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影の騎士、農場に立つ

翌朝、リラは計算通りにやって来た。

計算通りだ、と思ってから、自分がゆうべ確かにそれを計算していたことに、カイは改めて思い知らされた。馬鹿馬鹿しい、と胸の内で呟いて、薪割りの斧を握り直す。

カイが「ただの不器用な居候」として翠野農場で働き始めてから、数日が経っていた。

薪割りは問題なかった。ジャガイモの収穫も、草取りも、エルド・ラインで演習のあいまに泥だらけになった経験が生きた。体は覚えている。問題は――馬だった。

翠野農場には一頭の栗毛の馬がいた。名前はルド。気性が荒く、見知らぬ人間には決して近づかない、とエルマが事前に言っていた。

最初にカイが厩舎へ入った朝、ルドは耳をぺたりと倒し、後退した。一歩踏み込むたびに、蹄で地面を叩いて威嚇する。

「……そうか。俺が嫌いか」

カイは、それ以上近づかなかった。干し草を桶の端に置き、少し離れたところにしゃがむ。ルドは鼻を鳴らして警戒したまま、干し草には目もくれない。

カイは何もしなかった。ただ、そこに居た。

斥候任務に就いていた頃、草原の野生馬に近づく方法を、古参の兵士に習ったことがある。「急ぐな。お前がどんな人間か、向こうが判断するまで待て」――それだけだった。

二日目も、カイは同じ場所にしゃがんだ。

三日目、ルドのほうから近づいてきた。カイの肩を鼻先でぐいと押してから、何事もなかったように干し草を食み始める。

カイは何も言わなかった。ただ、ルドの首筋を一度だけ、静かに撫でた。

その一部始終を、エルマは厩舎の戸口から見ていた。

この数日、エルマはカイという少年をずいぶん観察してきた。無口で、愛想がない。けれど仕事は速く、丁寧で、言われたことを二度繰り返さない。農場仕事の段取りを自分で組み立てて動いている――農村育ちでもないだろうに。

(……どこで覚えたんだろうね、あの子は)

ルドが自分から近づくのを見た瞬間、エルマの中で、何かが静かに動いた。

ルドがすんなり懐いた人間を、エルマはこれまで三人しか知らない。夫のガストン。リラ。そして、十年前にふらりと立ち寄った、引退した元騎士の老人。

(手際がいいだけの子じゃない。……いや、それだけでもないね)

エルマは何も口には出さなかった。ただその晩、夕飯のスープを、いつもより少しだけ多く、カイの椀によそった。

その夜、納屋で。

寝床に与えられた藁の上で、カイは破れたパイロットスーツを見つめていた。空に、念機の影はない。飛行機のエンジン音も、自動車の走る気配もない。文明の匂いが、あまりにも薄かった。

(……おかしい。ここはいったい、どこなんだ?)

翌日、農作業の合間に、カイはリラへ、さりげない「偵察」を試みることにした。

「なあ、リラ。ちょっと聞きたいことがある」

「なにかしら、カイ! 歴史の歯車が動き出す音がするわ……!」

「いや、大したことじゃない。……ここから一番近い"大きな街"って、なんて言うんだ?」

「近い街なら、丘の向こうのミルディの市場町くらいかしら。でも"偉大なる都"と言ったら――」

リラはうっとりと、胸の前で手を組んだ。

「南のずっとずっと向こう、王都ルミナリア! 高い城壁がそびえ立って、勇敢な王様と、聖なる騎士団が暮らしているの。……ああ、もちろん行ったことはないわ。ぜんぶ、本で読んだだけ。でも、まるでおとぎ話から飛び出してきたみたいな都なのよ」

「本で……」

「そう。私の知っていることは、ほとんど本のなか。勇者ガレン様が魔王の軍勢を退けた話も、迷いのヴァルハラ森のことも――みんな、おとぎ話のなか」

リラは少し誇らしげに、少し寂しげに笑った。

「だから村のみんなは、私を"夢ばかり見てる子"って呼ぶのよ」

「……そうか」

「……なあ、もう一つだけ」

柵に視線を逃がしたまま、カイは続けた。

「この辺りに、空を飛ぶ鉄みたいな化け物とか、鎧をまとった巨人は……出ないのか」

リラはきょとんとして、ふふっと笑った。

「やだ、カイ。それこそ、おとぎ話の魔物よ。この辺りには出ないわ。……本のなかにしか、いないもの」

カイは、それきり黙った。安心したのか、リラには読めなかった。

王都も、勇者も、魔王も――この少女にとっては、本のページの向こうにある話。では、自分がいま立っているこの土地は、いったい何なのか。カイは世界の全体像をうまく測りかねたまま、根菜スープの匂いがする翠野農場へと、ゆっくり戻っていった。


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