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本当の異世界

数日後の夕方、翠野農場の縁側に、二人は並んで腰を下ろしていた。一日の農作業を終えた後の、いつもの時間だった。

カイは薪割りの斧を膝に立てたまま、畑の向こうをぼんやりと眺めていた。リラは本を開いていたが、夕暮れが進んで字が読みにくくなっていた。どちらも、何も言わなかった。虫の声がしていた。

「……なあ、リラ」

カイが、前を向いたまま言った。

「この前、川原で変わったやつに会った。白い髪の、耳の長い女だ。人間じゃなかった」

リラの手が、本のページの上で止まった。

「ああいう見た目のやつは、この辺じゃ珍しくないのか。……百年生きてるって、さらっと言ってた。魚を分けてやったら、礼を言われた。それだけだ」

カイの声に、困惑が混じっていた。疑っているのではない。ただ純粋に、処理しきれていない、という感じだった。見たものを正確に報告しようとしているのに、言葉が追いついていない、そういう声だった。

リラは本を閉じた。

「……道に、迷ってたの? その人」

「ああ。黒髪の男の子と一緒に。ルテとかいう子に、いきなり失礼だって怒られた。それから……あの連中、この地の統治者とも話をつけたらしい。なんか、すぐにまとまったって言ってた」

リラの背中に、ぞわりと鳥肌が立った。

(……そうじゃ、なかったの)

足の裏から、じわりと冷たいものが這い上がってくる。

カイが話してきたことは、全部、本当のことだった。ナイラ王女も、エルド・ラインも、異界の戦争も――全部。

リラは、ずっと、それを"おとぎ話"だと思っていた。本のなかの、作り話。カイがあんまり真剣に語るから、得意になって、自分の知っているおとぎ話を返してきた。勇者ガレン。魔王。迷いのヴァルハラ森。――ぜんぶ、本のなかの話。そう、信じていた。

だけど。

この数週間で、その境目が、音もなく崩れていく。作り話だと思って棚に並べてきたものが、ことごとく、どこかに本当に在る。エルフは現に川原に立っていた。百年を生きるという。統治者がいて、交渉が成立する。――では、私が"おとぎ話"だと言って語ってきた、あの世界の、どこからが作り話だったのだろう。

立っている地面が、急に薄くなった気がした。本と、現実と。その二つを分けていたはずの線が、足元から、すうっと消えていく。リラは、自分がいまどちら側に立っているのか、分からなくなった。

確かめなければ、と思った。この場に座っていることが、できなかった。

「カイ……嘘でしょう? ……私のおとぎ話に、調子を合わせてるだけよね?」

「冗談? なんで俺が、そんな嘘をつかなきゃいけないんだよ」

リラは本を膝から滑り落とし、いつの間にか、カイの腕を掴んでいた。

「……私を、今すぐ、その川原へ連れて行って」

農場の裏手を抜け、川へ続く小径に出た。夕暮れならいつも賑やかな鳥の声が、今日はしなかった。リラは胸のざわつきに蓋をして、足を速める。ふと、足を止めかけた。夕暮れの色が、おかしかった。橙ではなく、どこか緑がかった光が、草の上に落ちている。気のせいだ、とリラは自分に言い聞かせた。足だけが、先に動いていた。

二人が川原へ戻ると、空気がよどんでいた。

夕暮れの風が、止まっている。

リラは思わず足を止めた。水面が、凪いでいた。さっきまでせせらぎが聞こえていた川が、まるで音ごと消えてしまったようだった。虫の声もない。川辺にいつもいる鳥の気配もない。

「……カイ」

「分かってる。近づくな」

カイがリラの一歩前に出た。視線が、水辺の一点に固定されている。リラもそこを見た。

水面の少し上、人の頭ほどの高さに、焦げ茶色の何かが浮いていた。光とも影ともつかない、歪み。揺れていない。ただ、そこにある。呼吸しているように見えた。

「……この歪み」

カイが、低く呟く。声から、感情が抜けている。それがかえって、リラの胸に冷たいものを落とした。

「俺の知ってる念威の跡に、似てる。だが――消えるはずなんだ、こういう跡は。使った後に残って、すぐ消える。なのに、これは……まだ、動いてる」

リラには、カイが見ているものの正体は分からなかった。ただ、その横顔が告げていた。知っている形と、知らない形が、同じ場所にある――そういう顔だった。

リラの視線が、ふと足元に落ちた。草の上に、白いものがある。

紙切れだった。

拾ってはいけない、と思った。本能が、そう告げていた。でも、手が動いた。膝を折り、指先で端を摘む。見たことのない紋章。複雑な記号の羅列。

(これは……おとぎ話の挿絵に描かれていた、魔導書の記号と――同じだ)

「リラ、それを――」

カイが振り返った瞬間、リラの目が、記号の一節に吸い込まれた。読める。なぜか、読める。

「――《渡り》の起点式、第三節――」

声に出てから、気づいた。

瞬間、空間の歪みがゴオオオオッ!!と、暴風のような音を立てて膨れ上がった。

「くそっ!」

カイの手が、リラの腕を掴んだ。強く、迷いなく。引きずり込まれないように踏ん張る足が、泥を削る音がした。

「離れるな、リラ!」

リラは、その一瞬に、背後を見た。

農場のある方角。縁側に、斧が立てかけてあるはずだった。虫の声がしていた。エルマは厨房にいるだろう。根菜を切る音がして、スープの匂いが漂っているはずだった。クロエが、明日また来ると言っていた。

(帰れなく、なるかもしれない)

怖かった。足の指の先まで、怖かった。当たり前の夕飯が、当たり前の明日が、音もなく遠ざかっていく感覚がした。

(クロエ、ごめんね。エルマさんも)

でも。

腕を掴むカイの手が、震えていなかった。

今この瞬間も、自分を手放そうとしていない。この人は、ずっとそうだった。川辺で魚を渡した手も、「降参だ」と言った夜も、ずっと、ぶっきらぼうに、でも確かに。

(……ひとりじゃ、なかった――あの日から、ずっと)

恐怖より先に、その言葉が来た。

リラは前を向いた。カイの背中に額をつけて、目をつむった。怖さは消えていない。それでも足が、動いた。

眩い光が二人を包み込み、視界が真っ白に染まっていく。

* * *

激しい光の渦が、収まった。

二人は、しばらく動けなかった。

空気が違った。湿度も、温度も、匂いも、ルミナス湾のどこにも似ていない。眼前にそびえる木の幹は、翠野農場の一番大きな樫の木より何倍も太く、根だけで家ほどの体積があった。葉の形が違う。土の色が違う。遠くから聞こえる咆哮は、リラが本で読んだ、どの生き物の声とも一致しなかった。

「……戻れなく、なったのか……?」

カイがナイフを、強く握り直す。声は静かだったが、リラには、その静けさが何を意味するのか、もう少しだけ分かるようになっていた。

リラは動けなかった。泣けなかった。あまりにも全部が本物すぎて、おとぎ話の、どの挿絵とも重ならなかった。

怖い、と思った。

それと同時に、もう一つのことを思った。

(私が語っていた世界が――本当に、あったんだ)


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