでに二つの言葉が書かれている。

 その意味はまだ完全には分からない。

 けれど、知らないままでは済まなくなっている。そう判断する自分がいることに、リュミエールは小さな違和感を覚えていた。

 村の中へ入ると、風の音が変わった。

 家の壁はほとんど崩れている。焼け焦げた柱だけが、肋骨のように地面から突き出していた。道は舗装されていない。ところどころに赤茶けた染みがある。戦闘から十年以上が経っているはずなのに、その色だけは土に沈みきらず、薄い影のように残っていた。

 中央広場には、石の井戸があった。

 井戸の縁にも、手紙が置かれている。石の隙間に差し込まれたもの、紐で結ばれたもの、燃えかけて黒くなったもの。手紙の数は、村の人口を遥かに超えていた。

「代筆士か」

 背後から声がした。

 振り向くと、男が立っていた。

 四十代半ばに見える。背は高いが、痩せていた。右腕は肩の下からなかった。袖は空のまま結ばれている。残った左手には、薪割り用の斧が握られていた。髪には白いものが混じり、頬には深い傷跡がある。目つきは鋭い。人を見る時、相手の顔ではなく喉元を見る癖があった。

「ガルド・ヘイムさんですか」

「ああ」

「依頼を確認します」

「上官に手紙を書きたい」

「上官の氏名を」

「ヴィクトル・ラウム」

 リュミエールは名前を書いた。

「階級は」

「当時は大尉」

「現在の所在は」

「墓の中だ」

「死亡済みですか」

「三年前に処刑された」

「では、死者への配達となります」

「それでいい」

 ガルドは斧を肩に担ぎ直した。

「中に入れ。風が強い」

 案内されたのは、村の外れにある小屋だった。元は鍛冶屋だったらしい。壁の一部は石で補修され、屋根には新しい板が打ちつけられている。中には簡素な寝台、椅子、暖炉、そして大量の紙束があった。

 手紙だった。

 書きかけのもの。丸めて捨てられたもの。破り裂かれたもの。焼こうとして途中でやめたもの。机の上だけでは足りず、床にも積まれている。

 リュミエールはそれらを見た。

「すべて、ヴィクトル・ラウム宛てですか」

「そうだ」

「何通ありますか」

「数えていない」

「最終稿は」

「ない」

「では、代筆の目的は清書ですか」

「違う」

 ガルドは椅子に腰を下ろした。片腕で斧を壁に立てかける。その動作には慣れがあった。

「俺は、言葉にしたい。俺の中で腐っているものを、外へ出したい」

「謝罪ではありませんね」

「謝罪?」

 男の口元が歪んだ。

「俺が、あいつに?」

「依頼内容の分類確認です。謝罪、告白、確認、依頼、遺言、告発、呪詛、その他」

「呪詛だ」

 ガルドは即答した。

「呪いの手紙を書きたい」

 リュミエールは、その言葉を帳面に記録した。

「呪詛は、死者への配達に適さない場合があります」

「なぜだ」

「受取人からの応答が不安定になります。また、差出人の精神状態に影響を及ぼす可能性があります」

「上等だ」

「あなたは救済を求めていないのですか」

「求めていない」

「では、なぜ書くのですか」

 ガルドは暖炉の灰を見た。

「俺がまだ人間だと確かめるためだ」

 リュミエールは、その言葉を書こうとした。

 俺がまだ人間だと確かめるため。

 ペン先が紙の上で止まった。

 人間であることを確かめるために、呪いを書く。

 その構造は、彼女の既存の分類に合わなかった。手紙は、伝達の道具である。だがエルンストは、届かなくてもいいと言った。ミーナは、痛みが増しても兄の手紙を受け取った。ガルドは、救われるためではなく、呪うために書こうとしている。

 どれも、非効率だった。

 けれど、彼らは書く。

 リュミエールは記録した。

「あなたが呪いたい理由をお話しください」

「理由?」

「はい」

「部隊が全滅した」

「詳細を」

 ガルドはしばらく黙っていた。

 暖炉には火が入っていない。小屋の中は寒かった。窓の外では、灰が斜めに降っている。星灰と戦火の灰が混ざり、空気は白く濁っていた。

「十二年前、この村の北で戦闘があった」

 ガルドは語り始めた。

「敵軍は撤退しかけていた。俺たちは追撃命令を受けた。上官はヴィクトル・ラウム。若いが切れる男だった。部下からも慕われていた。少なくとも、その日まではな」

「追撃は成功しましたか」

「罠だった」

 ガルドの声は低くなった。

「敵は撤退したふりをして、谷に爆薬を仕掛けていた。俺たちが入ったところで崖が崩れた。前方も後方も塞がれた。砲撃が始まった。逃げ場はなかった」

「ヴィクトル・ラウムは、その罠を予見できたのですか」

「分からない」

「では、過失か故意かは不明です」

 ガルドの目がリュミエールを射た。

「お前は、裁判官か」

「事実確認です」

「事実なら山ほどある。俺の隣にいたレオは、腹が裂けて腸を押さえていた。まだ十七だった。母親に買ってもらった手袋をずっと気にしていた。死ぬ時も、その手袋を探していた」

 リュミエールは黙った。

「ミハイルは足を吹き飛ばされた。痛いとも言わなかった。ただ、妹の名前を呼んでいた。カイは顔が半分なくなっても、まだ息をしていた。俺はこいつらを見た。全員、見た。俺の部隊は三十六人いた。戻ったのは俺だけだ」

「あなたは、なぜ生還できたのですか」

「崖の下に落ちた。死体の下敷きになった。右腕は潰れたが、血の匂いで敵に見つからなかった」

「救助は」

「二日後だ」

「その間、意識は」

「あった」

 短い返事だった。

 リュミエールは、その二日間を想像しようとした。

 できなかった。

 彼女の中には、それに対応する経験がない。痛み、恐怖、飢え、死臭、仲間の体温が失われていく時間。文字としては知っている。記録としてなら処理できる。だが、ガルドの声に含まれるものは、記録だけでは足りなかった。

「ヴィクトル・ラウムは、その時どこにいましたか」

「司令部だ」

「同行していなかったのですか」

「ああ」

「なぜですか」

「大尉だからだ。命令する側の人間は、死ぬ場所を選べる」

「その表現は、事実ですか」

「俺にとってはな」

 ガルドは机の上の紙束を掴んだ。片手ではうまく揃えられず、何枚か床に落ちた。リュミエールは拾おうとしたが、彼は制した。

「触るな」

「失礼しました」

「この紙には、俺の腐ったものが染みている」

「腐ったもの」

「怒りだ」

 その言葉を聞いた時、リュミエールの胸の奥が反応した。

 悲しみとも、後悔とも違う。

 もっと熱い。もっと硬い。空洞ではなく、閉じた拳に似ている。彼女は自分の左手を見た。指は開いている。力も入っていない。

 それでも、胸の奥に何かが握られたような感覚があった。

「怒りとは、何ですか」

 リュミエールは尋ねた。

 ガルドは笑わなかった。

「奪われたものが、まだ自分の中で生きている証拠だ」

「憎しみとは違いますか」

「似ている。でも違う」

「どう違いますか」

「憎しみは相手を見る。怒りは、奪われたものを見る」

 リュミエールは記録した。

 怒りは、奪われたものを見る。

「手紙を始めます」

 ガルドは言った。

「最初の一文を」

 リュミエールは星紙を広げた。黒藍の紙が、冷たい小屋の中で薄く光る。

 ガルドは深く息を吸った。

「ヴィクトル・ラウム。お前だけは許さない」

 ペンが走った。

 星紙は光らなかった。

 それからガルドは言葉を吐き出した。

 お前だけは許さない。

 死んでも許さない。

 お前の名前が歴史に残ることすら許せない。

 お前が勇敢な指揮官だったと記録されるなら、その記録を焼いてやりたい。

 お前が命令した地図の上で、俺たちは点だったか。

 お前が報告書に書いた「損耗」という二文字の中に、レオの手袋は入っていたか。

 ミハイルの妹の名は入っていたか。

 カイの半分になった顔は入っていたか。

 俺の右腕は、何行で処理された。

 リュミエールは書いた。

 整えなかった。

 言葉は乱れていた。重複も多い。構成としては不適切だった。だが、ここで言葉を整理すれば、怒りの形が変わる。彼女はそう判断した。根拠はない。ただ、エルンストの謝罪を三度書いた時と同じ感覚があった。

 必要な重複。

 必要な歪み。

 手紙は、正しい文章である前に、その人の形をしていなければならない。

「お前は処刑された」

 ガルドは続けた。

「戦争の責任を取らされ、広場で首を落とされた。人々はそれで終わったと思った。国は正義を示したと言った。新聞は、無謀な命令を下した将校に裁きが下ったと書いた。だが、違う。お前の死で終わるなら、俺はこんなに長く生きていない」

 彼の声が震えた。

「お前が死んでも、レオは戻らない。ミハイルも、カイも、ほかの三十三人も戻らない。俺の右腕も戻らない。夜中に、死体の下で目を覚ます夢も消えない。肉の焦げる匂いを嗅ぐたびに吐く体も治らない」

 リュミエールのペンが、わずかに止まった。

「だから俺は、お前を許さない。許したら、あいつらが本当に死んでしまう気がするからだ」

 小屋の中が静かになった。

 外では、風が壁を叩いている。

 リュミエールは最後の一文を書き終え、ガルドを見た。

「続けますか」

「まだだ」

 彼は疲れたように椅子にもたれた。

「まだ足りない」

「何が足りませんか」

「分からない」

「では、休止しますか」

「いや」

 ガルドは机の引き出しを開けた。中から古い封筒を取り出す。封は切られている。紙は丁寧に畳まれていた。

「これを読め」

 リュミエールは受け取った。

 宛名は、ガルド・ヘイム。

 差出人は、ヴィクトル・ラウム。

「上官からの手紙ですか」

「処刑の三日前に届いた」

「読みましたか」

「読んだ」

「内容を手紙に反映しますか」

「分からん。だから読め」

 リュミエールは封筒から紙を出した。

 ガルド・ヘイムへ。

 君がこの手紙を読むかどうか、私には分からない。

 読まない方がよいのかもしれない。

 しかし、私は書かなければならない。

 北谷で失われた三十五名、そして生還した君について、私は毎日考えている。

 命令を下したのは私だ。

 あの地形を選んだのも私だ。

 敵の撤退を好機と判断したのも私だ。

 どの言葉で飾っても、結果は変わらない。

 私は君たちを死地へ送った。

 君は私を許す必要はない。

 むしろ、許してはならないと思う。

 許しは、時に生者の都合で死者を片づける行為になる。

 私は明後日、処刑される。

 それは罰ではあるが、償いではない。

 罰は私に与えられる。

 償いは、君たちに届かなければ意味がない。

 届かないことを知りながら書くことを、卑怯だと思う。

 だが、書かずに死ぬことの方が、もっと卑怯だと思った。

 レオ・バルト。

 ミハイル・セン。

 カイ・オルド。

 ほか、北谷で死んだ兵士たちの名を、私は覚えている。

 覚えていると言う資格が私にあるかどうかも分からない。

 それでも、忘れない。

 忘れることだけは、私に許されていない。

 君の右腕を奪った命令を、私は出した。

 君の夜を壊したのは、私だ。

 謝罪する。

 だが、謝罪で何かが戻るとは思っていない。

 もし君が私を呪うなら、その呪いは正しい。

 私の墓に唾を吐くなら、それも正しい。

 君がこの手紙を燃やすなら、私はそれを受け入れる。

 ただ一つだけ、書かせてほしい。

 北谷の作戦は、私一人の判断ではなかった。

 上層部は、星灰による戦線崩壊を隠すため、短期決戦を求めていた。

 私が命令を拒めば、別の誰かが同じ命令を出しただろう。

 だからといって、私の罪が軽くなるわけではない。

 命令に従うしかなかった、という言い訳は、死者には届かない。

 戦争は終わる。

 だが、星の崩壊は終わらない。

 あの日、谷の上で見た灰の光は、砲撃ではなかった。

 空そのものが裂けていた。

 星の崩壊は、戦争より前から始まっていた。

 そして、代筆士計画が、それを早めた。

 私が知っているのは、そこまでだ。

 君にこれを知らせることが、さらなる傷になるなら許してほしい。

 許さなくていい。

 ただ、知ってほしかった。

 ヴィクトル・ラウム

 リュミエールは手紙を読み終えた。

 最後の二行が、頭の中に残った。

 星の崩壊は、戦争より前から始まっていた。

 そして、代筆士計画が、それを早めた。

 代筆士計画。

 灯台の写真にあった言葉と繋がる。第一号代筆士。感情回収実験開始。リュミエールの胸に、別の反応が生じた。冷たく、細いものが背中を通ったような感覚。

 恐怖に該当する可能性。

 だが、まだ分類しない。

「あなたは、この手紙をどう評価していますか」

 リュミエールが尋ねると、ガルドは歯を食いしばった。

「読まなければよかった」

「理由は」

「憎みづらくなった」

「ヴィクトル・ラウムの罪は消えていません」

「分かっている」

「ならば、憎むことは可能です」

「お前は簡単に言う」

 ガルドは立ち上がり、暖炉の前に行った。右腕のない袖が揺れる。

「あいつは悪人でいてくれればよかった。部下を駒としか見ない冷血な指揮官で、俺たちの名前なんか覚えていなくて、死ぬ前も自分の名誉だけ心配していた。そういう男なら、俺は楽だった」

「楽、ですか」

「憎む相手が、ちゃんと悪ければ楽なんだ」

 ガルドは封筒を見下ろした。

「あいつは謝った。俺たちの名前を覚えていた。自分の命令が罪だと分かっていた。そのうえで、命令を出した。そんな人間を、俺はどう呪えばいい」

「呪わない選択もあります」

「無理だ」

「なぜですか」

「許せないからだ」

「許さないことと、呪うことは同一ですか」

 ガルドは答えなかった。

 リュミエールは手元の星紙を見た。そこにはガルドの怒りが書かれている。整えられていない、熱を帯びた言葉。だが、まだ末尾がない。怒りは出口を探している。出口が見つからないから、同じ場所で燃え続けている。

「ヴィクトル・ラウムの墓は、どこにありますか」

「村の北だ」

「処刑された者の墓が、この村に?」

「遺体を引き取る者がいなかった。だから、ここに埋められた。北谷で死んだ連中の近くにな」

「あなたが?」

「ああ」

「なぜですか」

 ガルドは苦い顔をした。

「捨てておけなかった」

「許せない相手の遺体を?」

「そうだ」

「理由は」

「分からん」

 リュミエールは、静かに言った。

「あなたは、ヴィクトル・ラウムを完全には憎めていない」

 空気が変わった。

 ガルドの左手が、斧の柄に伸びかけた。だが、彼は握らなかった。代わりに、机の上の紙束を叩き落とした。

「黙れ」

「不快でしたか」

「黙れと言った」

「はい」

 リュミエールは口を閉じた。

 ガルドは荒く息をしていた。怒りが顔に出ている。目は血走り、首筋に筋が浮かんでいる。もしリュミエールがもう一言続けていれば、彼は彼女を殴ったかもしれない。片腕でも、それは可能だった。

 沈黙が落ちた。

 しばらくして、ガルドは床に落ちた紙を一枚拾った。くしゃくしゃに丸められた古い手紙だ。彼はそれを広げ、破ろうとして、できなかった。

「俺は、あいつを許したいわけじゃない」

「はい」

「謝罪を受け取りたいわけでもない」

「はい」

「だが、あいつが何も感じずに死んだわけじゃないと知って、少しだけ息ができた」

 ミーナと同じ言葉だった。

 少しだけ、息ができる。

 リュミエールは、その一致を記録した。

「それが腹立たしい」

 ガルドは言った。

「なぜですか」

「俺の怒りが、あいつの謝罪に少しだけ場所を譲ったからだ」

 その言葉は、リュミエールの中で長く残った。

 怒りが、謝罪に場所を譲る。

 それは赦しではない。救済でもない。だが、怒りだけで埋まっていた場所に、別のものが入る。入ってしまう。ガルドはそれを望んでいない。けれど、手紙を読んだ以上、なかったことにはできない。

 手紙とは、受け取った者の内部を変えるものなのか。

 本人が望まなくても。

「墓へ案内してください」

 リュミエールは言った。

「何をする」

「配達方法を判断します」

 北の墓地は、村から少し離れた丘にあった。

 墓石は少ない。石を切り出す余裕がなかったのだろう。多くは木の杭で、そこに手紙が巻きつけられている。杭には名前が刻まれていた。レオ・バルト。ミハイル・セン。カイ・オルド。ほかにも、いくつもの名前が並んでいる。

 ヴィクトル・ラウムの墓は、少し離れた場所にあった。

 墓石はなく、低い木杭だけが立っている。名前は刻まれていない。代わりに、古い軍の認識票が釘で打ちつけられていた。

 ガルドはその前で足を止めた。

「名前を刻まなかったのですか」

「刻めなかった」

「なぜ」

「俺には、あいつの名を石に残す資格がない」

「資格」

「死んだ連中の近くに置いた。それだけで精一杯だった」

 リュミエールは周囲を見た。

 北谷で死んだ兵士たちの墓は、ヴィクトルの墓を遠巻きに囲むように並んでいる。配置としては奇妙だった。加害者と被害者。命令した者と命令で死んだ者。離すこともできたはずだ。だが、ガルドは同じ丘に埋めた。

「あなたは、ヴィクトル・ラウムを仲間の近くに置いた」

「違う」

 ガルドはすぐに否定した。

「監視だ。あいつが逃げないようにだ」

「死者は逃げません」

「分かっている」

「では」

「俺が、逃げないようにだ」

 風が吹いた。

 手紙の束が一斉に揺れた。紙の擦れる音は、遠くから囁きが集まってくるようだった。

 ガルドは墓の前に立ち、左手で顔を覆った。

「俺は、あの日からずっとここにいる。村を離れればいいのに、離れられなかった。仲間を置いて行く気がした。あいつを置いて行く気もした。毎日ここへ来て、怒って、呪って、帰る。そうしないと、俺が生き残ったことを忘れそうになる」

「生き残ったことは、忘れたいことですか」

「分からん」

「忘れたいが、忘れることを恐れている」

 ガルドは、リュミエールを見た。

 今度は怒らなかった。

「お前は、感情が分からないんじゃなかったのか」

「分かりません」

「今のは、分かっている人間の言葉だ」

「推測です」

「厄介だな」

「はい」

 リュミエールは星紙を取り出した。

 ガルドの怒りの手紙。まだ末尾はない。

「この手紙を、どう届けますか」

 彼女は尋ねた。

「燃やせ」

「受取人はヴィクトル・ラウムですか」

「そうだ」

「ヴィクトルの謝罪文を同時に燃やしますか」

「嫌だ」

「理由は」

「俺の怒りと、あいつの謝罪を一緒にするな」

「では、あなたの手紙のみ配達します」

 リュミエールは頷いた。

「最後の一文を決めてください」

 ガルドは、墓を見た。

 長い沈黙だった。

 エルンストの沈黙とも、ミーナの沈黙とも違っていた。そこには、言葉を探す苦しみがあった。怒りの奥にある、もっと小さく、もっと古いものを掘り起こそうとしている沈黙だった。

「ヴィクトル」

 ガルドは言った。

「はい」

「俺は、お前を許さない」

 リュミエールは書いた。

「だが」

 ガルドの声が詰まった。

「俺は、もうお前だけを見て生きるのをやめる」

 ペン先が止まった。

 ガルドは続けた。

「レオの手袋を覚えている。ミハイルの妹の名前を覚えている。カイがいつも歌っていた下手な歌も覚えている。俺が覚えるべきなのは、お前の罪だけじゃなかった」

 風が強くなった。

「俺は、お前を許さない。だが、俺の怒りを、お前だけのものにはしない」

 リュミエールは、そのまま書いた。

 星紙が光った。

 今までとは違う光だった。

 エルンストの手紙は、静かに灯るような光だった。ミーナの手紙は、痛みを含んだ温かい光だった。ガルドの手紙は、赤に近かった。炎ではない。だが、内側に熱があった。

「燃やします」

 リュミエールは言った。

 ガルドは頷いた。

 彼女は星紙の左下に火を入れた。青い炎が生じ、すぐに赤みを帯びた。文字が一つずつほどけていく。お前だけは許さない、という最初の一文が燃える時、風が止んだ。

 灰は、上へ昇らなかった。

 地面にも落ちなかった。

 墓石のない木杭の周りを、ゆっくりと回った。

 まるで誰かが読んでいるように。

 ガルドは動かなかった。片腕の男は、ただ墓を見ていた。彼の顔には涙がなかった。嗚咽もなかった。怒鳴りもしなかった。だが、身体全体が、長い間張りつめていた糸を少しずつ緩めているように見えた。

 最後の一文字が燃え尽きた時、墓の前の土がわずかに沈んだ。

 錯覚かもしれない。地面の下で根が崩れただけかもしれない。

 だが、木杭に打ちつけられた認識票が、小さく鳴った。

 金属音だった。

 返事ではない。

 謝罪でもない。

 ただ、そこにいたものが、自分の名を呼ばれたと知ったような音だった。

 ガルドの膝が折れた。

 彼は墓の前に膝をつき、左手で土を掴んだ。

「畜生」

 低い声だった。

「畜生。畜生」

 何度も繰り返した。

 リュミエールは、それを記録しなかった。

 記録するには、その言葉はあまりに同じで、あまりに違っていた。一つ目の畜生と、二つ目の畜生と、三つ目の畜生は、同じ語ではなかった。怒り、悲しみ、後悔、疲労、喪失。それらが混ざっていた。

 やがて、ガルドは顔を上げた。

 目は赤かったが、涙はほとんど出ていなかった。

「手紙は、届いたのか」

「伝達成立の可能性があります」

「便利な言い方だ」

「はい」

「だが、今日はそれでいい」

 彼は立ち上がった。

 そして、ヴィクトルの墓の前に落ちていた石を拾った。片手で土を払い、木杭の根元に置く。

「何をしていますか」

「墓石にはならん」

「はい」

「だが、目印くらいにはなる」

 石には名前がない。

 ただの石だ。

 それでも、そこに置かれた瞬間、ヴィクトル・ラウムの墓は、少しだけ墓らしくなった。

 リュミエールは、それを見ていた。

「許すのですか」

「許さない」

 ガルドは即答した。

「では、なぜ」

「許さない相手にも、墓くらいあっていい」

 リュミエールは、その言葉を帳面に書いた。

 許さない相手にも、墓くらいあっていい。

 その日の夜、リュミエールはガルドの小屋に泊まった。

 外は灰嵐になっていた。星灰と古い戦火の灰が混ざり、視界はほとんどない。小屋の中では、ガルドが暖炉に火を入れた。薪が燃える匂いが立ち上る。

 彼は棚の奥から小さな瓶を出した。

「酒は飲むか」

「機能上は可能ですが、業務中は推奨されません」

「そうか」

 ガルドは一人で飲んだ。

 沈黙の多い夜だった。だが、不快な沈黙ではなかった。少なくとも、リュミエールは不快という反応を確認しなかった。

 机の上には、ヴィクトルからの謝罪文が置かれている。

 ガルドはそれを燃やさなかった。引き出しにも戻さなかった。ただ、そこに置いていた。

「それを、どうしますか」

 リュミエールが尋ねると、ガルドは酒瓶を揺らした。

「分からん」

「保管しますか」

「たぶんな」

「なぜ」

「俺が忘れないためだ」

「ヴィクトルの罪を?」

「それもある」

「ほかには」

 ガルドは、暖炉の火を見つめた。

「謝罪で戻るものはない。だが、謝罪を書いた人間がいたことまで消す必要はない」

 リュミエールは頷いた。

「それは、怒りと矛盾しますか」

「する」

「では」

「人間は矛盾する」

 ガルドは、彼女を見た。

「お前も、そのうちする」

「私は人間ではない可能性があります」

「人間じゃなくても、手紙を持って歩いていれば、矛盾くらい抱える」

 リュミエールは、外套の内側のエルンストの手紙を意識した。

 自分で書け。

 鞄の中には、硬くなった星形のパン。帳面には悲しみと後悔。そして今夜、怒りという言葉が近づいている。

「ガルドさん」

「何だ」

「怒りは、悪いものですか」

 ガルドは少し考えた。

「悪いこともする」

「はい」

「人を殴る。家を焼く。言わなくていい言葉を言わせる。生きている者を、死者の方へ引きずる」

「はい」

「だが、怒りがなければ、奪われたものが奪われたままになることもある」

「奪われたもの」

「そうだ。怒りは、ここにあったはずだ、と言う声だ」

 リュミエールは、その言葉を聞いて、胸の奥に生じた熱を観察した。

 ここにあったはずだ。

 エルンストには、エリナと過ごすはずだった五十年があった。ミーナには、兄と店を続けるはずだった日々があった。ガルドには、仲間たちが生きているはずだった未来があった。

 怒りは、それらが失われた場所に立つ。

 ただ相手を傷つけるためではなく、失われたものの輪郭を守るために。

「怒り」

 リュミエールは呟いた。

「今、何か分かったか」

「一部だけ」

「それで十分だ」

 ガルドは酒を飲み干した。

「全部分かった顔をする奴ほど、信用できない」

 翌朝、灰嵐は止んでいた。

 村の空は相変わらず灰色だったが、風は穏やかだった。リュミエールが出発の準備をしていると、ガルドが外から戻ってきた。左手に木片を持っている。

「これを持っていけ」

「何ですか」

「レオの手袋を留めていた木札だ。あいつの墓のそばに落ちていた」

「なぜ私に」

「内陸へ行くんだろう」

「はい」

「どこかに、まだレオの母親が生きているかもしれない。生きていなくても、誰かに名前が残るかもしれない」

「配達依頼ですか」

「依頼じゃない」

 ガルドは木札を差し出した。

「預けるだけだ。届けるかどうかは、お前が決めろ」

「私が」

「代筆士なんだろう」

 リュミエールは木札を受け取った。

 小さな札だった。手袋の持ち主を示すためのものらしく、片面に「レオ」と彫られている。文字は拙い。おそらく本人の手によるものだ。

「報酬は」

「ない」

「正式依頼ではありませんね」

「ああ」

「では、規定外です」

「だろうな」

 ガルドは小さく笑った。

「お前は、規定外のパンも運んだんじゃないのか」

 リュミエールは答えなかった。

 なぜそれを知っているのか、と尋ねる必要はなかった。彼女の鞄の中に、まだパンの包みがある。匂いで分かったのかもしれない。

「分かりました。同行物として扱います」

「便利な言い方だ」

「はい」

 村を出る前に、リュミエールはもう一度、北の墓地へ向かった。

 ヴィクトルの墓の前には、昨日置かれた石があった。その隣に、小さな紙片が置かれている。ガルドの字ではない。古い文字だ。おそらく、ヴィクトルの謝罪文の写しの一部。

 リュミエールは屈み、読んだ。

 罰は私に与えられる。

 償いは、君たちに届かなければ意味がない。

 紙片は風に揺れていた。

 彼女はそれを拾わなかった。そこにあるべきだと思った。思った、という言葉に、もう抵抗は少なかった。

 村の入口まで戻ると、門に結ばれた無数の手紙が朝の風に鳴っていた。誰かへの怒り。誰かへの謝罪。誰かへの願い。届いたものも、届かなかったものも、破れかけた紙の中に残っている。

 リュミエールは帳面を開いた。

 悲しみ。

 後悔。

 その下に、新しい言葉を書いた。

 怒り。

 書いた瞬間、胸の奥にあった熱が少しだけ形を持った。

 まだ理解したとは言えない。

 だが、怒りがただ壊すためだけのものではないことは、分かった。怒りは奪われたものを見つめ続ける力であり、時に人を墓の前に縛りつける鎖であり、時にその鎖を自分で緩めるための火でもある。

 村を離れようとした時、ガルドが声をかけた。

「代筆士」

「はい」

「お前、名前は」

「リュミエールです」

「そうか。リュミエール」

 彼は初めて、彼女の名を呼んだ。

「怒りを知らないのは、幸せじゃないぞ」

「理由は」

「大切なものを奪われた時、自分が何を失ったか分からないままになる」

 リュミエールは、その言葉を記録しなかった。

 もう十分に覚えている、と判断したからだ。

「では、怒りを知ることは不幸ですか」

 彼女が尋ねると、ガルドは少しだけ口元を緩めた。

「それも違う」

「では、何ですか」

「生きているということだ」

 灰の降る道を、リュミエールは歩き出した。

 背後の村では、手紙が風に鳴っている。墓標の代わりに立てられた紙の群れ。そこには、救われなかった言葉があった。救われることを拒んだ言葉もあった。それでも人々は書いた。書かなければ、奪われたものが本当に消えてしまうから。

 リュミエールは鞄の留め具を確かめた。

 中には星紙、硬くなったパン、レオの木札、そしてまだ空白の封筒がある。

 彼女自身がいつか書くかもしれない手紙。

 宛先は、まだない。

 遠く、灰色の空の下に、雪をかぶった山並みが見えた。その麓に、孤児院があると聞いている。星灰で親を失った子どもたちが暮らす場所。声を失った少年が、亡き母への手紙を望んでいるという。

 言葉を持たない者の手紙。

 リュミエールは、その依頼の難度を想定した。

 声がなければ、聞き取ることはできない。文字が書けなければ、転記もできない。表情、仕草、沈黙、持ち物。そこから言葉を作る必要がある。

 代筆士の業務範囲内ではある。

 だが、今のリュミエールには、それ以上の何かが待っているように感じられた。

 風が吹いた。

 門の手紙が、一斉に鳴った。

 それは怒号ではなかった。祈りでもなかった。

 ただ、生き残った者たちが、まだここにあるはずだったものの名を呼んでいる音だった。

 リュミエールは足を止めずに歩いた。

 胸の奥では、小さな火が消えずに残っていた。



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