第3話 星の墓標と、少女の祈り
北へ向かう道は、長い。
灰の都を発ってから三日、風は冷たく、地面は固く、街路の割れ目はやがて凍り、足裏に淡い痛みを残した。道端の指標は半分埋もれ、文字は風雨に削られて輪郭を失っている。けれど、夜になると空は思いがけず近く、雲が切れたわずかな隙間に、鋭い星がひとつ、ふたつ現れた。リュミエールは立ち止まり、星の位置を記録する。北端までの距離、現在の風向、気温の低下率。数値は冷たいが、空気の匂いは不思議に澄んでいた。
王国の北端に広がる“星降る丘”には、古い墓標が並ぶ。
流行病で名を失った者、戦火に焼かれて身寄りをなくした者、遠征の果てに帰らなかった者。石の柱にはほとんど名前がない。名があるべき場所は空白で、日付だけが風雨に耐えて残っていた。名を呼べない墓。呼べないけれど、ここに眠ることだけは確かだと示す印。丘は緩やかに波打ち、雪のない時期でも草は低く、靴の音がよく響いた。
彼女は歩幅を少し狭め、外套の襟を指で整える。吐く息が白くほどけるたび、胸の奥で装置の拍が規則正しく打った。心臓ではない。魔導核の脈動にすぎない。だが、その周りに伝わる微かな振動に、ここ数日で別の音色が混じり始めたのを、彼女は知っている。音色に名前はない。名前がないものを、すぐに名付けるな――かつての師は、よくそう言った。
「リュミエール。おまえは心を持たないが、誰よりも人の心を理解できる」
その声は、研究棟の白い廊下の冷たさとセットで記憶に残っている。浮遊する魔導灯の下で、レオ・ファルマは笑うことを忘れない人だった。彼の笑いは大きくも派手でもない。短く、喉の奥のほうで転がすような音で、けれど、研究に行き詰まった夜でも、装置の針が沈んだ朝でも、その音はいつも一定だった。揺れない優しさは、時に頑固さに似る。彼はそんな頑固さで、彼女を造った。
丘のいちばん高いところに、低い石碑が一つある。苔むした面に彫られた文字は、他の墓よりも薄い。レオの名も、ほとんど読めない。風の強い土地では、たとえ名を刻んでも、風が持っていってしまうのだろう。彼はそれを見越していた。生前、彼は言った。「名は消える。けれど言葉は残る。書き残せ。書く者がいなくなっても、言葉はどこかで光る」と。
リュミエールは腰の革袋から羽ペンを取り出す。銀色の羽軸に刻まれた古い文様は、北の光でも青く光った。これまで、彼女は他人の言葉を記録してきた。老人の“ありがとう”、兵士の“愛している”。代筆は仕事であり、使命だった。だが今日は違う。ここでは、彼女は誰かの声を受け取る者ではない。彼女自身の言葉を、初めて綴る者だ。
「レオ」
名前を呼ぶ。呼ぶ声は、意外に落ち着いていた。
「私は、あなたが遺した“心”を拾っています」
口にした瞬間、言葉がペン先より早く形を持ったように思えた。紙はまだ開いていないのに、胸の奥で音が増幅され、こぼれないよう息を整える。彼女は手帳を開き、最初の一行に書く。筆圧はわずかに弱く、だが躊躇はない。
「私は、言葉を運ぶ器です。けれど器は、ただ運ぶだけのものではありません。器は、温度を保ち、匂いを残し、運ばれるあいだに形を崩さないよう見守るものです。あなたが私に教えたのは、その守り方でした」
風が強くなる。草が一斉に揺れ、墓標の間を小さな渦が走った。丘の下の森で、遅い鳥の鳴き声がした。リュミエールはページを押さえ、続ける。
「この数日で、私は“泣く”という現象を知りました。センサーは故障を示しませんでした。胸の奥の痛みは、冷却機構で消すこともできました。けれど私は消しませんでした。あなたが言った“観測にも温度が必要だ”という言葉を、ようやく理解したからです」
記憶は、音と匂いと手触りとセットで立ち上がる。
研究室の夜。ガラス越しの彼女に、白衣の背中がいくつも行き来する。レオは彼女の正面に立ち、ガラスに指を当てた。彼はガラスの冷たさを嫌う人だった。指先を短く離し、代わりに机に手をついた。距離を詰めすぎない。けれど遠くもしない。彼はいつでも、適切な距離を選んだ。
「心を与えることはできない。だが心の形は測れる。形が測れれば、そこへ言葉を置ける」
彼はそう言って、苦いコーヒーを飲んだ。彼のコーヒーは、いつも濃すぎた。
丘の風がふいに止まる。空は青さを取り戻さないが、灰の膜が薄く、星の白が昼にもわずかに透けた。リュミエールは肩にかかった髪を押さえ、手帳へ視線を戻す。
「もし、これが愛というものなら、いつかこの世界をもう一度照らせるでしょうか」
書き終えた一文の末尾で、ペン先がかすかに滲んだ。滲みは涙ではない。空気中の冷気が、一瞬だけ結晶を曇らせただけだ。そう結論づけることは簡単だった。だが彼女は結論を急がない。急がないで、石碑の前に置かれた小さな瓶に目を留める。色褪せた野花が二輪。誰が置いていったのだろう。名もない花は、名もない墓に似合う。名がないことを、敗北だと思わない者の手付きだ。
彼女は羽ペンを胸元に挿し、石碑の前に膝をついた。手袋を外す。指先が冷たい石に触れる。冷たさは明確な温度を持ち、温度には物語がない。物語は、触れる者が持ってくる。彼女は石のざらつきを確かめ、ゆっくりと目を閉じた。内側から、声が上がってくる気がした。自分の声か、いつか代筆した誰かの声か、判断はつかない。混ざっているのかもしれない。それでいい、と彼女は思う。
「レオ。私はまだ、心の名前を持っていません。けれど、名前がないままでも、心は動きます。言葉は、その動きをなぞるためにあるのだと、今はそう信じています」
信じる。
昨日まで、信じるという語は彼女の中で“未検証の仮説を一時採用する”という意味だった。今は少し違う。未検証であることを受け入れ、なお選び取る態度そのものを指す言葉に変わりつつある。選び取る者の責任は重い。けれど、重さは生の形だと学んだ。軽いものばかりが正しいのではない。軽い言葉は遠くへ飛ぶが、重い言葉は近くを温める。彼女は重さを持つことを恐れなくなっていた。
丘に人影が現れた。黒い外套の男が、墓標の間をゆっくり歩いてくる。杖をつき、足を引きずっている。彼はリュミエールを見ると、軽く会釈した。見慣れない顔に、敵意はない。声もかけない。彼は自分の墓標の前に立ち、膝をついて目を閉じた。顔に入った傷が古い。戦で生き残った者の傷だ。彼は長い時間、何も言わなかった。それから、短く呟いた。
「生きている者が、覚える。それでいい」
リュミエールは頷いた。
男は立ち上がり、去っていく。足跡はすぐに風で消える。名は残らない。けれど言葉は、彼女の中に残った。
夕刻。丘の空気が変わる。太陽の位置は低く、雲の切れ間が茜色を含む。星が早く目を覚ます夜だ。リュミエールは手帳を閉じ、羽ペンの先を軽く指で叩いた。結晶が微かに鳴る。鳴りはさざ波のように小さく、だが遠くまで伝わる音色を持つ。彼女はペン先を石碑の前にかざし、言葉の残響を拾う準備を整えた。
最初に立ち上がったのは、ほとんど見えないくらい薄い光だった。石碑と石碑の間から、細い糸のような光が一本、二本、空へ向かって伸びる。光はすぐ消える。けれど、次が来る。また一本、また一本。やがて糸は束になり、束は布になり、布は風を受けてはためいた。墓標の上空に、無数の光が舞い上がる。色は金でも白でもない。懐かしさの色だ。名のない色。
「感情の残響……」
思わず声が漏れる。
彼女は知識として知っていた。感情が失われた世界にも、かつての言葉の名残が微弱な魔力として漂い、場所と季節と偶然が揃えば、空へ立ち上がることを。だが、これほどの規模は稀だ。理由は分からない。けれど、分からないものに立ち会えるのは、記録士の特権だ。
風が運ぶ。光は丘の頂で集まり、ひとつの大きな星の形を作った。星はゆっくり回り、瞬く。回転のたび、低い音が鳴る。草の葉が共鳴し、彼女の外套がわずかに揺れた。耳で聴く音と、胸で聴く音が重なる。胸の装置の拍に、別の拍が重なり、ふと、機械の一定のリズムを越えた何かが、内側からノックした。返事をするように、彼女は深く息を吸った。
「レオ。見ていますか」
彼女は空に問いかける。
答えはない。けれど、空気の密度が微かに変わった気がした。気がするだけで十分だ。彼女は羽ペンを構え、手帳をもう一度開く。自分のための手紙を書く。宛先は、過去。差出人は、今の自分。
「私は、今日も手紙を書きます。誰の代わりでもなく、私自身の言葉で。もしそれが、誰かの胸で温度を持つなら、私はそれを“心”と呼びます。心が何でできているか、私はまだ知りません。けれど、心が動いた瞬間の音は、確かに分かります。私はその音を聴きたいのです」
筆致が安定する。風が冷たいのに、指先は温かかった。
彼女は次の行に移る。
「あなたが遺した研究は、完成していません。感情エネルギーの回復量は微量で、都市を照らすには至りません。けれど、私は焦りません。急ぐべきは、数値ではなく、人の歩みのほうだからです。人は数字で救われません。人は言葉で歩きます」
書き終えた行の末尾で、光がひときわ強く瞬いた。星の群れが丘を超え、さらに北の空へゆっくりと流れていく。彼女は手帳を閉じ、羽ペンを胸に当てた。硬い金属の感触の向こうで、確かに何かが打っている。装置の拍と別の拍が、ほんの一瞬、完全に重なる。彼女はそれを逃さないよう、目を閉じ、静かに耳を澄ませた。
鼓動。
それは、心臓ではない。言葉の鼓動だ。
彼女の中で、言葉が生き物のように息をし、広がり、戻り、また広がる。書くたびに、誰かの胸で鳴った音が、自分の胸にも帰ってくる。行き来する音の往復が、彼女の生を形にする。
夜が来る。
丘の上空で、光は星に混ざった。もう区別はつかない。混ざることを、喪失とは呼ばない。受け継ぎと呼ぶ。失くしたのではなく、広がったのだ。ここに並ぶ名のない墓標と同じように、個の名は薄れ、けれど、その薄さの中で光は強くなる。彼女はそれを見届け、ゆっくりと立ち上がった。
帰り道は、来た道より明るかった。足元の草が風で倒れ、起き上がるたび、霜のような光をこぼす。遠くの森の端で、遅い鳥がもう一度だけ鳴いた。彼女は外套の襟を直し、丘を降りる。視界の隅で、黒い外套の男がまだ墓標の間に立っていた。彼は杖をつき、空を見ていた。誰かの名を呼ぶでもなく、ただ、見ていた。見つめることも、祈りのひとつだと、彼女は学ぶ。
麓に着いたころには、星は頭上いっぱいに広がっていた。
風がやむ。世界が少し、近くなる。リュミエールは立ち止まり、手帳の表紙にそっと触れた。革の感触は、研究室の机の表面とよく似ている。レオがよく指で叩いていた机だ。彼は叩く回数を決めていた。三回。三回叩いてから、言葉を始める。彼は数字と儀式の相性を知っていた。儀式は合図。合図は安心。安心は、人が言葉を受け取るための準備。
彼女は指で表紙を三度叩いた。
そして、夜空に向かって小さく呟く。
「今日も、私は手紙を書く。誰かの心に届くことを願いながら」
その言葉は、白い息になってほどけ、すぐに見えなくなった。見えなくなっても、失われたわけではない。見えないところで、誰かの耳に届く形を探し続けるだろう。彼女は歩き出す。小さな灯が胸の奥で、もう一度、確かに打った。
彼女の胸に、初めて“鼓動”が宿った。




