第二章 届かなかった返事
鉄道は、町の外れで死んでいた。
リノヴァを出て三日目の夕方、リュミエールは錆びた線路の前で足を止めた。線路は内陸へ向かってまっすぐ伸びている。かつては海岸の港町と穀倉地帯を結び、人と荷物と手紙を運んでいたという。けれど今、鉄の上には星灰が積もり、ところどころから細い草が顔を出していた。
線路の脇に、傾いた標識が立っている。
エルム方面。
文字は半分ほど剥げていた。塗料の下に錆が浮き、矢印は灰に汚れている。リュミエールは標識を見上げ、帳面に現在地を記録した。
徒歩移動、三日目。
天候、星灰。
視界、不良。
周辺音、風音および遠雷に類似する低周波音。
同行者なし。
記録を書き終えてから、彼女は線路に沿って歩き出した。
鞄の中には、まだ使われていない星紙が入っている。黒藍色の紙は、何も書かれていない時ほど重く感じられる。それは物理的な重量ではない。厚さも質量も普通の紙と大差ない。だが、誰かの最後の言葉を待っている紙には、目に見えない圧力がある。
リュミエールは、その圧力の正体を知らない。
知る必要もない、と以前なら判断していた。
だが、灯台守エルンスト・ロウの手紙を届けてから、彼女の中には未分類の反応が残っていた。胸の奥にある小さな空洞。痛みではない。病でもない。機能異常として報告するには数値が足りない。だが、無視するには存在感があった。
彼女は何度か、自分の帳面を開いた。
そこには、一語だけが書かれている。
悲しみ。
意味は、まだ分からない。
言葉だけが先にある。中身は空白のままだった。
空白。
それは星紙に似ている、とリュミエールは思った。
思った、という表現が適切かどうかは分からない。ただ、そのように記録するのが最も近かった。
内陸都市エルムが見えたのは、夜のない夕暮れの底だった。
都市と言っても、かつての話だ。駅舎の周辺には崩れかけた倉庫が並び、商店街の看板は星灰で白く曇っていた。舗装路にはひびが走り、雨水の溜まった穴に灰が浮いている。人の気配はある。だが、港町リノヴァと同じように、声は少ない。
エルムはパンの町として知られていた。
周囲の小麦畑から粉が集まり、何十軒ものパン屋が朝から窯を焚いた。鉄道が生きていた頃は、エルムで焼かれたパンが毎朝の列車で各地へ運ばれたという。手紙より先にパンの匂いが届く町。古い旅行案内には、そう書かれていた。
今は、窯の煙も細い。
星灰は畑にも降る。小麦は育つが、年々色が薄くなっている。味も落ちた。食べても腹は満たされるが、昔のような甘さはない。人々はそう言った。
それでも、町の中央には一軒だけ、明かりのついたパン屋があった。
看板には、かすれた文字で「ミラール」と書かれている。扉の横に吊された小さな鐘は、風でかすかに揺れていた。窓の向こうには、棚に並んだ丸パンが見える。数は多くない。だが、形は丁寧だった。
リュミエールが扉を開けると、鐘が鳴った。
中にいた少女が、びくりと肩を揺らした。
年齢は十四か十五。栗色の髪を後ろで雑に結び、粉のついた前掛けをしている。目は大きいが、よく眠っていない者の濁りがあった。頬には幼さが残っている。だが手だけは、大人の職人のように荒れていた。
「閉店です」
少女は言った。
声は尖っていた。
「依頼確認に来ました」
リュミエールが告げると、少女の表情が変わった。
「代筆士?」
「はい。リュミエールです」
少女は目を見開き、それから急に視線を逸らした。待っていたものが来た時、人は必ずしも喜ぶわけではない。リュミエールはそれを、灯台の老人から学びかけていた。
「ミーナ・ミラールさんですか」
「……そうです」
「あなたは、行方不明の兄への手紙を希望しています」
「はい」
「兄の氏名は」
「ユアン・ミラール」
「年齢は」
「二十二」
「失踪時期は」
「一年前」
「生存確認は」
「取れていません」
ミーナはそこで唇を噛んだ。
リュミエールは帳面に記録した。依頼人、ミーナ・ミラール。宛先、ユアン・ミラール。関係、兄妹。状態、行方不明。生死不明。
「手紙の目的を確認します。謝罪、告白、確認、依頼、遺言、その他のうち、該当するものはありますか」
「分かりません」
「では、本文の初期案をお話しください」
ミーナは答えなかった。
店内には、焼き上がったパンの匂いが残っていた。だがその奥に、冷めた灰の匂いが混ざっている。窯はまだ熱を持っているが、火は落とされていた。棚の隅には、焦げたパンが一つだけ置かれている。売り物ではない。捨てられない失敗作のようだった。
「お兄様に伝えたいことはありますか」
リュミエールが尋ねると、ミーナは低く言った。
「どうして」
「はい」
「どうして、私を置いていったの」
それは質問だった。
だが、手紙の一文としては強すぎた。宛先に届いた場合、相手の防衛反応を誘発する可能性がある。通常なら、代筆士は言葉を整える。どうして私を置いていったの、ではなく、あなたの事情を知りたい、あるいは、今も待っている、と変換する。
リュミエールはペンを持ったまま、しばらく黙った。
「そのまま書きますか」
ミーナは顔を上げた。
「そのままって?」
「どうして、私を置いていったの、と」
「……変ですか」
「強い言葉です」
「強くていい」
ミーナは即答した。
「だって、兄さんは私を置いていったんです。父さんと母さんが死んで、店を守るって約束したのに。二人でやっていこうって言ったのに。ある朝、何も言わずにいなくなった。手紙もない。理由もない。町の人は、ユアンは逃げたんだって言う。星灰で麦が駄目になって、借金が増えて、妹の面倒を見るのが嫌になったんだって」
「あなたはそう考えていますか」
「分からない」
「分からないのに、置いていったと表現するのですか」
ミーナの目に怒りが浮かんだ。
「じゃあ、何て言えばいいんですか」
「現時点では、失踪です」
「失踪なんて言葉、冷たすぎる」
「事実に近い表現です」
「事実なんか知りたいんじゃない!」
ミーナは叫んだ。
棚の上のパンが一つ、わずかに揺れた。
リュミエールは、少女の声量と呼吸数を記録しようとして、やめた。なぜやめたのかは分からない。ただ、今それを書けば、ミーナの言葉から何かが抜け落ちる気がした。
また、気がした。
曖昧な表現が増えている。機能上、好ましくない傾向だった。
ミーナは、両手を握りしめていた。指の関節が白い。
「知りたいのは、兄さんが私を嫌いだったのかどうかです」
「嫌い」
「そう。私が邪魔だったのか。私とこの店が重荷だったのか。そんなに苦しかったなら、言ってくれればよかったのに。逃げるくらいなら、私だって店を捨てた。兄さんが生きていてくれるなら、パン屋なんかどうでもよかった」
最後の言葉だけ、声が小さかった。
リュミエールは、そこを聞き逃さなかった。
「では、手紙の目的は確認です」
「確認?」
「あなたが兄に嫌われていたかどうかを知りたい」
ミーナは少し傷ついた顔をした。
「そう言われると、嫌な人間みたい」
「不適切でしたか」
「分からない。でも、たぶん合ってる」
リュミエールは頷いた。
「生死不明者への配達には、所在調査が必要です。兄の部屋、持ち物、最後に目撃された場所を確認します」
「手紙を書くだけじゃないんですか」
「宛先の特定が必要です」
「もし、死んでいたら」
「死者への配達に切り替えます」
ミーナは黙った。
その沈黙は、エルンストの沈黙とは違っていた。老人の沈黙は、言葉を選んでいる時間だった。ミーナの沈黙は、言葉を受け入れないための壁のようだった。
「兄さんは、生きています」
「根拠はありますか」
「ありません」
「では、可能性として記録します」
「記録しなくていい」
ミーナは背を向けた。
「部屋は二階です。勝手に見てください」
二階の部屋は、時間が止まっていた。
階段を上がると、短い廊下の突き当たりに扉が二つある。左がミーナの部屋、右がユアンの部屋だという。ユアンの部屋は、一年前からほとんど触れられていなかった。
リュミエールが扉を開けると、乾いた粉と古い木の匂いがした。
ベッドは整っている。机には帳簿が積まれ、壁には小麦畑の収穫予定表が貼られていた。棚にはパン作りの本があり、余白には細かい書き込みがある。字は几帳面だった。道具箱には、壊れた秤の部品が入っている。窓際には、石で押さえられた紙片が一枚あった。
リュミエールはまず、部屋全体を観察した。
人が逃げる時、部屋には二種類の痕跡が残る。持っていくべき物が消えているか、捨てるべき物が残っているか。ユアンの部屋には、そのどちらも明確には見えなかった。衣類は半分ほど残っている。金銭らしきものはない。旅支度用の鞄もない。
机の引き出しには、未使用の封筒が十数枚入っていた。
そのうち一枚だけ、宛名が書きかけだった。
ミーナへ。
それだけだ。
本文はない。
リュミエールは封筒を手に取り、光に透かした。中身はない。紙には指の跡が薄く残っていた。書こうとして、やめた。あるいは、書けなかった。
机の奥には、古い帳簿があった。パン屋の売上、仕入れ、借入金、返済予定。数字は厳しかった。一年前の時点で、店はかなり追い詰められている。小麦の値段は上がり、売上は落ち、星灰対策の窯修理費が重なっていた。
その帳簿の最後に、別の紙が挟まっていた。
エルム北部灰域、臨時保全作業員募集。
危険手当あり。
身元保証不要。
契約期間、三十日。
作業内容、灰積層地区の封鎖壁修復および物資搬入。
生還率、保証せず。
リュミエールは、その紙を見て目を細めた。
逃亡ではない可能性が生じた。
紙の下には、小さなパンの焼き型が置かれていた。星形だった。子ども向けの菓子パンに使うものだろう。持ち手に、二つの名前が彫られている。
ユアン。ミーナ。
同じ筆跡ではない。片方は大人の字、片方は幼い字だった。
リュミエールはそれを帳面に記録した。
階下へ降りると、ミーナは窯の前に座っていた。膝を抱え、消えかけた火を見ている。
「兄の部屋に、灰域の作業員募集の紙がありました」
リュミエールが告げると、ミーナは顔を上げた。
「何ですか、それ」
「エルム北部灰域の封鎖壁修復作業です。危険手当が支給されます」
「知らない」
「兄は、その作業に参加した可能性があります」
「そんなわけない」
「なぜですか」
「兄さんは、灰域を怖がっていたから」
ミーナは首を振った。
「昔、父さんが灰域で倒れたんです。救助はされたけど、肺を悪くして、そのあと長く働けなくなった。兄さんはそれを見てた。灰域だけには近づくなって、いつも言ってた。私にも、絶対に行くなって」
「その兄が灰域へ行った理由として、危険手当が考えられます」
「お金のため?」
「帳簿上、当時の店は資金不足でした」
「そんなの、聞いてない」
「あなたに伝えなかった可能性があります」
「なんで」
「あなたを不安にさせないため」
「それ、勝手です」
ミーナは吐き捨てるように言った。
「勝手に黙って、勝手に危ないところへ行って、勝手にいなくなって。そんなの、優しさじゃない」
「その評価は妥当です」
ミーナは驚いたようにリュミエールを見た。
「代筆士って、人の気持ちは分からないんじゃないんですか」
「分かりません」
「じゃあ、どうして妥当って言えるんですか」
「相手のためという理由で情報を隠す行為は、受け手の選択権を奪います。優しさと分類される場合もありますが、同時に暴力性を持ちます」
ミーナは少し黙った。
「難しい言い方ですね」
「簡略化します」
「いいです」
少女は窯の中を見つめた。
「でも、そうです。兄さんはいつもそうだった。私のためって言いながら、何も言ってくれない。父さんと母さんが死んだ時も、兄さんは泣かなかった。大丈夫だ、俺がいるって。そればっかり。私が泣いても、兄さんは泣かなかった」
「泣かないことに、不満がありましたか」
「ありました」
ミーナは小さく頷いた。
「一緒に泣いてほしかった。大丈夫じゃないって言ってほしかった。怖いって言ってほしかった。なのに兄さんは、ずっと兄さんでいようとした」
リュミエールはその言葉を記録した。
ずっと兄でいようとした。
それは事実ではない。心情の推測だ。だが、手紙には必要な言葉かもしれなかった。
「灰域の場所を教えてください」
ミーナは顔をこわばらせた。
「行くんですか」
「所在調査のためです」
「危険です」
「承知しています」
「死ぬかもしれない」
「代筆士は、死亡率の高い場所への移動を業務範囲に含みます」
「そんな言い方、変です」
「事実です」
「怖くないんですか」
「恐怖に該当する反応は確認されていません」
ミーナは、リュミエールの顔をじっと見た。
「それ、楽ですか」
「意味が分かりません」
「怖くないこと。悲しくないこと。寂しくないこと」
リュミエールは即答できなかった。
以前なら、質問の形式が主観的すぎるため回答不能、と処理していただろう。しかし今、彼女の胸にはエルンストの手紙があった。自分で書け、という一文が、外套の内側で重く沈んでいる。
「不明です」
リュミエールは答えた。
「比較対象がありません」
灰域は、町の北にあった。
エルムの外縁には、星灰が厚く積もる地区がある。家々は半分ほど灰に埋まり、通りは白い砂漠のようになっていた。かつては小麦倉庫や製粉工場が並んでいた場所だという。星灰は水を吸うと固まり、建物の壁や屋根を内側から腐らせる。放置すれば、灰の層は町の中心へ広がる。そのため、封鎖壁を築いて流入を防いでいた。
だが壁の維持には、人手がいる。
人手には金がかかる。
金がない町は、危険手当を餌に、行き場のない者や借金を抱えた者を集める。
灰域の入口には、監視小屋があった。小屋の中にいた男は、リュミエールを見るなり顔をしかめた。
「女の子が来る場所じゃない」
「代筆士です」
リュミエールが身分証を示すと、男の表情が変わった。代筆士を歓迎する者は少ない。彼女たちが現れる時、そこにはたいてい死があるからだ。
「誰を探している」
「ユアン・ミラール。一年前、臨時保全作業に参加した可能性があります」
男は古い名簿を出した。湿気で膨らんだ紙をめくり、指で名前を探す。
「……いたな。ユアン・ミラール。若い男だ。パン屋の息子だったか」
「生存していますか」
男は答えなかった。
「記録を確認します」
「やめておいた方がいい」
「理由は」
「妹がいるんだろう」
「はい」
「なら、言わない方がいいこともある」
「私は宛先を特定する必要があります」
「代筆士ってのは、融通が利かないな」
「よく言われます」
男は溜息をつき、別の帳簿を出した。死亡者名簿ではなかった。行方不明者名簿でもない。搬出記録。そこに、ユアンの名前があった。
ユアン・ミラール。
契約開始、星暦七十二年灰月十四日。
配属、北部第三封鎖壁。
状態、帰還せず。
備考、汚染濃度上昇により捜索中止。
遺品、未封緘封筒一通、手帳一冊。
「遺品があるのですか」
「保管庫に残っていればな」
男は奥の棚を探した。しばらくして、灰色の布袋を持って戻ってきた。袋には番号札がついている。
「持っていくのか」
「確認します」
「妹に見せるのか」
「判断します」
「酷な仕事だな」
リュミエールは布袋を受け取った。
「はい」
自分でそう答えてから、彼女はわずかに違和感を覚えた。
酷である。
その評価に、同意した。
以前なら、酷という語は感情評価に属すると分類し、使用を避けていたはずだった。
保管庫の外に出ると、灰域から風が吹いた。星灰が舞い上がり、視界を白く塞ぐ。リュミエールは布袋を胸元に抱え、近くの壊れた停留所へ入った。屋根が半分残っており、風を少しだけ避けられた。
袋を開ける。
中には、手帳と封筒が入っていた。
封筒の宛名は、ミーナへ。
今度は、本文があった。
ただし、封はされていない。
リュミエールは手紙を開いた。
ミーナへ。
たぶん、お前は怒る。
俺が何も言わずに店を出たことを、一生許さないかもしれない。
それでいい。
店の借金は、今月の支払いを越えられない。
窯の修理代も、粉屋への未払いも、俺が何とかすると言ったが、実際には何ともできていなかった。
灰域の仕事に行けば、危険手当が出る。
三十日働けば、少なくとも今年の冬は越せる。
お前には言えなかった。
言えば、絶対についてくると言うからだ。
俺はお前に、灰の中を歩かせたくない。
もし帰れなかったら、俺は逃げたことにしてくれ。
妹を置いて逃げた兄でいい。
その方が、お前は俺を待たずに済む。
店を続けなくてもいい。
パンを焼かなくてもいい。
誰かに頼っていい。
俺を恨んでいい。
ただ、飯は食え。
窯の火を見すぎるな。
夜はちゃんと寝ろ。
それから、棚の奥に星形の焼き型がある。
昔、お前が父さんに頼んで作ってもらったやつだ。
誕生日のたびに、それでパンを焼いた。
お前はいつも焦げた方を俺に渡した。
俺は文句を言ったけど、実は焦げたところも嫌いじゃなかった。
ミーナ。
俺は、お前を置いていくわけじゃない。
お前が帰る場所を、守りに行く。
ユアン
リュミエールは、読み終えた手紙をしばらく見つめた。
内容は明確だった。兄は妹を捨てていない。逃亡ではない。危険手当のために灰域へ入り、帰還しなかった。妹のために悪者になる意図があった。手紙は未封緘。おそらく、送る直前に何らかの事情で持ち出せなかった。
この手紙を届ければ、ミーナの問いには答えが与えられる。
だが、同時にユアンの意図は破られる。
俺は逃げたことにしてくれ。
その方が、お前は俺を待たずに済む。
リュミエールは、手紙をもう一度読んだ。
代筆士の規定では、未送付の手紙は、差出人の意思が明確であれば配達対象になる。ただし、封緘されていないものは未完成と見なされる場合がある。本人の最終意思が確定していないため、代筆士の判断によって保留可能。
保留。
それは便利な言葉だった。
届けることも、届けないこともできる。
だが、どちらを選んでも、誰かの意思を傷つける。
リュミエールは初めて、自分の職務規定に重さを感じた。
正しい配達とは、何か。
宛先に真実を届けることか。
差出人の願いを守ることか。
あるいは、手紙が生き残った時点で、言葉はもう誰のものでもなくなるのか。
停留所の外では、灰が降り続いていた。
ユアンの手帳には、作業の記録が残っていた。
一日目、壁の補修。灰が膝まで積もる。
二日目、南側の支柱が腐食。手当は前払い不可。
三日目、隣の班で二人倒れる。
四日目、帰りたい。
五日目、ミーナのパンを思い出す。焦げたやつ。
六日目、粉の匂いがしないと眠れない。
七日目、手紙を書いた。出すか迷う。
八日目、出せなかった。あいつは待つ。待たせたくない。
九日目、封鎖壁の向こうで光。
十日目、俺が戻らなくても、店を恨むな。
十一日目、灰が肺に入った。
十二日目、ミーナ、飯を食え。
そこで終わっていた。
最後のページには、文字にならない線が引かれていた。手が震えたのだろう。何かを書こうとして、途中で力尽きた痕跡がある。
リュミエールは、最後の線を指でなぞった。
それは文字ではない。
だが、言葉に近かった。
ミーナの店へ戻った時、夜という名のない暗さが町に満ちていた。
パン屋の扉には鍵がかかっていなかった。中に入ると、ミーナは作業台で生地をこねていた。閉店後にもかかわらず、粉が広げられている。彼女はリュミエールを見ると、すぐに手を止めた。
「分かりましたか」
声が震えていた。
リュミエールは、布袋を作業台に置いた。
「兄は灰域の保全作業に参加していました」
ミーナの顔から血の気が引いた。
「生きてるんですか」
「帰還記録はありません」
「生きてるんですか」
同じ質問だった。
リュミエールは答えを選んだ。
「生存可能性は極めて低いです」
ミーナは、作業台の縁を掴んだ。
「死んだって、言えばいいじゃないですか」
「死亡確認は取れていません」
「そういうの、嫌いです」
「はい」
「はいって何ですか」
「あなたがそう感じることは、妥当です」
ミーナは泣かなかった。
代わりに、笑った。短く、乾いた笑いだった。
「兄さん、何してたんですか」
「店の借金を返すため、危険手当の出る作業に参加していました」
「馬鹿」
ミーナは呟いた。
「馬鹿ですよ。そんなの。店なんか、潰せばよかったのに。パンなんか、焼けなくてもよかったのに」
「兄は、あなたが帰る場所を守ろうとしていました」
リュミエールが言うと、ミーナの目が鋭くなった。
「それ、兄さんが書いたんですか」
リュミエールは沈黙した。
「何か持ってるんですね」
「はい」
「見せてください」
「兄の手紙は未封緘でした。本人が送付を決定していたか不明です」
「見せてください」
「内容には、あなたに自分を恨ませたいという意図が含まれています」
「見せて」
「その意図を尊重する場合、手紙は届けるべきではありません」
ミーナは作業台を叩いた。
「勝手に決めないで!」
粉が白く舞った。
「兄さんも、あなたも、どうして勝手に決めるんですか。私が傷つくとか、待つとか、苦しむとか、そんなの私が決めることじゃないんですか。兄さんが私を守りたかったなら、守られた私が何を思うかくらい、私に返してください」
リュミエールは、手紙を出せなかった。
その代わり、ユアンの手帳を開いた。
「兄の記録には、あなたへの言葉が残っています」
「手紙じゃないんですか」
「手紙もあります」
「じゃあ、それを」
「その前に、一つ確認します」
「何を」
「あなたは、兄の願いを破ってでも、真実を知りたいですか」
ミーナはリュミエールを睨んだ。
「兄さんの願いって、私に恨まれることですか」
「はい」
「だったら、もう叶ってます」
少女の声が震えた。
「一年前からずっと、叶ってます」
その言葉は、店の中に長く残った。
リュミエールは、封筒を差し出した。
ミーナは粉のついた手を見て、慌てて前掛けで拭いた。それから両手で封筒を受け取った。指が震えている。封はされていない。開けばすぐに読める。けれど彼女は、しばらく表を見つめていた。
ミーナへ。
ただそれだけの宛名を、彼女は何度も目でなぞった。
「兄さんの字だ」
「はい」
「本当に、兄さんの字だ」
ミーナは手紙を開いた。
読み始めてすぐ、彼女の呼吸が乱れた。
途中で一度、紙を置いた。だがすぐにまた拾い上げた。最後まで読むのに、長い時間がかかった。リュミエールはその間、何も言わなかった。
読み終えたミーナは、手紙を胸に押し当てた。
「ずるい」
彼女は言った。
「こんなの、ずるい」
「ずるい、とは」
「だって、怒れないじゃないですか」
「怒りは継続可能です」
「そういうことじゃない」
ミーナは泣いていた。
涙が頬を伝い、粉の跡を溶かした。彼女は何度も袖で拭ったが、涙は止まらなかった。
「怒りたいのに。馬鹿って言いたいのに。どうして死んだのって、どうして相談してくれなかったのって、言いたいのに。こんなの読んだら、兄さんが私を嫌ってなかったって分かっちゃう」
「それは、望んでいた確認ではありませんか」
「そうです」
ミーナはしゃくり上げた。
「そうです。でも、こんなに苦しいなら、知らない方がよかったかもしれない」
リュミエールは答えなかった。
手紙は救いになる。
そう聞いたことがある。代筆士としての教育記録にも、それに近い記述があった。言葉は喪失を整理し、受取人に区切りを与える。死者の意思を伝えることで、生者の停滞を解除する。
だが、今目の前で泣いている少女は、救われたようには見えなかった。
痛みが増したように見えた。
それでも、手紙を放そうとはしなかった。
「ミーナさん」
「はい」
「手紙を書きますか」
少女は涙で濡れた顔を上げた。
「兄さんに?」
「はい。死者への配達に切り替えることが可能です」
「届きますか」
「成功率は低いです」
「それでも、書きます」
ミーナはすぐに言った。
リュミエールは星紙を取り出した。黒藍の紙が作業台に広がる。粉の白さと、星紙の暗さが並んだ。窯の奥で、消えかけの火が赤く揺れている。
「最初の一文を」
リュミエールが言うと、ミーナはしばらく黙った。
泣き声が少しずつ落ち着いていく。彼女は手紙をもう一度読み、それから星形の焼き型を棚の奥から取り出した。持ち手には、二つの名前が刻まれている。
ユアン。ミーナ。
少女はそれを握りしめた。
「兄さんへ」
彼女は言った。
「はい」
「馬鹿」
リュミエールのペン先が止まった。
「そのまま書きますか」
「書いてください」
リュミエールは書いた。
兄さんへ。
馬鹿。
星紙は、少しだけ光った。
「続けてください」
「私は、怒っています」
ミーナは言った。
「あなたが私に何も言わなかったこと。勝手に灰域へ行ったこと。勝手に悪者になろうとしたこと。私が兄さんを嫌いになれば楽になるって、勝手に決めたこと。全部、怒っています」
リュミエールは書いた。
「でも」
ミーナは、息を吸った。
「嫌いになれませんでした。一年かけても、無理でした」
ペンが紙を滑る音だけが響いた。
「兄さんがいなくなってから、私は毎日パンを焼きました。店を守りたかったんじゃありません。兄さんが帰ってきた時、閉まっていたら困ると思ったからです。でも、帰ってこないなら、何のために焼いていたのか分かりません」
「続けますか」
「はい」
「私は、あなたを待っていました。恨みながら待っていました。嫌いだと思いながら、毎朝、兄さんの好きだった焦げたパンを焼きました。焦げたところ、嫌いじゃなかったって、どうして今さら書くんですか。そんなこと、生きてる時に言ってください」
ミーナは笑った。
涙を流しながら、少しだけ笑った。
「兄さん」
声が、やわらかくなった。
「私は店を続けるか分かりません。続けないかもしれません。パンを見るのが嫌になる日もあります。でも今日は、星形のパンを焼きます。焦げた方は、そっちにあげます。受け取れなくても、あげたことにします」
リュミエールは、その一文を書きながら、胸の奥の空洞がまた揺れるのを感じた。
悲しみとは違う。
怒りにも近い。
だが、それだけではない。
まだ分類できない。
「最後の一文を」
ミーナは目を閉じた。
長い沈黙があった。
「私を置いていったのではないと、あなたは書きました」
「はい」
「でも、私は置いていかれました」
リュミエールは顔を上げた。
ミーナの声は、静かだった。
「だから、私はここから歩きます。兄さんが守った場所から、私の足で。もう待つだけの妹ではいたくありません」
リュミエールは、そのまま書いた。
星紙が光を強めた。
その夜、ミーナは星形のパンを焼いた。
小さなパンだった。形は少し歪んでいた。焼き色も均一ではない。一つは綺麗な狐色で、もう一つは端が焦げていた。ミーナは焦げた方を紙に包み、ユアンの手紙とともに窯の前に置いた。
「死者への配達って、どうするんですか」
「星紙を燃やします」
「パンは?」
「通常は対象外です」
「でも、持っていってください」
「物品配達は規定外です」
「お願いします」
ミーナは頭を下げなかった。ただ、焦げたパンを両手で差し出した。
「兄さんは、たぶん食べたがります」
死者がパンを食べることはない。焦げた部分を好むかどうかも、現象として確認できない。規定では、受託不可とするのが正しい。
リュミエールは、焦げた星形のパンを受け取った。
「配達対象外ですが、同行物として扱います」
「ありがとうございます」
「礼は不要です」
「言いたいから言うんです」
リュミエールは黙った。
灰域へ戻ったのは、深い夜の時刻だった。空は相変わらず灰色で、星は見えない。だが星紙を開くと、そこだけに小さな夜空が生まれる。
ユアンの最終作業地点は、北部第三封鎖壁の跡地だった。壁は半分崩れ、白い灰が滝のように流れ込んでいる。リュミエールは崩れた壁の前に立ち、星紙を広げた。ミーナの手紙。ユアンの未封緘の手紙。そして焦げた星形のパン。
風が強い。
星灰が頬に当たる。
リュミエールは宛名を読み上げた。
「ユアン・ミラール」
灰域の奥で、何かが軋んだ。
「差出人、ミーナ・ミラール」
封鎖壁の割れ目から、淡い光が漏れた。
「返事です」
リュミエールは星紙に火を入れた。
炎は青く、すぐには紙を燃やさなかった。文字の上をゆっくり舐めるように進み、一文ずつ光へ変えていく。馬鹿、という最初の言葉が、いちばん強く光った。
灰は、空へ上がらなかった。
地面にも落ちなかった。
封鎖壁の割れ目へ向かって流れた。
リュミエールは焦げたパンを割れ目の前に置いた。規定外の行為だった。報告書に書くなら、同行物の設置。宗教的供物に類似。効果不明。
だが、パンを置いた瞬間、灰域の奥から小さな音がした。
誰かが笑ったような音だった。
風かもしれない。
崩れた壁が鳴っただけかもしれない。
それでもリュミエールは、その音を記録しなかった。
記録してしまえば、別のものになる気がした。
翌朝、エルムの町には薄い匂いが広がっていた。
パンの匂いだった。
リュミエールが店へ戻ると、ミーナは窯の前にいた。眠っていない顔だったが、目は昨日よりも少しだけ澄んでいる。棚には星形のパンが並んでいた。焦げたものも、綺麗に焼けたものもある。
「届きましたか」
ミーナが尋ねた。
「伝達成立の可能性があります」
「そうですか」
少女は頷いた。
「兄さん、怒ってましたか」
「観測できません」
「笑ってましたか」
「観測できません」
「じゃあ、いいです」
ミーナは、星形のパンを一つ袋に入れた。
「持っていきますか」
「支払いが必要ですか」
「いりません」
「対価なしの受領は」
「お礼です。言いたいから言うのと同じです」
リュミエールは袋を受け取った。
パンはまだ温かかった。手のひらに熱が伝わる。彼女はそれを観察した。温度。柔らかさ。小麦と焦げ目の匂い。
「これから、どうしますか」
リュミエールが尋ねた。
「分かりません」
ミーナは窓の外を見た。
「店を続けるかもしれません。畳むかもしれません。誰かに売るかもしれません。でも、決めるのは私です」
「はい」
「兄さんのことは、まだ怒っています」
「怒りは継続可能です」
ミーナは少し笑った。
「便利な言葉ですね」
「はい」
「でも、少しだけ、息ができます」
リュミエールはその言葉を帳面に書いた。
少しだけ、息ができる。
手紙によって悲しみが消えるわけではない。怒りがなくなるわけでもない。死者が戻るわけでもない。ただ、息ができるようになることがある。
それを救いと呼ぶのかは、まだ分からなかった。
店を出る時、ミーナが声をかけた。
「代筆士さん」
「はい」
「あなたには、手紙を書きたい人はいますか」
リュミエールは、すぐに答えられなかった。
外套の内側には、エルンストからの手紙がある。鞄には、ミーナから受け取った星形のパンがある。帳面には、悲しみという言葉がある。そして今日、彼女は別の言葉を書き足そうとしていた。
「現時点では不明です」
「そうですか」
「ですが」
リュミエールは、自分でも予想していなかった続きを口にした。
「知りたいとは、思います」
ミーナは目を丸くしたあと、小さく笑った。
「それなら、いつか書けますよ」
「根拠はありますか」
「ありません」
「では、不確実です」
「人間って、だいたいそうです」
扉の鐘が鳴った。
外では星灰が降っていた。だが、パン屋の煙突からは細い煙が上がっている。灰色の空へ、まっすぐではなく、少し揺れながら昇っていく煙だった。
リュミエールは町を出た。
線路沿いの道へ戻る前に、彼女は帳面を開いた。悲しみ、と書いたページの下に、新しい言葉を書き加える。
後悔。
その意味も、まだ完全には分からない。
だが、ユアンが出せなかった手紙と、ミーナが書いた返事の間に、その言葉は確かにあった。
リュミエールは星形のパンを一口だけ食べた。
味は、少し焦げていた。
美味しいかどうかは判定できなかった。けれど、飲み込んだあとも、舌の奥に苦い温度が残った。
彼女は歩き出した。
線路は、さらに内陸へ続いている。
その先に、かつて戦場だった村がある。墓標の代わりに手紙が地面へ刺されている場所だと、エルムの監視員は言っていた。
まだ届けられていない言葉がある。
まだ受け取られていない返事がある。
リュミエールは鞄の留め具を確かめ、灰の降る道を進んだ。
胸の奥の空洞は、消えていない。
ただ、その空洞の縁に、またひとつ別の名前が刻まれたような気がした。




