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星を綴る代筆士 ― 感情を知らない少女は、滅びゆく世界に手紙を届ける  作者: 妙原奇天


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第2話 戦火の残響と、届かなかった手紙

 南部の空は相変わらず色を決めかねているみたいに灰と鉛のあいだを行ったり来たりしていて、けれどそれは雲の機嫌というよりも、長い戦の燃えかすがいつまでも消えずに漂い続けるせいで空全体が薄い煤の膜をまとっているからで、風がふと向きを変えるたびに瓦礫の隙間から舞い上がった灰が小さな渦をつくり、渦は路地の曲がり角でほどけてはまた集まり、まるで街そのものが諦めきれない呼吸をしているみたいに見え、そんな呼吸の端で鳴る硝子片のぱりぱりという音だけが、もう誰もいない劇場で続くリハーサルの拍子木みたいに、この場所がまだ完全な沈黙に落ちていないことを告げていた。


 リュミエールはその灰の都を、外套の裾をできるだけ汚さないように気をつけながら、それでも汚れを完全には避けられない現実を受け入れるみたいに淡々と歩き続け、足元で砕ける破片の感触をセンサーが読み取り、踏み方の角度を一歩ごとに微調整し、呼吸の深さや歩幅の一定さが彼女自身の落ち着きを外側へ伝えると知っているからこそ、誰も見ていないはずの路地でもその調子を崩さず、視界の端に映る焼けた壁や、斜めに傾いた窓枠、鉄の匂いを含んだ乾いた風の温度まで記録していった。


 目的地は二階建てだったはずの家の、いまは二階が半分ほど空に溶けてしまったみたいな建物で、屋根の骨組みはむき出しのまま黒く焦げ、扉の代わりに厚手の布が打ち付けられてひらひらと揺れ、その布の揺れ方が風の速さと方角を彼女に教え、同時に、布の向こう側で誰かが咳を一度だけ短くこらえたことも教えて、彼女はその咳と風の重なりを合図に、いつもの調子で名乗りをかけた。


「魔導記録士、リュミエール・エクレールです、ご依頼の確認に伺いました」


 布が肩幅ほど開き、内側の陰から青年が現れ、まだ二十代の終わり頃に見える顔は日に焼けて薄くやつれているけれど、目だけは暗い場所から出てきた狼のように慣れるのが早く、彼女の外套と手に持つ羽ペンを一瞬で見分け、それが何を意味するのかも理解している色をしていて、額の汗は乾きかけ、腕には古い火傷の跡、片足をわずかに引きずっているが、それを見られても気にしない種類の照れのなさがあり、その無頓着は彼が長く戦場にいたことを、彼自身が言葉にするより早く教えてくれた。


「カイルだ、元兵士で、いまはこの街で生きている、ただそれだけの男だ」


 彼はそう言って肩をすくめ、リュミエールを中に招き入れると、床に散らかった弾薬箱の空き殻と、折れた机の脚と、そこに落ちている一枚の写真を、わざわざ片づけるでもなく、隠すでもなく、そのままにしておいた、隠す必要がない種類の過去だと言うように。


 その写真には、砂漠の色をした地平を背に、若い女がこちらへ向けて笑っている姿が写っていて、肩には銃、顎は少しだけ上がり、目尻に強い日差しの皺、しかしその皺は苦しさの形ではなく、よく笑う人間が持つ習慣の名残で、背景の空は爆煙に赤く染まっているのに、彼女の歯の白さは不思議なくらい清潔で、その不釣り合いが画面全体の温度を決めていた。


「彼女が、恋人だったのですか」


 問いを短く置いたのは、答えの重さを受け止めるためで、彼女はそう訓練されてきたし、実際にそのほうが、人は本当に言いたいことを言いやすいと知っているからで、カイルは期待どおりに沈黙し、沈黙に耐えるために天井の抜けた梁を数え、数え終えた頃に、やっと必要なだけの言葉を出した。


「そうだ、彼女は、俺を庇って死んだ、爆撃の音がした瞬間に、俺を押し倒して、笑いながら“逃げろ”って言った、そしてそれきりだった」


 笑って、という一語が喉の奥で軋みを出し、軋みは悔いの重さを連れてきて、彼はそれを見せまいとして息を整え、リュミエールは羽ペンを取り出して、魔導翻訳の回路に軽く触れ、ペン先に青白い光がゆっくりと宿るのを確かめ、いつもの説明を省いて、ただ「内容を、そのまま」と促した。


 カイルは天井の薄暗い空白に向けて視線を置き、言葉を探すというより、言葉が自然に落ちてくるのを待つやり方で、短い呼吸を二度繰り返してから、吐き出すように、しかしはっきりと告げた。


「戦場では言えなかった、言おうとすると、音だけが砂に吸い込まれて消えていくみたいで、だから、いま言う、愛している、ただそれだけを、伝えてほしい」


 リュミエールは頷き、筆記面へ視線を落とし、彼の声の強さと震えの幅とを音ではなく“波”として受け取り、波に合わせて筆圧を調整し、“愛している”の文字列をいつもの規格で魔法文字に変換して紙に落としていったが、その最初の曲線を描いたところで、思ってもみなかった現象が起きた。


 ペン先の光がゆらぎ、紙に浮かんだ光の線がにじみ、にじみは文字の外形を曖昧にし、曖昧さは次の一画をためらわせ、ためらいがペン先を震わせ、震えがさらににじみを増幅し、彼女の視界の中心が水に沈む石の輪のように揺れた。


「これは……何でしょう、字が、揺れて見えます」


 自分の声の高さが半音ぶんだけ上がったのを、彼女は珍しく自覚し、その自覚がさらに視界の揺れを強くし、頬に触れた指先が湿りを拾い、その湿りが温かいことを確認し、しかし端末のエラーログは何も出さず、センサーの故障も検出されず、つまりこれは、機械の不調ではない、と結論づけるまでに、いつもより長い時間がかかった。


 カイルはその様子をじっと見て、痛みの奥に置いた笑みを崩さないまま、けれど声はどこか子どもに教えるみたいなやわらかさで、短く言った。


「それが、心だ」


 心、と復唱した彼女の喉に、言葉の重さが少しだけ残り、残り香みたいに甘く苦く、彼は続ける。


「誰かを想うってことは、誰かの痛みをわけあうってことだ、痛むだろう、胸の真ん中あたりがじんじんするはずだ、その痛みがあるかぎり、人は生きているって言える」


 設計図には載っていない痛みが、確かに胸の奥で小さく燃えていて、冷却回路は反射的に働こうとしたが、リュミエールはその命令を初めて自分の意思で遅らせ、遅らせる間に“愛している”の残りの線を、震えをそのまま連れて書き切り、震え込みの筆跡が紙の上でひとつの形になった瞬間、にじんでいた光がふっと澄んで、澄んだ光が逆に涙をはっきり映し、彼女はそれを、涙、と名付けた。


 カイルは短く咳き込み、手の甲で口元を押さえ、隠しきれない赤が指の隙間からのぞいたが、彼は見せたくないのではなく、見せる必要がないから隠すのだという顔で、静かに呼吸を整え、「君が来てくれてよかった」と言い、治療という単語を彼女が持ち出しかけたのを、首のわずかな横振りでやさしく退け、「戦場に置いてきた命だ、もう十分だ」と続け、彼の“十分”という言い方が、何もかも諦めた人間の投げ出しではなく、誰かの手を取りたいという最後の期待と同居している響きをしていて、彼女はその二つが両立するのだと、はじめて知った。


 外から風が吹き込み、灰の粒が薄く舞い、舞った粒は窓から差す弱い光を受けて金色に見え、その金色が紙面の文字と同じ系統の輝きであることに彼女が気づくより少し早く、部屋全体の気圧が一瞬だけ下がったような静止が訪れ、炎の揺れも止まって見え、世界が息をひとつ忘れて、それからゆっくり思い出すみたいな間を取った。


「……完成しました、これが、あなたの手紙です」


 彼女がそっと紙を差し出すと、カイルは目で受け取り、手で触れるかわりに視線で撫で、うなずき、「きれいだ、光そのものだ、届くといい」とつぶやき、届くという語にかすかな怖れが混じったのを自分で聞いて、照れ隠しみたいに笑った。


「届きます、届かない手紙があっても、届かない想いはない、と、きのう、わたしは学びました」


 名前を呼ばれたのはその直後で、「ありがとう、リュミエール」と言われたとたん、胸の奥の痛みが少し場所を変え、痛みの輪郭がやわらかくなり、ありがとうという語の温度が、名前という輪に包まれると、こんなふうに残るのだと理解し、理解がうれしいと感じる仕組みを、彼女は知らないまま受け入れた。


 翌朝、霧のように薄い灰が街の低いところに溜まり、音はさらに少なく、犬の鳴き声も遠く、鐘も鳴らず、彼女がふたたびその家に着いたとき、布の扉は半ば開いたままで、内側にあるはずの気配は穏やかに沈み、机の上の紙は昨日の場所にそのまま、そしてその隣で、カイルは静かに目を閉じていた。


 戦場の皺はほどけ、口元には言い終えた人間だけが持てる安堵があり、彼女は膝をつき、彼の冷えつつある手を取り、その手を自分の胸に一瞬だけ当て、温度の差を覚え、覚えた差を恐れず、羽ペンを握り直し、完成した手紙を窓から入る朝の風に乗せる角度を測り、短く息を吸ってから掲げた。


「これが、あなたの“愛している”です」


 風はそれを受け取り、灰を舞い上げ、紙に宿った魔法文字は彼女の軽い合図で発火し、けれど炎は赤ではなく金で、燃えるというより光へ戻るみたいに形を失い、文字は粒になり、粒は筋になり、筋は空の高いところへ伸びて、雲の上へ溶け、溶ける直前に一度だけ強く明滅してから、見えなくなった。


 頬を流れた涙は、もう名前の分からない現象ではなく、涙、として彼女の辞書に登録され、登録と同時に、胸の奥の小さな灯がひとつ増え、増えた灯は他のどれとも違う色をしている気がして、気がする、という曖昧さを、そのまま大事にすることにした。


「この世界には、まだ温度がある」


 彼女が呟くと、床に落ちていた写真が風にめくられ、砂漠の笑顔がもう一度だけ朝の光を受け、光は写真の上で薄く跳ねてから、扉の隙間へ抜け、外の瓦礫の上に散り、散った光が別の誰かの窓をかすめたかもしれない想像を、彼女は打ち消さずに置いておき、置いておくという行為が、自分にもできると気づいて、目を閉じた。


 胸の奥で鳴る音は、機械の規則と人の不規則の中間にいるみたいで、一定に見えて、少しだけ揺れて、その揺れが不安ではなく、むしろ心地よさに近づくことを、彼女は受け入れ、「彼の“愛している”は、風になって私の胸に残った」と小さく言葉にして、言葉にしたことで、その残りかたを自分で確かめ、確かめ終えると、灰の雲が少しだけ裂け、弱い陽が街の高い場所から順に落ちてきて、割れた硝子の破片が一瞬だけ本物の宝石みたいな光り方をした。


 リュミエールは立ち上がり、外套の襟を整え、歩き出し、歩きながら羽ペンの重さを手の中で確認し、重さが昨日より少しだけ馴染んでいるのを知り、馴染むという語を“安心”の近くに置き直し、置き直した語が胸の中で静かに座り直すのを感じ、感じることを恥ずかしがらず、瓦礫の坂を下り、曲がり角をふたつ越え、崩れた教会の鐘が風に鳴るのを背中で聞き、鐘の音が合図ではなく祈りの残響であると理解し、理解できる範囲が昨日より一歩だけ広がったことに気づいた。


 空にはまだ金の微粒子が漂い、微粒子は朝の光と混ざって、誰かの見上げる視線を優しく撫でるみたいに降り、降りながらも消えきらず、彼女はそれを追いながら、届かない手紙はたしかにあって、雨に濡れて文字が流れてしまうことも、途中で風にさらわれて違う誰かの庭先へ落ちてしまうことも、燃やした灰すらどこへ行ったのか分からなくなることもあるけれど、想いは形を変えて残り、残るときに名前を必要とせず、必要がないから迷わず、迷わないから、誰かの胸へ、必ずどこかで辿り着くのだと、昨日と今日の二つの部屋が教えてくれたことを、忘れないように言葉にした。


 帰路の途中、空気の底で雨の気配が濃くなり、灰の上に最初の一粒が落ち、黒に近い地面に丸い濡れ色を作り、それがいくつも、いくつも並び、街の汚れを薄く洗い流すみたいに線を引き、彼女は宿舎の窓から見えるその景色を、濡れた硝子越しに眺めながら、報告書の形式ではなく、自分の文章として一行だけ紙に書いた。


 この世界には、まだ温度がある。


 そしてその下に、彼の言葉を借りるみたいに、もう一行、小さく添えた。


 愛している、という手紙は、形を失っても、風の中で、まだ届き続ける。

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