おとぎ話の地図
焚き火が、小さかった。
燃料になるものをカイが探している間、リラは膝を抱えて、暗闇の縁を見ていた。見えない。何かがいる気配がする。いないかもしれない。分からないのが、一番怖かった。
遠くで、獣が鳴いた。聞いたことのない声だった。
火が点いた。カイの手際は、無駄がなかった。どこで覚えたのか聞こうとして、やめた。今は、聞く場面じゃない、と思った。
籠からパンが出てきた時、リラは少し驚いた。
「……持ってきてたの、それ」
「農場を出る前に詰めた。お前が慌てて飛び出したから、ついでにな」
リラは、言葉が出なかった。カイはナイフでパンとハムを半分に切り、黙って差し出す。受け取ったパンは、少し固くなっていた。噛むと、麦の味がした。翠野農場の、匂いがした。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
カイが、ふと夜空を見上げた。北の一角に、妙に規則正しく並んだ光がある。等間隔で、整然と。ゆっくりと、動いている。カイの視線が、そこで止まった。けれど、何も言わなかった。
「……カイ」
「なんだ」
「帰りたい場所が、あるの?」
カイはすぐに答えなかった。パンを一口齧った。それから、短く言った。
「ある」
リラは膝の上で手を重ねた。聞いてよかったのか、分からなかった。でも、聞かずにいられなかった。
「……誰かが、待ってるの」
カイは焚き火を見たまま答えた。
「仲間と、守らなきゃいけない王女がいる」
王女。その言葉が、リラの胸の中に落ちた。おとぎ話の中の言葉が、カイの口から出ると、全然違う重さになった。
「……一人で来たの、ここに」
「いや」
短い間があった。
「前に、同じようなことがあった。その時は、三人だった。三人で戻ろうとして……俺だけ先に出た。あいつらは今も、別の場所にいる。そう思ってないと、やってられないからな」
リラは、何も言えなかった。「俺だけ先に出た」「思ってないとやってられない」――その言葉の裏に、どれだけの夜があったのか。想像するしかなかった。それでも、想像できる気がした。一人で本を読んでいた、自分の夜のことを思ったから。
カイはそこで話を切り、懐から紙切れを取り出した。川原で拾った、魔導書の切れ端だった。
「リラ。あんたの出番だ。この紋章、見覚えはないか」
リラは紙切れを受け取った。指先が、少し震えた。震えているのに、声は出た。
「……"迷いのヴァルハラ森"の結界石よ。勇者ガレンが千年前、魔王の軍勢を退けた場所。北東の境界に、今も遺構が残っているはずだわ」
カイは一瞬だけ目を細め、それから短く言った。
「上出来だ。あんたの頭の中の"おとぎ話"は、この世界じゃ、最高の地図になる」
「でも、カイ……私、あなたみたいに強くないわ」
カイはリラの肩に、そっと、けれど力強く手を置いた。
「大丈夫だ。俺はもう、これで一回目じゃない」
「……さっきの、三人の時の話?」
「それもある。だが、一人で落ちたことも、別にあった」
カイは火を見たまま続けた。
「一人の時は、楽な部分もあったんだ。何も隠さなくていい。先に行かせる仲間も、守るやつも、いないからな。……だが今回は、その楽さはない。地図持ちが、いるから」
リラの胸の奥で、何かがふわりと温かくなった。
「生き残るコツは、人より少しだけ知ってる。あんたが俺に地図をくれるなら、俺が全力で、あんたを守ってやる。だから、安心しろ」
リラはカバンに手を伸ばし、一冊の本を取り出した。旅の荷に紛れ込ませていた、読み古した英雄譚。腕に抱えると、思っていたより、ずっと重かった。
この重さは、何年もかけて読んできた時間の重さだ。誰にも理解されなくて、一人で本をめくってきた夜の、重さだ。それが今、「地図」になろうとしている。
「……ええ。あなたを信じるわ、カイ」
リラは本をぎゅっと胸に抱きしめ、静かに頷いた。




