第四章 母のいない子守唄
山へ近づくほど、灰は雪に似ていった。
グレン村を離れてから、リュミエールは北へ向かった。地図の上では、そこに一本の街道が通っているはずだった。かつては行商人の荷車や巡礼者の列が行き来し、冬になる前には干し肉や薪を積んだ馬車が山麓の村々へ向かったという。
だが今、その街道は半分ほど埋もれていた。
降っているのは雪ではない。星灰だった。けれど寒冷地の空気に触れた星灰は、下界で見るものよりも白く、粒も大きかった。靴で踏むと、乾いた音がした。雪ならば水を含み、やがて溶ける。星灰は溶けない。踏まれた跡に淡い光を残し、風に吹かれてまた舞い上がる。
山は黒かった。
木々は葉を落とし、枝だけが空へ向かって伸びている。遠くから見ると、無数の細い手が灰色の天を掴もうとしているようだった。風が吹くたび、枝先に積もった星灰がさらさらと落ちる。その音は、紙を破る音に似ていた。
リュミエールは外套の襟を少し上げた。
寒さは感じる。体温の低下も計測できる。だが、それを不快とは判定しなかった。身体が寒さに反応しているだけだ。歩行速度を維持し、呼吸を整え、手袋の内側で指を軽く動かす。
鞄の中には、三つのものが入っていた。
星紙。
エルンストの手紙。
レオの木札。
それから、もう食べ物とは呼べなくなった星形のパンの欠片。捨てるべきものだと分かっている。だが、リュミエールはまだ捨てていなかった。
理由は明確ではない。
ただ、その欠片を見ると、ミーナの窯の匂いを思い出す。パンを焼く煙。粉の白さ。手紙を読んだ少女の涙。兄を馬鹿と呼びながら、焦げたパンを死者へ渡そうとした両手。
記憶は、ただ保存されているだけではなかった。
時折、胸の内側で小さく動いた。
悲しみ。
後悔。
怒り。
帳面の同じページに、三つの語が並んでいる。
それらはまだ彼女の所有物ではない。誰かの内側にあったものを、外側から観察し、紙に記しただけだ。だが、観察しただけの言葉が、なぜ自分の胸に残るのか。リュミエールには分からなかった。
山道の先に、建物が見えた。
石造りの大きな屋根。尖塔の折れた礼拝堂。周囲を囲む低い壁。壁の上には星灰が厚く積もっている。門には古い札がかかっていた。
聖ミリア孤児院。
門の横に、小さな手袋が片方だけ引っかかっていた。子どものものだ。赤い糸で縫われた星の模様がある。リュミエールはそれを見て、グレン村のレオの木札を思い出した。母親に買ってもらった手袋を探して死んだ少年。ガルドの声が、灰混じりの風の中から戻ってくる。
リュミエールは手袋には触れず、門を押した。
軋んだ音がした。
院内の庭には、子どもたちの足跡が残っていた。星灰の上に、小さな靴跡がいくつも交差している。庭の中央には枯れた噴水があり、その縁に布で作った人形が座らされていた。片目が取れ、綿が少し出ている。それでも首元には、小さなリボンが結ばれていた。
玄関の扉が開いた。
中年の女性が顔を出した。黒い修道服に似た衣服を着ているが、胸には宗教的な印はない。目元に深い疲労があり、髪には白いものが多かった。
「代筆士さんですね」
「はい。リュミエールです」
「院長のマルタです。遠いところを」
「依頼確認に来ました」
マルタは少しだけ寂しそうに笑った。
「中へどうぞ。ここは冷えます」
孤児院の中は、外よりも静かだった。
子どもがいる施設にしては、声が少ない。笑い声も泣き声も、廊下の奥に押し込められているようだった。壁には子どもの絵が貼られている。山、家、パン、母親らしき人の顔。だがどの絵にも、空は灰色に塗られていた。
リュミエールは廊下を歩きながら、左右を観察した。
洗濯された小さな服。
補修された靴。
欠けた木馬。
食堂から漂う薄いスープの匂い。
規律は保たれている。掃除も行き届いている。けれど、物資は不足している。壁の隅の亀裂には布が詰められ、窓ガラスの割れた部分は油紙で塞がれていた。
「依頼人はノエル・エヴァンス。年齢は」
「七歳です」
「発声不能と聞いています」
「はい。完全に声が出ないわけではありません。ただ、ほとんど話しません」
「医学的原因は」
「医者は、喉に異常はないと言いました。星灰病の後遺症か、心因性のものだろうと」
「文字は書けますか」
「少しだけ。でも、手紙を書けるほどではありません」
「亡くなった母への手紙を希望しています」
リュミエールが確認すると、マルタは足を止めた。
「正確には、私が希望しました」
「本人の意思ではないのですか」
「本人の意思でもあると思います」
「推定ですか」
「はい」
「代筆には本人の意思確認が必要です」
「分かっています」
マルタは静かに頷いた。
「それでも、あの子には必要だと思いました」
「理由を」
マルタは廊下の奥へ視線を向けた。そこには小さな部屋の扉がある。扉の前に、木製の椅子が一脚置かれていた。誰かがいつも座っているのだろう。座面の端が少し削れている。
「ノエルは、毎晩同じものを抱いて眠ります。壊れたオルゴールです。母親の形見だと言っています。声には出しませんが、そう示しました」
「オルゴール」
「曲は途中で止まります。いつも同じところで。そのたびに、あの子は目を閉じます。泣きそうな顔をするのに、涙は出ません」
「涙が出ないことは問題ですか」
「問題というより」
マルタは言葉を探した。
「泣けない子は、ずっと泣き続けているのと同じです」
リュミエールは、その言葉を帳面に記録した。
泣けない子は、ずっと泣き続けている。
意味はすぐには分からなかった。だが、書いておく必要があると判断した。
扉の向こうは、小さな寝室だった。
ベッドが六つ並んでいる。そのうち五つはきちんと畳まれ、残りの一つだけに少年が座っていた。窓際のベッドだ。膝を抱え、灰色の空を見ている。
ノエル・エヴァンス。
髪は薄い金色で、星灰に触れたせいか毛先が白くなっていた。痩せている。首も手首も細い。顔立ちは整っているが、表情に動きが少ない。瞳は深い緑色だった。子どもの目にしては、あまりに静かだった。
彼の膝には、小さなオルゴールがあった。
木製の箱で、蓋には剥げかけた花模様が描かれている。金具は錆び、角にはひびが入っていた。少年はそれを両手で抱いている。抱くというより、守っているように見えた。
「ノエル」
マルタがやわらかく呼びかけた。
「代筆士さんが来てくれました」
少年は、リュミエールを見た。
恐怖は見られない。警戒はある。好奇心も少しある。だが、口は開かなかった。
リュミエールはベッドから二歩離れた位置で立ち止まった。
「リュミエールです。あなたの手紙を作成するために来ました」
少年は動かない。
「あなたは、母親へ手紙を書きたいですか」
ノエルは返事をしなかった。
マルタが横から言った。
「ノエル、嫌なら首を横に振っていいのよ」
少年は、しばらくリュミエールを見ていた。
それから、ほんの少しだけ頷いた。
リュミエールは帳面に書いた。
本人意思、肯定。
発話なし。
頷きによる確認。
「母親の名前を教えてください」
ノエルは唇を動かした。
音は出なかった。
彼はベッドの横にある小さな箱から紙を取り出した。そこには、子どもの字で「リサ」と書かれていた。おそらく何度も練習したのだろう。同じ名前が何行も並んでいる。リサ。リサ。リサ。途中で文字が崩れ、ただの線になっている箇所もあった。
「母親の名前はリサ」
リュミエールが確認すると、少年は頷いた。
「死因は」
ノエルの手が、オルゴールを強く抱いた。
マルタが小さく首を振った。
「星灰病です。三年前、ここへノエルを連れてきて、その二日後に亡くなりました」
「母親はこの孤児院で死亡しましたか」
「いいえ。近くの廃駅で倒れていたところを、巡回の者が見つけました。もう手遅れでした」
「遺言は」
「ありました。ただし」
マルタは部屋を出るよう、目で示した。
廊下に出ると、彼女は胸元から一通の封筒を取り出した。
「これが、リサさんが持っていたものです」
封筒は古く、ところどころ星灰で変色していた。宛名はない。中の紙は、文字が崩れていた。インクが滲んでいるだけではない。星灰病の末期に見られる記録崩壊だ。書かれた言葉そのものが、紙の上で輪郭を失っている。
それでも、いくつか読める語があった。
ノエル。
ごめんね。
声。
忘れないで。
子守唄。
朝が来たら。
あとは黒い染みと、溶けたような線だけだった。
「これを、ノエルは読みましたか」
「読める部分だけ。ですが、それ以来、さらに話さなくなりました」
「母親の意思を復元する依頼ですか」
「いいえ」
マルタは首を横に振った。
「リサさんの手紙を復元したい気持ちもあります。でも、本当に必要なのは、ノエル自身の手紙だと思います」
「なぜですか」
「ノエルは、母親からの言葉を待っているのではありません。自分の言葉を返せなかったことに、閉じ込められているように見えます」
リュミエールは、封筒の文字を見た。
ごめんね。
忘れないで。
子守唄。
それらは、燃え残った骨のような言葉だった。全体を復元することはできない。だが、そこに誰かの手があったことだけは分かる。死にかけた母親が、子どもに何かを残そうとした痕跡。
「オルゴールを確認できますか」
リュミエールが言うと、マルタは頷いた。
ノエルは最初、オルゴールを渡さなかった。
リュミエールが手を差し出すと、少年は首を横に振った。小さく、しかしはっきりと。彼はオルゴールを胸に抱き、リュミエールの目を見た。
「破損させる意図はありません」
少年は動かない。
「内部構造と曲を確認します。手紙作成に必要です」
少年の眉がわずかに寄った。
リュミエールは言葉を変えた。
「あなたが抱いているものを、私も知る必要があります」
ノエルはしばらく黙っていた。
やがて、両手でオルゴールを差し出した。
リュミエールは慎重に受け取った。木の箱は軽かった。けれど、少年の手から離れる瞬間、空気が変わったように感じた。
蓋を開けると、内側には小さな鳥の絵が描かれていた。青い鳥。片方の翼だけが金色に塗られている。巻き鍵は側面にあり、少し曲がっていた。
リュミエールはゆっくりと鍵を巻いた。
音が鳴った。
細い旋律だった。古い子守唄。音は澄んでいるが、途中で歯車が引っかかる。八小節目に入る手前で、曲は不自然に止まった。最後の音が震えながら消える。
ノエルは目を閉じた。
彼の顔に、痛みに似た反応が浮かんだ。
「この曲を知っていますか」
リュミエールが尋ねると、少年は頷いた。
「母親が歌っていましたか」
頷き。
「続きを覚えていますか」
ノエルは首を横に振った。
「途中までしか覚えていない」
頷き。
「止まる場所が、母親の声を思い出せなくなる場所ですか」
少年は、リュミエールを見た。
目が大きく開かれていた。
マルタが息を呑む。
ノエルは、ゆっくり頷いた。
リュミエールは、その反応を見て、胸の奥に微かな圧迫を感じた。
記憶が途中で止まる。
オルゴールが途中で止まる。
母の手紙も途中で崩れている。
ノエルの中では、すべてが同じ場所で途切れているのだろう。母親の声、子守唄、最後に言いたかった言葉、自分が返せなかった言葉。
リュミエールはオルゴールを返した。
「手紙を書くには、あなたの言葉が必要です」
ノエルは俯いた。
「声が出ない場合、別の方法を使います。絵、文字、仕草、記憶、物。どれでも構いません」
少年は少し考え、ベッドの下から小さな布袋を出した。
中には、いくつかのものが入っていた。
青い糸。
欠けたボタン。
木の匙。
乾いた花びら。
そして、小さな紙切れ。
紙切れには、子どもの字で「おかあさん」と書かれていた。
リュミエールは、それらを一つずつ机に並べた。
「これは母親のものですか」
青い糸。頷き。
「服を縫っていた」
頷き。
「これは」
欠けたボタン。ノエルは自分の胸元を指さした。服のボタン。母が縫いつけたもの。
木の匙。ノエルは口元へ持っていく仕草をした。
「食事」
頷き。
乾いた花びら。ノエルは窓の外を指さした。庭。春。花。
「母親と花を見た」
少し迷ってから、頷き。
紙切れ。おかあさん。
リュミエールはそれを見た。
「あなたが書いたものですか」
頷き。
「いつ」
少年は答えられなかった。代わりに、オルゴールを指した。
「曲を聞く時に書いた」
頷き。
「母親を呼ぶため」
少年の手が止まった。
それから、小さく頷いた。
リュミエールは机の上の品々を見た。どれも、価値のあるものではない。市場に出しても、ほとんど値はつかない。だが、ノエルはそれらを袋に入れ、ずっと持っていた。手紙を書くには十分すぎるほどの言葉が、そこにあった。
ただ、まだ形になっていない。
「ノエルさん」
リュミエールは言った。
「あなたは、母親に何を伝えたいですか」
少年は答えなかった。
「怒っていますか」
首を横に振る。
「悲しいですか」
止まる。
頷かない。首も振らない。
「寂しいですか」
少年の指が、オルゴールの蓋を撫でた。
頷き。
「母親を忘れたくない」
強く頷く。
「でも、思い出すと苦しい」
少年の手が止まった。
そして、ゆっくり頷いた。
リュミエールは帳面を閉じた。
ここからは、通常の聞き取りでは足りない。言葉を持たない者の代筆。教育記録には方法が書かれていた。対象の行動を観察し、反復される仕草を抽出し、保管物の意味を照合し、周囲の証言と統合する。
だが、それだけでは不十分だと、今のリュミエールは分かり始めていた。
手紙には、正しい情報だけでなく、言えなかった沈黙が必要だった。
その夜、リュミエールは孤児院に泊まった。
寝室の隣にある小さな客室を与えられたが、彼女は眠らなかった。廊下の椅子に座り、ノエルの部屋から聞こえる音を待った。
夜半、オルゴールが鳴った。
同じ旋律。
八小節目の手前で、止まる。
少し間を置いて、また巻き鍵の音。
同じ旋律。
また止まる。
何度も繰り返された。
子どもたちは眠っている。マルタも見回りを終えた。廊下には薄いランプの明かりだけが残っている。リュミエールは椅子から立ち上がり、ノエルの部屋の扉を少し開けた。
少年はベッドの上でオルゴールを抱いていた。
泣いていない。
声も出していない。
ただ、止まった曲の続きを、口の形だけで追っていた。
音のない歌。
リュミエールは、その唇の動きを見た。
母親が歌っていた子守唄の続きを、彼は覚えていないと言った。だが、身体は覚えているのかもしれない。声にならないだけで、唇は曲の行方を探していた。
彼女は、その動きを記録しなかった。
代わりに、見続けた。
翌朝、マルタに子守唄について尋ねた。
「この地域の古い歌です」
彼女は食堂の片隅でそう言った。子どもたちは朝食を取っている。薄い粥と硬いパン。ノエルは端の席で、木の匙を持ったまま、ゆっくり食べていた。
「歌詞を知っていますか」
「少しだけ。私も子どものころに聞いた程度です」
「歌えますか」
マルタは困った顔をした。
「上手ではありませんよ」
「精度は問いません」
「精度、ですか」
彼女は苦笑したあと、小さく歌った。
眠れ 眠れ
灰の夜にも
鳥は胸に
朝をしまう
眠れ 眠れ
母の手の中
星が落ちても
名を忘れない
そこでマルタは止まった。
「続きは?」
「覚えていません。リサさんなら知っていたかもしれません」
「この歌は一般的ですか」
「昔は。今は歌う人も減りました。灰の夜、という歌詞が、あまりに今と重なるので」
リュミエールは歌詞を書き取った。
灰の夜にも、鳥は胸に朝をしまう。
星が落ちても、名を忘れない。
ノエルが止まる場所は、おそらくその先だ。母の声の記憶は、曲の途中で欠けている。欠けた部分に、彼は毎夜落ち続けている。
「リサさんについて、知っていることを教えてください」
リュミエールが言うと、マルタは少し考えた。
「優しい人でした、と言いたいところですが、私は彼女と二日しか会っていません」
「観察事実で構いません」
「では、強い人でした」
「強い」
「ノエルを背負って、山道を越えてきました。星灰病の末期だったのに。足は傷だらけで、肺も悪くしていました。それでも、ノエルを孤児院の門まで連れてきた。門の前で倒れていたところを見つけたんです」
「なぜ孤児院へ」
「ノエルを預けるためです。自分がもう長くないと分かっていたのでしょう」
「ノエルは、それを母親に捨てられたと認識していますか」
マルタは目を伏せた。
「おそらく」
「本人に確認は」
「できません。聞くと、オルゴールを抱いて動かなくなります」
「母親は、ノエルに何か言いましたか」
「声がほとんど出ませんでした。ただ、何度もノエルの髪を撫でていました。最後に、私にこの封筒を渡そうとした。けれど、手が震えて落としてしまった」
「ノエルはその場に?」
「いました」
「母親の死を見ましたか」
「最後の瞬間は見ていません。私が部屋の外へ連れ出しました」
「なぜ」
「子どもに見せたくなかったからです」
「その判断を、今も正しいと思いますか」
マルタは黙った。
しばらくして、首を横に振った。
「分かりません。あの時は、それが優しさだと思いました。でも、ノエルは母親にさよならを言えなかった。もしかすると、私はあの子から最後の言葉を奪ったのかもしれません」
リュミエールは、その言葉を記録した。
優しさが、最後の言葉を奪うことがある。
ミーナの兄ユアンの行為と似ている。相手を守るために隠す。相手を傷つけないために遠ざける。だが、守られた者の中には、言葉の届かない空白が残る。
「リサさんの遺体は」
「孤児院の裏手に埋葬しました」
「墓標は」
「あります」
「案内してください」
墓は、裏庭の奥にあった。
小さな木の十字架。宗教的な意味よりも、そこに誰かが眠っていると示すための形だった。名前は刻まれていない。板が傷んで、文字を書くには向かなかったのだろう。代わりに、青い糸が一本結ばれていた。
「ノエルが結んだのですか」
「はい。リサさんが使っていた裁縫糸です」
リュミエールは墓の前に立った。
雪に似た星灰が、十字架の肩に積もっている。青い糸だけが、その白さの中で小さく色を保っていた。
「リサさんは、ノエルを捨てたのではない」
リュミエールは言った。
「はい」
「ですが、ノエルは捨てられたと感じている可能性がある」
「はい」
「母親は手紙を書こうとしたが、崩れて読めない」
「はい」
「ノエルは返事を書きたいが、言葉がない」
「その通りです」
マルタの声が震えた。
「代筆できますか」
リュミエールはすぐには答えなかった。
通常なら、必要情報が不足している。本人の発話はない。母子の過去の具体的記録も少ない。手紙として成立させるには、代筆士による推定が多くなる。推定が増えれば、依頼人本人の言葉から遠ざかる危険がある。
だが、ノエルには言葉がないのではない。
言葉にできない形で、持ち続けている。
オルゴール。青い糸。木の匙。欠けたボタン。乾いた花びら。母の名前を何度も書いた紙。夜中に音のない歌を口ずさむ唇。
それらはすべて、手紙の断片だった。
「可能です」
リュミエールは答えた。
「ただし、通常の代筆とは異なります」
「どう異なるのですか」
「私は、ノエルさんの沈黙を文章にします」
その夜、孤児院の食堂に小さな机が用意された。
ノエルはリュミエールの正面に座った。マルタは少し離れた場所にいる。机の上には、ノエルの布袋の中身、壊れたオルゴール、リサの崩れた手紙、そして星紙が並んでいた。
リュミエールは星紙を広げた。
黒藍の紙に、ランプの光が沈む。
「これから、あなたの手紙を書きます」
ノエルは頷いた。
「違うと思ったら、首を横に振ってください」
頷き。
「合っていると思ったら、頷いてください」
頷き。
「分からない時は、オルゴールに触れてください」
ノエルは少し迷い、それから頷いた。
リュミエールはペンを取った。
「最初の一文を、こちらで提案します」
少年は彼女を見た。
「おかあさん」
ノエルの目が揺れた。
頷いた。
リュミエールは書いた。
おかあさん。
星紙が、わずかに光った。
「続けます」
彼女は、ノエルの顔を見ながら言葉を選んだ。
ぼくは、あなたの声を忘れたくありません。
ノエルは頷いた。
でも、とリュミエールは続けた。
思い出そうとすると、胸が苦しくなります。
ノエルはオルゴールに触れた。
分からない、ではない。
言葉が足りない。
リュミエールは少し考え、言い換えた。
思い出そうとすると、曲が途中で止まります。
ノエルは、強く頷いた。
リュミエールは書いた。
おかあさん。
ぼくは、あなたの声を忘れたくありません。
でも、思い出そうとすると、曲が途中で止まります。
星紙の光が少しだけ強くなる。
リュミエールは、青い糸を見た。
あなたが縫ってくれた服の糸を、まだ持っています。
頷き。
欠けたボタン。
取れたボタンも、捨てられません。
頷き。
木の匙。
あなたが食べさせてくれたスープの味を、もうよく覚えていません。
ノエルは止まった。
瞳が不安そうに揺れる。
リュミエールは尋ねた。
「覚えていないことが、苦しいですか」
頷き。
「忘れたら、母親を失う気がしますか」
強く頷く。
リュミエールは書いた。
味を忘れてしまうのが怖いです。
忘れたら、あなたが本当にいなくなる気がするからです。
ノエルの唇が震えた。
まだ声は出ない。
乾いた花びら。
春に見た花の色は、少しだけ覚えています。
頷き。
おかあさんが、きれいだね、と言った顔は覚えています。
ノエルは首を横に振った。
リュミエールは止まった。
「顔は覚えていない?」
少年は頷いた。
「声は?」
迷う。
「手は?」
ノエルは、自分の髪に触れた。
マルタが小さく息を吸う。
「髪を撫でた手は覚えている」
ノエルは頷いた。
リュミエールは書いた。
顔は、少しずつぼやけています。
声も、曲の途中から分からなくなります。
でも、髪を撫でてくれた手の重さは、まだ覚えています。
その一文を書いた時、リュミエールの胸に、熱のようなものが生じた。
怒りの火とは違う。
悲しみの空洞とも違う。
もっと静かで、掌に残る温度のようなもの。
「続けます」
リュミエールは言った。
ノエルは頷いた。
あなたは、ぼくを置いていったのではないと、みんなは言います。
ぼくを助けるために、ここへ連れてきたのだと。
ノエルの手がオルゴールに伸びた。
リュミエールは止まった。
「その言い方は違いますか」
少年はオルゴールを抱いたまま、目を伏せる。
「置いていったと感じていますか」
小さく頷く。
マルタが口元を押さえた。
リュミエールは、星紙の上に次の言葉を書いた。
でも、ぼくは置いていかれたと思いました。
ノエルの肩が震えた。
それでも首は横に振らなかった。
あなたがいなくなった朝、ぼくは何も言えませんでした。
ありがとうも、いやだも、行かないで、も言えませんでした。
だから、言葉が喉の奥に残ったままになりました。
ノエルの唇が開いた。
音は出ない。
だが、彼は何かを言おうとしていた。
リュミエールは待った。
食堂の時計が、針を一つ進める。窓の外で星灰が降る。ランプの火がわずかに揺れる。マルタは声を出さない。ノエルは喉に手を当てた。
「……ぁ」
かすかな音がした。
声というより、息に近かった。
だが、ノエルは確かに音を出した。
リュミエールは、その音を聞いても驚かなかった。驚きに該当する反応は確認されない。けれど、胸の奥の熱が少し強くなった。
「続けますか」
少年は頷いた。
涙は出ていない。
けれど、彼の目は水を含んでいるように見えた。
リュミエールは書いた。
おかあさん。
ぼくは、あなたの声を忘れたくありません。
でも、忘れたふりをすることがあります。
忘れないと、朝が来るたびに苦しいからです。
ノエルは、星紙を見つめた。
長い間。
そして、両手で顔を覆った。
泣いているのかと思った。だが、声は出ない。涙もまだ落ちない。ただ、小さな肩が震えている。
リュミエールは、ペンを持ったまま待った。
その沈黙は、手紙の中に入れるべきものだった。
やがて、ノエルは顔を上げた。
彼はオルゴールをリュミエールの前へ押し出した。
「鳴らしますか」
頷き。
リュミエールは巻き鍵を回した。
旋律が流れる。
眠れ、眠れ。
灰の夜にも。
鳥は胸に。
朝をしまう。
八小節目の手前で、やはり曲は止まった。
ノエルは唇を動かした。
音は出ない。
だが、今度はリュミエールにも、その先の形が分かるような気がした。マルタが歌った歌詞。リサの崩れた手紙に残っていた言葉。朝が来たら。名を忘れない。子守唄。
彼女はペンを取った。
おかあさん。
もし曲の続きを忘れても、ぼくはあなたを全部なくしたわけではありません。
あなたの手を覚えています。
青い糸を覚えています。
ぼくの名前を呼ぼうとしてくれた唇を、覚えています。
ノエルが顔を上げる。
リュミエールは続けた。
だから、ぼくも呼びます。
声が出なくても、呼びます。
おかあさん。
おかあさん。
おかあさん。
星紙が強く光った。
その光は、食堂の壁に貼られた子どもたちの絵を照らした。灰色の空、黒い山、白い庭。その中に、一枚だけ青い鳥の絵があった。片方の翼だけが金色に塗られている。オルゴールの蓋と同じ鳥だった。
「最後の一文を」
リュミエールが言った。
ノエルは何も言わなかった。
ただ、リサの崩れた手紙を指さした。
そこに残っている言葉。
ごめんね。
忘れないで。
子守唄。
朝が来たら。
ノエルは「ごめんね」の文字を指でなぞった。次に、自分の胸を指す。それから首を横に振った。
「母親に謝ってほしくない?」
頷き。
「自分が謝りたい?」
少し迷って、頷き。
「何を」
ノエルは、オルゴールを指した。曲が止まる場所。自分の喉。声が出なかったこと。
リュミエールは理解した。
ありがとうも、いやだも、行かないで、も言えなかった。
それを、少年は謝りたいのだ。
「提案します」
ノエルが頷く。
リュミエールは、ゆっくり書いた。
あの日、何も言えなくてごめんなさい。
でも、今なら一つだけ言えます。
ぼくをここまで連れてきてくれて、ありがとう。
ノエルの目から、涙が落ちた。
一滴だけ。
星紙の上にではなく、机の木目に落ちた。小さな丸い跡ができる。ノエルは自分の頬に触れ、驚いたように指を見た。彼自身も、涙が出たことを知らなかったようだった。
リュミエールは、その涙を観察した。
塩分を含む液体。悲嘆、安堵、緊張緩和などに伴う生理反応。そう分類することはできる。だが、今、その説明では足りなかった。
ノエルは泣いていた。
それだけで十分な気がした。
「手紙は完成です」
リュミエールは言った。
マルタが静かに泣いていた。
ノエルは星紙に手を伸ばし、触れようとして止めた。
「読んで確認します」
リュミエールは、彼の手紙を読み上げた。
おかあさん。
ぼくは、あなたの声を忘れたくありません。
でも、思い出そうとすると、曲が途中で止まります。
あなたが縫ってくれた服の糸を、まだ持っています。
取れたボタンも、捨てられません。
味を忘れてしまうのが怖いです。
忘れたら、あなたが本当にいなくなる気がするからです。
顔は、少しずつぼやけています。
声も、曲の途中から分からなくなります。
でも、髪を撫でてくれた手の重さは、まだ覚えています。
あなたは、ぼくを助けるためにここへ連れてきたのだと、みんなは言います。
でも、ぼくは置いていかれたと思いました。
あなたがいなくなった朝、ぼくは何も言えませんでした。
ありがとうも、いやだも、行かないで、も言えませんでした。
だから、言葉が喉の奥に残ったままになりました。
おかあさん。
ぼくは、あなたの声を忘れたくありません。
でも、忘れたふりをすることがあります。
忘れないと、朝が来るたびに苦しいからです。
もし曲の続きを忘れても、ぼくはあなたを全部なくしたわけではありません。
あなたの手を覚えています。
青い糸を覚えています。
ぼくの名前を呼ぼうとしてくれた唇を、覚えています。
だから、ぼくも呼びます。
声が出なくても、呼びます。
おかあさん。
おかあさん。
おかあさん。
あの日、何も言えなくてごめんなさい。
でも、今なら一つだけ言えます。
ぼくをここまで連れてきてくれて、ありがとう。
読み終えた時、ノエルは両手でオルゴールを抱いていた。
涙はもう止まっている。
けれど、顔つきが少し変わっていた。痛みが消えたわけではない。母親が戻ったわけでもない。ただ、喉の奥に詰まっていた言葉の一部が、紙の上に移ったのだろう。
「死者への配達を実施しますか」
リュミエールが尋ねると、ノエルは頷いた。
「場所の希望は」
少年は窓の外を指した。
裏庭。
母の墓。
配達は夜に行われた。
星灰は止んでいた。空は相変わらず灰色だったが、雲の切れ目のような薄い裂け目があり、そこから弱い光が漏れている。月ではない。星でもない。壊れた空の奥に残る、古い光だった。
裏庭の墓の前に、ノエル、マルタ、リュミエールが立った。
子どもたちは眠っている。孤児院の窓には布が引かれ、灯りがいくつか残っていた。木の十字架には、青い糸が結ばれている。ノエルはその糸に、布袋から取り出した欠けたボタンを通した。
「同行物として扱います」
リュミエールが言うと、マルタが小さく笑った。
「それは、代筆士さんの優しさですか」
「規定外物品の一時的添付です」
「そういうことにしておきます」
リュミエールは星紙を開いた。
「リサ・エヴァンス」
墓の周りの星灰が、わずかに光った。
「差出人、ノエル・エヴァンス」
ノエルがオルゴールを抱きしめる。
「あなたへの返事です」
リュミエールは火を入れた。
青い炎が、星紙の端から走る。文字がほどけ、光になり、灰になる。灰は空へ上がらず、地面にも落ちなかった。青い糸に沿って、墓の周りをゆっくり巡った。
その時、ノエルの腕の中で、オルゴールが鳴った。
誰も巻き鍵を回していなかった。
錆びた金具がきしみ、古い旋律が流れ始める。
眠れ 眠れ
灰の夜にも
鳥は胸に
朝をしまう
そこで、いつもなら止まる。
だが、その夜だけは違った。
音は途切れなかった。
眠れ 眠れ
母の手の中
星が落ちても
名を忘れない
さらに続いた。
朝が来たら
窓を開けよう
あなたの声で
鳥は目覚める
ノエルの目が見開かれた。
リュミエールも、マルタも、動かなかった。
旋律は最後まで流れた。
最後の音が消えた時、墓の前に薄い影が立っていた。
若い女性だった。
輪郭は淡く、雪の上に映った記憶のように揺れている。髪はノエルと同じ金色だった。顔ははっきりしない。だが、彼女がノエルを見ていることだけは分かった。
ノエルは声を出そうとした。
喉が震える。
唇が開く。
けれど、すぐには音にならない。
影はゆっくり近づき、ノエルの額に手を伸ばした。
触れたのかどうかは分からない。
だがノエルの髪が、風もないのに少し揺れた。
「……お」
ノエルの喉から音が出た。
マルタが両手で口を押さえた。
少年は、震えながらもう一度息を吸った。
「おかあさん」
声は小さかった。
掠れていた。
だが、確かに聞こえた。
影の女性は、微笑んだように見えた。
次の瞬間、彼女は光の粒になり、青い糸の周りでほどけた。星灰ではない。もっと温かいものに見えた。光は墓の上に降り、欠けたボタンを一度だけ淡く照らして、消えた。
オルゴールは止まっていた。
今度は、最後まで鳴り終えたあとで。
ノエルはその場に膝をついた。
泣き声は出なかった。
しかし、涙は次々に落ちた。
マルタが抱きしめようとしたが、少年は首を横に振った。代わりに、自分の手で顔を拭い、墓の十字架に触れた。
「……ありがとう」
また声が出た。
小さく、消えそうな声。
それでも、言葉だった。
リュミエールは、その光景を見ていた。
胸の奥にあった熱が、広がっていく。
それは病的な発熱ではない。身体温度にも変化は少ない。だが、手のひらに残る温度のように、胸の内側に何かが残った。
ノエルの手。
リサの手。
髪を撫でた重さ。
最後まで鳴った子守唄。
声を失った少年が初めて呼んだ、母の名。
リュミエールは、その反応を帳面に記録しようとした。
しかし、言葉が見つからなかった。
翌朝、孤児院の食堂には、いつもより少しだけ声があった。
ノエルはまだ多くを話さない。けれど、マルタに「水」と言った。隣の幼い子に「どうぞ」と匙を渡した。声は掠れていて、短い。それでも周囲の子どもたちは驚き、すぐに笑った。
ノエルは困ったように俯いたが、嫌がってはいなかった。
朝食のあと、彼はリュミエールのところへ来た。
手には、壊れていたはずのオルゴールがある。
「直ったのですか」
リュミエールが尋ねると、ノエルは首を横に振った。
彼はオルゴールの蓋を開けた。曲は鳴らない。金具は昨夜よりもさらに緩み、もう巻き鍵も戻らなくなっていた。最後まで鳴ったことで、完全に壊れたのだろう。
ノエルは、それをリュミエールへ差し出した。
「私に?」
頷き。
「これは母親の形見です。あなたが保持すべきものです」
ノエルは首を横に振った。
そして、自分の胸を指し、次に墓の方角を指し、最後にリュミエールを指した。
マルタがそばで見ていた。
「たぶん、こう言いたいんです」
彼女は静かに言った。
「もう、ここにあるから。今度はあなたが持っていって、と」
リュミエールはオルゴールを見た。
木箱は古く、金具は壊れている。音も鳴らない。物品としての機能は失われている。
だが、ノエルはそれを差し出している。
もう母親の声を閉じ込めておく箱ではなく、誰かに渡せるものになったのだ。
「受領します」
リュミエールは両手で受け取った。
「同行物として扱います」
ノエルは小さく笑った。
笑った。
それは声よりも静かな変化だった。だが、リュミエールには分かった。彼は母を忘れたのではない。忘れなくても歩ける場所を、少しだけ見つけたのだ。
孤児院を出る前に、マルタがリュミエールを礼拝堂へ案内した。
礼拝堂は使われていなかった。尖塔は折れ、祭壇には白い布がかけられている。神の像はない。代わりに、壁一面に古い名簿が貼られていた。孤児院で亡くなった子ども、保護された子ども、引き取られた子ども。その名前が、ぎっしりと並んでいる。
「ここは、記録室も兼ねています」
マルタは言った。
「星灰で書類が消えることがあるので、できるだけ複数の場所に名前を残すようにしているんです」
「適切な対策です」
「リュミエールさん」
「はい」
「あなたの名前も、記録しておきますか」
「私の?」
「ええ。ここに来て、ノエルの手紙を届けた人として」
「不要です」
リュミエールは即答した。
「私は業務を遂行しただけです」
「それでも、名前を残したい人間がいます」
「誰ですか」
「私です」
マルタは微笑んだ。
「それに、ノエルもきっと」
リュミエールは、壁の名簿を見た。
名前とは何か。
存在を示す記号。識別子。記録。宛先。ガルドは仲間の名を覚えていた。ヴィクトルも死んだ兵士たちの名を記していた。ノエルは母の名を何度も紙に書いた。
名は、失われるものを引き留める。
「では、記録を許可します」
マルタはペンを取り、壁の新しい紙に書いた。
リュミエール。
代筆士。
ノエル・エヴァンスの手紙を、母リサへ届けた人。
リュミエールはその文字を見た。
自分の名前が、誰かの記録に残る。
そのことに意味があるのか、まだ分からない。
だが、胸の奥の熱が少しだけ揺れた。
礼拝堂を出る時、リュミエールは扉の横に古い棚があることに気づいた。棚には、過去の医療記録や保護記録が並んでいる。その中に、一冊だけ異質な帳簿があった。
表紙には、薄く消えかけた文字がある。
代筆士計画 被験体観察記録。
リュミエールは手を伸ばした。
「それは」
マルタが驚いた声を出した。
「どこから?」
「この棚にありました」
「見たことがありません」
リュミエールは帳簿を開いた。
紙は古く、端が崩れかけている。だが、中の文字は読めた。名前が並んでいる。
ルミナ。
リュミエール。
ルシア。
レティシア。
それぞれの横に、短い備考があった。
感情器官、未完成。
涙腺反応、未発現。
共感模倣、限定的。
記憶転写、安定。
星紙適性、高。
リュミエールは、自分の名前の行で手を止めた。
そこには、こう書かれていた。
個体識別名、リュミエール。
用途、感情回収および代筆処理。
初期状態、無感情。
長期観察条件、未定。
注意事項、他個体の記録に接触させないこと。
マルタが横から覗き込み、顔色を変えた。
「これは、あなたのことですか」
「不明です」
「でも、名前が」
「同名の可能性があります」
「リュミエールさん」
「不明です」
同じ言葉を繰り返した。
胸の奥が冷たくなっていた。
ノエルの手紙で生じた熱とは違う。グレン村で感じた怒りとも違う。灯台で感じた空洞とも違う。何かが、背後から近づいてくるような感覚。
恐怖。
その可能性があった。
だが、まだその名を書きたくなかった。
「この帳簿を持ち出せますか」
リュミエールが尋ねると、マルタは少し迷った。
「孤児院のものかどうかも分かりません。ですが、あなたの名前があるなら、あなたが持つべきでしょう」
「ありがとうございます」
リュミエールは帳簿を鞄に入れた。
壊れたオルゴールの隣に。
孤児院を出る時、ノエルが玄関まで見送りに来た。
他の子どもたちも、廊下の奥から覗いている。マルタは門の前に立っていた。空からはまた、星灰が降り始めている。
ノエルはリュミエールの前に立ち、小さく息を吸った。
「ありがとう」
昨日よりはっきりした声だった。
リュミエールは彼を見た。
「礼は不要です」
いつもの言葉を言いかけて、やめた。
代わりに、こう言った。
「受け取りました」
ノエルは笑った。
門を出て、山道を下る。
リュミエールはしばらく歩いたあと、立ち止まった。背後を振り返ると、孤児院の屋根が灰の向こうに見える。小さな煙突から、細い煙が上がっていた。
彼女は帳面を開いた。
悲しみ。
後悔。
怒り。
その下に、新しい言葉を書こうとして、ペンが止まった。
今回学んだものは何か。
母を失った子どもの痛み。
忘れたくないのに、忘れなければ朝が苦しいという矛盾。
置いていかれたと思いながら、連れてきてくれてありがとうと言う心。
声にならない言葉を、誰かに預けること。
最後まで鳴らなかった曲が、一度だけ終わりまで辿り着く奇跡。
それらを、何と呼ぶのか。
愛情、という語が浮かんだ。
だが、それだけでは足りない気がした。
リュミエールは、しばらく考えた。
そして、帳面にこう書いた。
母の手の温度。
正式な感情名ではない。
分類としては不適切。
それでも、その言葉が最も近かった。
壊れたオルゴールが鞄の中で小さく揺れた。もう音は鳴らない。だがリュミエールには、止まっていたはずの旋律が、まだどこかで続いているように感じられた。
灰の夜にも、鳥は胸に朝をしまう。
星が落ちても、名を忘れない。
リュミエールは、山道を下り始めた。
次の町では、終末前の結婚式が行われるという。式当日に姿を消した花婿へ、花嫁が手紙を書きたがっていると、マルタが教えてくれた。
愛という言葉を、リュミエールはまだ知らない。
けれど、ノエルの涙と、リサの手と、壊れたオルゴールの沈黙が、彼女の胸に温度を残していた。
それは消えなかった。
星灰が降り続いても、消えなかった。




