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少年の礼儀

湖畔から翠縁農場へ続く夕暮れの小径を、二人は並んで歩いていた。

「……いや、いい。もてなしなんて大げさだ。それに、目立ちたくない。若い娘の家に転がり込むなんて、礼を欠くだろ」

カイは、ぐう、と情けなく鳴った腹を片手で押さえながら、リラの手をそっと離した。

異界から落ちてきて以来、まともに食事を摂っていない。飢えは限界だったが、彼の生真面目な矜持がそれを許さなかった。

「それより……この近くに、澄んだ川はあるか?」

「川? もちろんあるわ。この小径を抜けた先に「輝く川のせせらぎ」って呼ばれる場所があって、湖へと続くの。でもカイ、どうしてそんなところへ?」

リラが不思議そうに首を傾げると、カイは足元に落ちていた手頃な枝を拾い上げ、腰のホルダーからナイフを抜いた。迷いのない手つきで枝の先を鋭く削り落としていく。即席の銛が、あっという間に形になる。

「そこで魚を獲って、今夜は野宿する。こういうのは慣れてるんだ」

「ああ……なんて気高いの……! 道具に頼らず、大地の恵みを自分の力だけで掴み取ろうとするなんて……! あなたは戦士でありながら、孤独な狩人でもあったのね!」

「……勝手に言ってろ」

カイはため息をつき、痛む体を引きずりながら川へと向かった。


夜、川辺の小さな洞窟に焚き火を点してから、カイはしばらく動かなかった。

膝を立て、炎を眺めながら、己の内側を整理しようとしていた。だが、冷静に状況を分析しようとするたびに、頭の端に一つの顔がよぎった。

(……ナイラは、今どこにいる?)

瑠の国の王女。あの、決して弱音を口にしない真っ直ぐな目の持ち主。機体から投げ出される直前、最後に見たのは、炎に包まれた格納庫の天井だった。ナイラは、その時すでに別の場所に避難していたはずだ。「はずだ」――確認できていない。その曖昧さが、炎を見るたびに胸の奥でじわりと滲んだ。彼女は強い。だがそれは、強がることを誰よりも得意としている、ということでもある。

(……セラたちは)

あの口やかましい副官の顔が、次に浮かんだ。いつもなら通信が届く距離にいる。だが今、どれだけ意識を向けても、向こうから何も来ない。距離の問題ではない気がした。世界の層そのものが、ずれてしまっているのかもしれない。

帰る手がかりが、今は何もなかった。

「輝く川のせせらぎ」を流れる水の音は、エルド・ラインのどの川とも違う、のどかで間延びした音だった。

違う、とは思った。川の音だけではない。空気の密度が、土の匂いが、夜の重さが、どれもエルド・ラインと少し違う。だが何がどう違うのか、言葉にならなかった。エルド・ラインではない場所に来たのだから当然だ、とカイは思った。それだけだった。

(……今夜できることをするだけだ)

カイは銛を手に取り、水面に目を向けた。


それから数日、カイは川辺の洞窟で野宿を続けた。リラが放っておくはずがない。

「カイ! 今日は焼きたての白パンと、自家製のハーブハムを持ってきたの!」

毎日、リラはエプロンのポケットや小さな籠に食料を詰め込んで、嬉々としてカイの元へ通いつめた。

「……おい。毎日こんなに世話になるわけにはいかない」

カイはリラから差し出された籠を受け取ると、代わりに、自分が仕留めた新鮮な魚を数匹、リラの手に握らせた。

「これ、持っていけ。等価交換……とまではいかないが、俺にできるのはこれくらいだ」

リラは、手の中の魚の冷たさに、カイの誠実さと頑なな誇りを感じ取り、胸を震わせた。

しかし、本当のことを言えば――リラにはもう一つ、別の理由があった。

このところ、村での用事が終わると、いつもここへ足が向いた。市場でもどこか浮いてしまう自分が、川辺へ来て食料を差し出すとき、カイは必ず受け取ってくれる。笑い飛ばしも、変な顔もしない。ただ、ぶっきらぼうに「助かる」と言う。それだけで、リラの中の何かがふわりと温かくなった。カイのために来ているのか、自分のために来ているのか、リラ自身にも、もうよくわからなくなっていた。

(本物の戦士なのかもしれない。あの迫力は、本で読んだどの英雄よりも実在感がある。……でも、もしかしたら自分と同じ、夢を見るのが好きなだけの男の子なのかもしれない。だとしたら、出逢ってしまったことになる。——まあ、どちらでもいい気もするけれど)

そこで黙っていればよかった。


カイが魚を受け取り、無言で川に視線を戻した。それだけだった。ただそれだけのことなのに、リラはその横顔を見て、胸の奥で何かが音を立てた。

言ってはいけない、と思った。言葉にしたら、この川辺の空気が変わってしまう。今ここにある、不器用で居心地のいいこの距離が、崩れてしまうかもしれない。分かっていた。

それでも、口が動いた。

「カイ……あなたって人は……」

「――やめろ」

カイが低く、冷徹な声でその言葉を遮った。その瞳には、深い影が宿っていた。

「そんなに簡単に、人を好きになっていいのか」

「え……?」

「お前は、俺のことを何も知らない。俺がどこで、どう生きてきて……その手で何をしてきたか。知らないだろ、何も」

その言葉はリラに向けられたものでありながら、同時に自分自身を戒める刃のようでもあった。




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