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星を綴る代筆士 ― 感情を知らない少女は、滅びゆく世界に手紙を届ける  作者: 二条理|アコンプリス


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第一章 灰の降る郵便局

 夜明けが来なくなってから、リノヴァの町では時計屋がいちばん先に潰れた。

 針が止まったわけではない。むしろ時計だけは、律儀に時を刻み続けていた。六時になれば鐘が鳴り、十二時になれば役所の塔から乾いた音が落ちた。夕刻を告げる鐘も鳴った。けれど、それらが示すものを信じる者は、もうほとんどいなかった。

 朝は白まなかった。昼は明るくならなかった。夕方は沈まなかった。

 空はいつも、燃え残りの紙を水に浸したような灰色をしていた。雲ではない。厚い霧でもない。もっと薄く、もっと重く、世界そのものが古い封筒の中に閉じこめられてしまったような色だった。

 その空から、灰が降る。

 町の者はそれを星灰と呼んだ。火事の灰よりも軽く、雪よりも冷たい。手のひらに受けると、しばらくは形を保っている。だが息を吹きかけると、粒は白い光をひとつ残して消える。消えたあとには、爪の先ほどの記憶が抜け落ちるという者もいた。

 昨日の夕食を思い出せなくなる者。

 亡くした母の声だけを忘れる者。

 自分の誕生日は覚えているのに、年齢だけが曖昧になる者。

 最初は笑い話だった。年寄りの物忘れと同じだと、酒場では冗談にもされた。だが、ある朝、町役場の戸籍簿から二十七人分の名前が薄くなっているのが見つかった。墨で書かれたはずの文字が、まるで水に濡れたように滲み、指でなぞれば剥がれた。

 それから人々は、星灰の中を歩くとき、帽子を深く被るようになった。

 郵便局の前にも、灰は降っていた。

 建物は海岸通りの端にあった。二階建ての古い赤煉瓦で、屋根には錆びた風見鶏が乗っている。かつては港に入る船乗りたちが、家族へ宛てた手紙をここから出した。恋人への便り、借金取りへの言い訳、遠い国からの絵葉書、戦地からの遺書。封筒はいつも窓口に山を作り、配達夫は朝から晩まで自転車を漕いでいたという。

 いま、郵便局に届く手紙は少ない。

 港へ入る船が減った。鉄道は三年前に止まった。街道の橋は星灰で脆くなり、荷馬車もめったに来ない。人々は遠くへ書くことをやめた。届かないものに、言葉を預ける余裕がなくなったのだ。

 その日、郵便局の扉を開けたのは、少女だった。

 年齢は十六、あるいは十七に見えた。長い白銀の髪を背に流し、黒い外套をまとっている。肌は光を知らない紙のように白く、瞳は硝子玉に閉じこめられた薄青の炎に似ていた。

 扉についた鈴が鳴った。乾いた、頼りない音だった。

 窓口にいた局長のマルテは、帳簿から顔を上げた。六十二歳。港町の郵便局長としては若すぎるとは言えないが、リノヴァの今を背負うには年を取りすぎていた。眼鏡の奥の目は赤く、頬はこけている。ここ数年で、彼は十歳ほど老けたように見えた。

「配達依頼かね」

 マルテが尋ねると、少女は首を横に振った。

「受託確認に来ました」

 声は静かだった。冷たいのではない。感情が乗っていないだけだった。雨樋を伝う水の音に似ている。聞こえるのに、そこに意図がない。

「名前は」

「リュミエール」

「姓は」

「ありません」

 マルテは眉を動かした。それから、カウンターの下に置いていた古い木箱を引き寄せた。鍵はかかっていなかった。箱の蓋を開けると、中には一枚の紙が入っていた。

 普通の紙ではない。夜の水面を薄く削いだような、黒とも藍ともつかない紙だった。角度を変えると、繊維の中に細かな光が浮かぶ。星紙である。

 それを見ても、リュミエールは表情を変えなかった。

「依頼人は灯台守のエルンスト・ロウ。年齢は八十一。星灰病の末期。医師による余命予測は三日から五日。本人は死後配達を希望しています」

 マルテは、そこまで一息に言ってから、リュミエールの顔を見た。

「君が、例の代筆士か」

「はい」

「感情を持たないというのは、本当かね」

 リュミエールは少しだけ間を置いた。考えたのではない。質問の意図を分類しているように見えた。

「感情に該当する反応は確認されていません」

「確認、ね」

 マルテは口の端を歪めた。笑おうとして、うまくいかなかった顔だった。

「人間は自分に感情があるかどうかを、確認なんてしないものだ」

「では、どのように判定するのですか」

「判定しない。あるから、あると思うだけだ」

「不確実です」

「不確実なもののために、人間は手紙を書く」

 リュミエールは、その言葉を聞いても頷かなかった。ただ、外套の内側から小さな革表紙の帳面を取り出し、銀のペンで何かを書いた。

 マルテは目を細めた。

「今のも記録するのか」

「はい。依頼遂行に関連する可能性があります」

「関係あるのかね」

「現時点では不明です」

「便利な答えだ」

 マルテは星紙を木箱に戻し、蓋を閉じた。

「エルンストは灯台にいる。歩いて半時間ほどだ。ただし、道は悪い。灰が深い場所がある。夜になると海霧も出る」

「問題ありません」

「君は若い娘に見えるが」

「見えるだけです」

 マルテは、何か言いかけてやめた。代筆士に年齢を問うのは無意味だと聞いていたからだ。どこで生まれ、何を食べ、誰に育てられたのかも、ほとんど知られていない。ただ、人の言葉を星紙に記し、必要なら死者へも届ける。それだけが、彼女たちの役目だった。

「一つ、頼みがある」

 マルテは低い声で言った。

「エルンストは頑固な男だ。あんたに話さないことがあるかもしれない。それでも、急かさないでやってほしい」

「依頼内容の聴取には、平均して四十二分を要します。時間超過は許容範囲内です」

「そうじゃない」

「では、どういう意味ですか」

 マルテは少女の瞳を見た。そこには、理解できないものへの苛立ちも、理解しようとする優しさもなかった。ただ澄んでいる。底がないほど澄んでいる。

「人が最後に言葉を選ぶときは、沈黙のほうが長くなる」

 リュミエールはまた帳面に書いた。

「沈黙のほうが長くなる」

「そうだ」

「理由は」

「言葉にしたら、終わってしまう気がするからだ」

 その答えを聞いたとき、リュミエールのペン先がほんの一瞬止まった。

 マルテは気づいたが、何も言わなかった。

 灯台へ続く道は、町の北側から海岸沿いに伸びていた。

 リュミエールは灰の中を歩いた。星灰は靴の甲に積もり、外套の裾に淡い輪を作った。風が吹くと、灰は一斉に横へ流れる。まるで見えない獣が、地面すれすれを這っているようだった。

 海は黒かった。

 本来なら、この時間帯は薄い金色に光るはずだと、町の案内板には書かれていた。けれど今の海には朝も昼もない。波は暗い鉛のように重く、岸壁にぶつかっては鈍い音を立てた。遠くには、使われなくなった桟橋の骨組みが見える。海鳥は一羽も飛んでいなかった。

 灯台は岬の先に立っていた。白い塔だった名残はあるが、外壁は星灰と潮で汚れ、灰色の筋がいくつも垂れていた。頂上の灯室にはまだ光がある。昼のない世界では、それは太陽よりも忠実な光だった。

 扉を叩くと、中から咳の音がした。

「開いている」

 しゃがれた声が答えた。

 リュミエールが扉を押すと、古い油と潮の匂いがした。室内は狭い。丸い壁に沿って棚があり、海図、工具、古いランプ、ひびの入ったマグカップが並んでいる。部屋の中央には鉄のストーブがあったが、火は弱かった。

 窓際の椅子に、老人が座っていた。

 灯台守のエルンスト・ロウは、骨と皮だけになっていた。だが背筋は妙にまっすぐで、膝に掛けた毛布の上に置かれた手は、まだ縄を結ぶ漁師の手のように大きかった。頬には星灰病特有の銀色の斑点が浮いている。瞳は白く濁っていたが、リュミエールのほうを確かに見た。

「お前さんが代筆士か」

「はい。リュミエールです」

「ずいぶん若いな」

「外見上は」

「中身は婆さんか」

「不明です」

 エルンストは、声を立てて笑った。笑ったあと、激しく咳き込んだ。痰に血が混じった。リュミエールは近くの机にあった布を取り、老人の手元に置いた。

「医師を呼びますか」

「いらん。医者にできることは、もうない。あいつらは死にかけた人間に水を飲ませて、苦しそうですね、と言うだけだ」

「苦しいのですか」

「苦しいな」

「では、医師の観察は正確です」

 エルンストはまた笑いかけたが、今度は咳が勝った。しばらく肩を揺らしたあと、彼は窓の外へ顔を向けた。

「海が見えるか」

「はい」

「どんな色だ」

「黒に近い灰色です」

「そうか。昔は青かった」

「記録にあります」

「記録じゃない。青かったんだ」

 リュミエールは黙った。

 マルテの言葉を思い出していた。最後に言葉を選ぶ者は、沈黙のほうが長くなる。彼女はその沈黙を待つことにした。

 エルンストは、しばらく海を見ていた。濁った目にどこまで映っているのかは分からない。だがその横顔には、見えないものを見ようとする人間の強情さがあった。

「手紙を書いてほしい」

「宛先は」

「妻だ」

「ご存命ですか」

「五十年前に死んだ」

 リュミエールは帳面を開いた。

「死者への配達は成功率が低いです。星紙を用いても、応答が得られる保証はありません」

「保証なんぞ、結婚した時からなかった」

「死者への伝達を希望しますか」

「そうだ」

「内容をお話しください」

 エルンストは、手元の毛布を握った。

「謝りたい」

「何についてですか」

「全部だ」

「全部、では文章化できません」

「そうだろうな」

 老人は苦笑した。

「お前さん、容赦がないな」

「具体性が必要です」

「分かっている」

 エルンストは目を閉じた。

 リュミエールは椅子に座らなかった。立ったまま、ペンを構えた。灯台の壁に当たる波の音が、部屋の底で低く鳴っていた。ストーブの火が一度だけ爆ぜる。灰が窓の外を流れていく。

「妻の名は、エリナ」

 老人が言った。

「エリナ・ロウ。旧姓は、エリナ・セル。港の仕立屋の娘だった。赤い布が好きでな。祭りの日には、いつも赤いリボンを髪に結んでいた」

「赤いリボン」

「綺麗だった」

 リュミエールは書いた。

「エリナは、俺より字がうまかった。俺が船に乗っていたころ、よく手紙をくれた。南の海で嵐に遭った時も、北の港で三か月足止めを食った時も、あいつの手紙だけは届いた。あのころは、郵便というのは奇跡みたいなものだったな。どこにいても、紙一枚が人間を見つけてくれる」

「紙一枚が人間を見つける」

「そうだ」

 エルンストは小さく頷いた。

「俺は返事を書くのが下手だった。何を書いていいか分からなかった。無事だ、金はある、寒い、魚がまずい。そんなことばかりだ。あいつはいつも、最後にこう書いていた。帰ってきたら、灯台の灯りを一緒に見よう、と」

「灯台の灯り」

「エリナは灯台が好きだった。海に出る男を待つ女にとって、灯台は夫みたいなものだと言っていた。馬鹿なことを言うなと笑った。灯台は灯台だ。人間とは違う、と」

 老人の声が掠れた。

「今なら分かる。あいつは、待つことをそう言い換えていたんだ」

 リュミエールは、老人の声の変化を記録した。発声量低下。呼吸間隔増大。頬部筋肉の緊張。涙はない。だが、部屋の温度が少し下がったような気がした。

 気のせいだ、と彼女は判断した。

「五十年前、何があったのですか」

「俺は帰らなかった」

 老人は言った。

「帰れなかったのではなく?」

「帰らなかった」

 その言葉だけ、はっきりしていた。

「その年、俺たちの船は豊漁だった。南の港で高く売れた。船長が、さらに遠くへ行こうと言った。戻れば冬の前に十分な金になる。だが、もう一航海すれば、家を買える。エリナを仕立屋の仕事から解放してやれる。俺はそう思った」

「連絡は」

「出さなかった。驚かせたかったんだ。愚かだろう」

「結果を教えてください」

「嵐に遭った。船は壊れ、仲間が三人死んだ。俺は助かったが、南の島で半年寝込んだ。リノヴァに戻った時、エリナは死んでいた」

 リュミエールのペン先が紙を滑る音だけがした。

「死因は」

「肺炎だ。俺を待って、毎日灯台の見える丘へ行っていたらしい。冬の雨の中でもな。ある晩、倒れた。熱が出た。三日で逝った」

「あなたが帰らなかったことと、彼女の死に因果関係があると考えていますか」

 老人は、白く濁った目をリュミエールへ向けた。

「お前さんは、本当に容赦がない」

「必要な確認です」

「あると思っている。なかったと言われても、俺にはそう思えない」

「それを手紙に書きますか」

「ああ」

 エルンストは手を伸ばし、机の引き出しを開けた。中から古い封筒の束を取り出す。紐で結ばれている。紙は黄ばみ、角が丸くなっていた。表には、女の字で宛名が書かれている。

「エリナからの手紙だ」

 リュミエールは受け取らなかった。老人がそれを抱える手に、強い力が残っていたからだ。

「読んでもいいぞ」

「必要なら」

「必要だ。俺がどれだけ取り返しのつかないものを受け取っていたか、知っておいてほしい」

「あなたの罪悪感の程度を確認するためですか」

「違う」

 老人は首を振った。

「手紙というのは、書いた人間だけのものじゃない。受け取った人間が、どう生きたかまで含めて、手紙なんだ」

 リュミエールはその言葉を書こうとした。

 しかし、うまく書けなかった。

 意味が複雑だったからではない。文字にはできる。だが、書き写した瞬間、何かが抜け落ちる気がした。そんな判断は、彼女の中に存在しないはずだった。

 結局、彼女はそのまま記録した。

「受け取った人間が、どう生きたかまで含めて、手紙」

 エルンストは満足そうに息を吐いた。

「では、始めよう」

 リュミエールは鞄から星紙を取り出した。机の上に広げると、部屋の暗さがわずかに変わった。紙の内側に夜空があるようだった。ペン先を置く前に、彼女は規定通り尋ねた。

「最初の一文を」

 エルンストは目を閉じた。

 すぐには答えなかった。

 波の音が何度も来て、何度も引いた。ストーブの火が小さくなった。灯台の上で歯車が回る音がする。光を動かす装置だ。もう船の来ない海へ、それでも灯りを投げ続けている。

「エリナ」

 老人が言った。

「はい」

「いや、違うな」

 また沈黙。

 リュミエールは待った。

「親愛なる、と書くのは違う。愛する、も違う。俺はそんな言葉を、生きている間に言ってやらなかった。死んでから急に飾るのは、卑怯だ」

「では、どう書きますか」

 老人は、乾いた唇を舐めた。

「エリナ。五十年遅れて、返事を書く」

 リュミエールは書いた。

 星紙の繊維が、淡く光った。

 それから手紙は、少しずつ形になっていった。

 エルンストは途中で何度も咳をした。ときおり息が詰まり、言葉が切れた。そのたびにリュミエールは水を差し出した。老人は礼を言わなかった。礼を言う時間すら惜しんでいるようだった。

 彼は謝罪を書いた。

 帰らなかったこと。驚かせたかったなどという、独りよがりな善意で彼女を待たせたこと。彼女の手紙に、いつも短い返事しか書かなかったこと。灯台の灯りを一緒に見ようという約束を、守らなかったこと。

 彼は嘘も書いた。

 最初の十年は、自分は立派に生きているつもりだったと。灯台守になったのは、贖罪のためだけではなく、海を見ていたかったからだと。彼女の好きだった灯台を守れば、少しは彼女の近くにいられる気がしたと。

 彼は恐れも書いた。

 死ぬのは怖くない。だが、もし死後に何もなかったら、自分は彼女に謝ることすらできない。もし死後に彼女がいて、こちらを見向きもしなかったら、それも怖い。もし彼女が笑って許してくれたら、それがいちばん怖い。

 リュミエールは書いた。

 書きながら、老人の声の細かな揺れを聞いた。文字にするには小さすぎる震えが、言葉の端に何度も現れた。彼の話は整理されていなかった。同じことを繰り返し、順序を間違え、急に昔の天気の話をし、また謝罪へ戻った。

 通常であれば、代筆士は依頼人の言葉を整える。重複を削り、宛先へ届きやすい形にする。感情を持たないからこそ、余計な装飾を加えず、正確に要旨を抽出できる。それがリュミエールの役目だった。

 だが、その手紙に限って、彼女は重複を削らなかった。

 老人が同じ謝罪を三度言えば、三度に分けて書いた。エリナの名を七度呼べば、七度書いた。意味だけなら一度で足りる。だが、足りない気がした。

 気がした、という表現を、彼女は自分の内部に置き場なく持て余した。

「最後の一文を」

 リュミエールが言うと、エルンストはしばらく黙っていた。

 顔色が悪い。唇は青く、指先には血の気がなかった。星灰病の斑点が、頬から首元まで広がっている。医師の予測よりも早いかもしれない。そう判断し、リュミエールは手紙の末尾に余白を残した。

「君に会えなくなった日から」

 老人は言った。

「はい」

「私は毎日、君に返事を書いていた」

 ペン先が止まった。

 リュミエールは、老人を見た。

「実際には、書いていません」

「ああ」

「虚偽を書きますか」

「違う」

 老人は、封筒の束を胸に抱いた。

「心の中で、書いていた。朝に灯りを消すとき。レンズを磨くとき。海が荒れる夜。船が一隻も来ない日。祭りの音が町から聞こえる晩。俺はいつも、お前なら何と言うだろうと考えた。そうやって五十年、生きてきた」

「それは返事ですか」

「返事だ」

「相手に届いていなくても」

「届かない返事ほど、人を長く縛るものはない」

 リュミエールは、ゆっくりと書いた。

 君に会えなくなった日から、私は毎日、君に返事を書いていた。

 最後の文字を書いた瞬間、星紙が光った。

 それはランプのような光ではなかった。火でもない。もっと静かで、もっと奥にある光だった。紙の繊維の一本一本が、眠っていた星を思い出したように淡く瞬いた。

 エルンストは、その光を見たのかどうか分からない。彼の目は白く濁っている。だが、口元がわずかに緩んだ。

「綺麗か」

「はい」

「そうか」

「読んで確認しますか」

「頼む」

 リュミエールは手紙を読み上げた。

 彼女の声に抑揚はなかった。悲しみを強めることも、謝罪を震わせることもない。ただ、書かれた文字を正確に音へ戻す。だがエルンストは、途中で何度も目を閉じた。泣いてはいなかった。涙は一滴も流れなかった。

 読み終えたとき、老人は長い息を吐いた。

「俺は、ひどい夫だったな」

「その評価は、受取人に委ねられます」

「それもそうだ」

「死後配達の実施時刻を指定しますか」

「俺が死んだあと、灯台の上で燃やしてくれ」

「承知しました」

「それから」

 老人は指を持ち上げた。わずかに震えている。

「もし、届いたら」

「はい」

「エリナに伝えてくれ。いや、書いたな。全部書いた」

「追加しますか」

「いや」

 エルンストは首を振った。

「言葉は、足りないくらいでいい。足りないぶんを、相手が生きていた時間で埋めてくれる」

 リュミエールは、その言葉も帳面に記録した。

 灯台を出たとき、灰は深くなっていた。

 リュミエールは郵便局へ戻らなかった。規定上、死後配達の依頼を受けた代筆士は、依頼人の死亡確認まで近隣に留まることになっている。灯台の一階には小さな仮眠室があり、彼女はそこで夜を過ごした。

 エルンストは、その夜を越えた。

 彼は翌日も灯室へ上がった。リュミエールが止めても、聞かなかった。石の螺旋階段を一段ずつ踏みしめ、何度も立ち止まりながら、最上部へ向かった。灯室には巨大なレンズがあった。星灰の時代になっても、彼は毎日それを磨き続けていたという。

「船はもう来ません」

 リュミエールが言った。

「知っている」

「では、なぜ灯りを維持するのですか」

「灯りというのは、来る者のためだけにあるんじゃない」

「ほかに何のために」

「帰れなかった者のためだ」

 エルンストは布でレンズを拭いた。腕は震えていたが、動きは丁寧だった。彼は長い時間をかけて、レンズの表面から灰を落とした。

「五十年前、俺はこの灯りを目印に帰った。エリナはもういなかったが、この灯りだけはあった。だから、俺はここに残った。俺が死ぬまで、こいつを消さないと決めた」

「それは誰との約束ですか」

「誰とも」

 老人は少し笑った。

「約束にならなかったものほど、人間は守ろうとする」

 その日の夜、エルンストは眠った。

 そして、目を覚まさなかった。

 死亡確認は、三度行った。呼吸なし。脈拍なし。瞳孔反応なし。星灰病による衰弱死。時刻は、時計の上では午前四時十二分。だが夜明けの来ない町では、その数字に意味は少なかった。

 リュミエールは、老人の手からエリナの手紙の束をそっと外した。胸元に置き直し、毛布をかけた。

 不思議なことに、彼の顔は苦しそうではなかった。

 それが死による筋肉の弛緩なのか、心理的安堵の痕跡なのか、リュミエールには判定できなかった。

 彼女は星紙の手紙を持ち、灯室へ上がった。

 外は海霧に包まれていた。レンズの向こうには黒い海がある。波の音だけが、見えない場所から届いていた。灯台の光はゆっくりと回転し、霧の中へ白い刃を投げる。その光に、星灰が照らされていた。灰の粒は一つ一つが小さな文字のように見えた。

 リュミエールは手紙を開いた。

 死者への配達には手順がある。まず、宛名を読み上げる。次に差出人の名を告げる。最後に星紙の左下に火を入れる。火が上へ昇れば失敗。灰が宙で散れば保留。灰が地に落ちれば、伝達成立の可能性がある。

 彼女は規定通りに行った。

「エリナ・ロウ。旧姓、エリナ・セル」

 霧が動いた。

「差出人、エルンスト・ロウ」

 灯台の光が海を撫でた。

「五十年遅れの返事です」

 リュミエールは小さな火をつけた。星紙の端が燃えた。炎は青かった。紙はゆっくりと焼けていく。普通の紙なら黒く縮むはずだった。だが星紙は、燃えながら内側から文字を解いていった。一文字ずつ光になり、灰になる。

 灰は空へ上がらなかった。

 リュミエールは、それを見た。

 燃え尽きた手紙の灰は、風に逆らうように下へ落ちた。灯室の床ではない。レンズの隙間を抜け、海へ向かった。細い光の粒になって、霧の中を降りていく。

 リュミエールは階段を降り、外へ出た。

 岬の先から海を見下ろすと、黒い水面に淡い輪が広がっていた。灰が落ちた場所だ。そこだけ、海が夜空のように光っている。

 そして、水面に人影が立った。

 若い女だった。

 赤いリボンを髪に結んでいた。顔ははっきり見えない。輪郭は波に揺れ、すぐに崩れそうだった。それでもリュミエールには、彼女が笑っているように見えた。

 女は、岬を見上げた。

「エルンスト」

 声が聞こえた。

 風の音かもしれない。波の音が偶然そう響いただけかもしれない。リュミエールは死者の存在を証明できない。星紙による反応も、厳密には現象にすぎない。

 だが、女は確かに名を呼んだ。

 その瞬間、リュミエールの胸に何かが触れた。

 痛みではなかった。病理的な異常でもない。呼吸は正常。脈拍は平常。体温にも変化はない。視界の揺れも、聴覚の異常もない。

 それでも、胸の奥に小さな空洞ができたような感覚があった。

 空洞なのに、重い。

 空っぽなのに、消えない。

 リュミエールは手を胸に当てた。

 そこには何もなかった。衣服の下にあるのは、規則正しく動く身体だけだ。感情器官は未確認。反応の分類は不能。

 水面の女は、やがて消えた。

 光の輪も消えた。

 海は再び黒くなった。

 リュミエールは長い時間、岬に立っていた。なぜ立ち続けているのか、自分でも分からなかった。配達は完了している。報告書を作成し、郵便局へ戻り、次の依頼を確認するべきだった。

 だが足が動かなかった。

 彼女は帳面を開いた。

 エルンストの最後の一文を、もう一度読んだ。

 君に会えなくなった日から、私は毎日、君に返事を書いていた。

 その文字を見たとき、胸の空洞がわずかに軋んだ。

 リュミエールは新しいページを開き、そこに一語を書いた。

 悲しみ。

 書き終えたあとも、意味は分からなかった。

 ただ、その言葉が先ほどの空洞に最も近いように思えた。

 郵便局へ戻ると、マルテは窓口の内側で待っていた。眠っていなかったのだろう。机の上には冷めた茶があり、灰皿には火のついていない煙草が一本置かれていた。

「終わったか」

「はい」

「届いたのか」

「伝達成立の可能性があります」

「そうか」

 マルテは目を伏せた。

「エルンストは、何か言っていたか」

「灯りは、来る者のためだけにあるのではないと」

「帰れなかった者のため、か」

「知っていたのですか」

「あいつが酔うと、いつも言っていた」

 マルテは、初めて少し笑った。悲しそうな笑みだった。

「手紙は」

「燃焼完了しました」

「そうか。あいつらしいな。最後まで、形の残らないものばかり守った」

 リュミエールは、報告書に必要な事項を伝えた。死亡時刻。配達時刻。星紙の反応。海面上の現象。音声らしきものの発生。マルテは黙って聞いていた。

 すべてを話し終えると、彼はカウンターの下から一通の封筒を出した。

「これは、あいつから預かっていた」

「宛先は」

「君だ」

 リュミエールは、封筒を見た。

 表には、拙い字で「代筆士へ」と書かれている。

「いつ預けられたものですか」

「昨日の夜だ。君が仮眠室にいる間に、あいつが俺を呼んだ。まだ歩けるうちに渡しておく、と言ってな」

「内容は確認しましたか」

「していない。手紙というのは、宛先の人間が最初に読むものだ」

 リュミエールは封を切った。

 中には短い紙片が一枚だけ入っていた。

 代筆士へ。

 もしお前さんが、俺の手紙を届けてくれたなら、礼を言う。

 そして、ひとつだけ余計なことを書いておく。

 人は、死ぬから手紙を書くのではない。

 生きている間に言えなかったことが、死ぬ時になっても消えてくれないから書くのだ。

 もしお前さんに、言えなかったことがないなら、それは幸せではない。

 まだ誰にも会っていないだけだ。

 いつか、お前さんにも手紙を書きたい相手ができる。

 その時、誰かに代筆を頼むな。

 自分で書け。

 エルンスト・ロウ

 リュミエールは、紙片を読み終えても、しばらく動かなかった。

 マルテが尋ねた。

「何と書いてあった」

「私に、自分で手紙を書けと」

「いい遺言だ」

「私は手紙を書く機能を有しています」

「そういう意味じゃないだろう」

「では、どういう意味ですか」

 マルテは困ったように頭を掻いた。

「それは、君がそのうち分かることだ」

「不確実です」

「人間は、不確実なもののために手紙を書く」

 同じ言葉だった。

 リュミエールは、封筒を外套の内側にしまった。なぜ捨てないのか、なぜ報告書と一緒に保管しないのか、自分でも説明できなかった。

「次の依頼はありますか」

 彼女が尋ねると、マルテは奥の棚から別の木箱を出した。

「ある。内陸都市エルムからだ。鉄道が止まっているから、歩くことになる。パン屋の娘が、行方不明の兄へ手紙を書きたいらしい」

「生存確認は」

「取れていない」

「死亡の可能性は」

「高い」

 リュミエールは頷いた。

「受託します」

 マルテは彼女を見つめた。

「少し休んでいったらどうだ」

「必要ありません」

「エルンストの死に立ち会ったばかりだ」

「業務に支障はありません」

「そうか」

 マルテは、それ以上は言わなかった。

 郵便局を出る前に、リュミエールはふと足を止めた。壁際に、古い写真が何枚か飾られている。まだ港に船が多かったころの写真だ。笑う配達夫たち。郵便袋を積んだ馬車。赤いリボンの女と、若い灯台守。

 その隣に、違和感のある写真が一枚あった。

 灯台の地下室らしき場所に、白衣の男たちが並んでいる。中央には、硝子の棺のような装置が置かれていた。その中に、少女が眠っている。

 白銀の髪。

 白い肌。

 薄青の瞳。

 リュミエールと同じ顔だった。

「この写真は」

 彼女が尋ねると、マルテは顔を上げた。

「ああ、それか。古い資料だ。灯台を修理した時に地下から出てきた。誰の写真かは分からん」

「地下とは」

「灯台の地下だ。今は扉が錆びて開かない。エルンストも詳しくは知らなかった」

 リュミエールは写真に近づいた。

 写真の隅に、小さな文字が書かれている。時間でほとんど消えかけていたが、彼女の目はそれを読み取った。

 第一号代筆士。

 感情回収実験開始。

 リュミエールは、その文字を見た。

 胸の奥の空洞が、また小さく軋んだ。

 マルテが後ろから声をかけた。

「どうした」

「不明です」

「何が」

「私は、あの写真を知りません」

「そうだろうな」

「ですが」

 リュミエールは写真から目を離さなかった。

「見覚えがあるように感じます」

 マルテは黙った。

 外では星灰が降り続いていた。郵便局の窓を叩く灰の粒は、音もなく消えていく。リュミエールは写真の中の少女を見ていた。少女は眠っている。いや、眠らされている。彼女の胸元には、黒い紙が一枚置かれていた。

 星紙だった。

 その紙には、何も書かれていない。

 まだ誰の言葉も受け取っていない、空白の手紙。

 リュミエールは、外套の内側にしまったエルンストの手紙を意識した。

 自分で書け。

 その一文だけが、妙に重かった。

 彼女は郵便局の扉を開けた。

 鈴が鳴った。

 灰の降る町を、リュミエールは歩き出した。背後で郵便局の明かりが小さく揺れている。前方には、内陸へ続く灰色の道があった。夜明けはまだ来ない。海の向こうにも、空の端にも、光は見えなかった。

 けれど彼女の鞄の中には、星紙がある。

 誰かが最後まで言えなかった言葉を、まだ受け取る余白がある。

 リュミエールは胸に手を当てた。

 そこには、消えない空洞があった。

 彼女はその名前を、まだ正しく知らない。

 ただ、帳面にはもう書かれている。

 悲しみ、と。



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