少年の降参
言ってしまってから、カイは口を閉じた。
言いすぎたとは思わなかった。本当のことだったからだ。自分がどんな場所で、どんな手で生きてきたか――それを知れば、この少女だって笑って手を引っ込めるはずだった。泣くか、怒るか、せめて黙って引き下がるか。どれかだろうと、カイは思っていた。
だが、返ってきたのは、そのどれでもなかった。
「……ええ、知らないわ」
リラは、引かなかった。逃げもしなかった。ただ、まっすぐにカイを見ていた。
「あなたがどこで何をしてきたかなんて、私は何も知らない。でも――今、あなたの目が、そんなに哀しそうに揺れていることくらいは、分かるわ」
カイの息が、止まった。
「過去がどうだっていいの。私は――今、目の前にいる、あなたと話しているのよ」
何も言えなかった。
エルド・ラインでは、誰もがカイを見ていた。だが、皆が見ていたのは「任務のカイ」だった。優秀な兵士。連邦の刃。背負うべきものを背負って当然の男。戦友も、あの真っ直ぐな目の王女も――誰もが、その役割を見ていた。今この瞬間の、ただのカイを見た者は、一人もいなかった。
自分は一人を選んできた。誰も巻き込まないために。それが正しいと、信じてきた。だが、本当はそうではなかったのかもしれない。一人でいれば、誰にも見られずに済む。踏み込まれずに済む。傷つけずに、傷つかずに済む。誰かに名前を呼ばれて、その目に映った自分を見てしまえば――もう、一人には戻れなくなる。それが、たぶん、何より怖かった。
一人は、鎧ではなかった。隠れ場所だった。
――正しさでは、なかった。怖さだった。
初めて、そう気づいた。
「……分かったよ」
カイは小さく息を吐いた。
「降参だ」
口にした瞬間、リラの顔がぱっと輝くのが視界の端に見えた。だが、それを正面から受け止めることはできなくて、カイは視線を、きらきらと光る川面へと逃がした。
「いいだろう。乗ってやる、お前の物語に。――俺は『身分を隠した影の守護騎士』だ。ここは、しばらく身を寄せる『異国の仮宿』。それでいいな」
「っ……! ええ、ええ……! なんて素敵な設定なの……!」
「ただし!」
カイは慌てて指を立てた。
「気の利いた台詞なんて言えないからな。ただの、ぶっきらぼうな居候だ。それから、パンやハムはありがたくもらう。だが、必ず魚か薪で返す。――物乞いはしない。これが、俺のポリシーだ」
言い切ってから、カイは妙な気分になった。なぜ自分は、こんなに丁寧に条件を並べているのだろう。まるで――ここに留まるための、約束を取り付けているみたいに。
らしくない、と思った。けれど、撤回する気には、どうしてもならなかった。
リラは、その場でくるくると回った。
「決まりね……! ああ、嬉しい……! ねえ、このこと、クロエにもすぐ伝えなくちゃ!」
「おい、待て。秘密を言い触らすな。守護騎士のどこが秘密だ」
「だって、誓いの儀式みたいで……!」
「誓いじゃなくて、根菜スープだろ」
カイは呆れたように肩をすくめた。
「お前の母さんが、作って待ってるんじゃないのか。冷める前に帰れよ」
「あっ……! そうだった!」
リラは慌てて駆け出し、振り返って大きく手を振ると、夕闇の小径へと消えていった。
後には、川の音だけが残った。
カイは焚き火のそばに座り直し、しばらく炎を眺めていた。何かが、少しだけ軽くなっていた。その軽さに、まだ名前はつけたくなかった。つけてしまえば、もっと欲しくなる気がしたからだ。
炎が小さく爆ぜて、火の粉が一つ、夜空へ昇って消えた。
ただ、と思う。
あの様子なら、明日もまた来るだろう。来るとしたら明日だ、と、どこかで早々に計算している自分に気づいて、カイは小さく苦笑した。




