艦隊戦
【旗艦へ】
ペレグリンの格納庫に降りた時、シオンが待っていた。
いつものボサボサの髪に、軍服を少し崩した格好だった。でも目が違った。計算している目だった。艦隊戦の前のシオンの目だ、とリラは思った。会ったことのない顔のはずなのに、そうだと分かった。
「来てもらいました」とシオンは言った。「急いでいることは通信で話した通りです」
「アメーバと隕石群、同時ですか」とカイが言った。
「ええ。隕石群は今のところ、この惑星の外縁に向かっています。水晶空間の中は隔離されているから振動だけですが、外のエリアがダメージを受け始めています」
「アメーバは」
「まだ距離があります。でも速い。二時間以内に接触します」
リラは窓の外を見た。
漆黒に、薄い色が滲んでいた。出発の時にはなかった色だった。翠野の野を覆っていた緑に、どこか似た翡翠。輝く川の水面の、あの淡い青。宇宙のはずの場所に、見覚えのある色が、にじんでいた。
その色の中に、黒い影が見えた。形が定まっていない。境界が曖昧だった。動いていた。ゆっくりと、でも確実に、こちらへ向かっていた。
「あれが」
「そうです」
リラは目を離せなかった。
形がない、ということが怖かった。剣で切れる敵ではない。砲撃で壊せる機体でもない。あれは物理的な意味での「もの」ではない気がした。
「リラ」
シオンが言った。
「あなたに頼みたいことがあります。来てください」
【主砲の前で】
ペレグリンの主砲室は、艦の中央にあった。
天井が高く、砲身が一本、艦首の方向に伸びていた。連邦の技術で作られた砲だった。この世界に来てから改良を重ねてきた砲だった。
「これに念威を込めてほしい」とシオンは言った。「通常の砲撃ではアメーバに効かない。でも思念や想像の振動を乗せた砲撃なら、中核を破壊できると考えています」
「どこからその発想が」とカイが聞いた。
「ナイラ女王からの通信です。念機が有効だと分かった時点で、同じ原理を主砲に応用できないかと」
リラは砲身を見た。大きかった。自分の背丈の何倍もあった。
「触媒は本ですか」
「そうなります。お持ちの本を使わせてもらうことになります」
リラはカバンを見た。本が三冊入っていた。それと、不思議な本。
「何冊必要ですか」
「一発につき一冊です。主砲は大型のアメーバの中核だけに使います。数は——今のところ三体、中核級がいます」
三冊、と三体が一致していた。
リラはシオンを見た。
「最初から、私が来ることを想定していましたか」
シオンの視線が、砲身の方へ流れた。
「水晶内外の往来ができると分かった時点で、可能性を考えました」
「計算していたんですね」
「習慣です」
リラは砲身に手を当てた。冷たかった。金属の冷たさだった。
でも——触れると、何かが来た。
本ではない。でも来た。この砲を作った人間たちの、何百時間分かの仕事の温度が来た。改良を重ねてきた技術者たちの、諦めない振動が来た。
リラは手を離した。
「やります」
シオンは頷いた。
「ありがとうございます」
「一つだけ確認させてください」
「何ですか」
「本を使うたびに、物語が一つ消えます。それでもいいですか」
シオンは少し間を置いた。
「あなたが決めることです。私が許可するものではない」
リラはカバンを胸に抱えた。
「分かりました」
【三艦隊、動く】
アメーバが接触するまで、一時間を切っていた。
ブリッジに全員が集まった。シオン、カイ、リラ、エリオ、ティア。
スクリーンに戦況が映っていた。
アメーバが三つの群れに分かれて接近していた。それぞれに中核がある。中核を破壊すれば群れが散る。でも中核に近づくためには、外側の群れを押さえなければならない。
「ヴェルナからの通信が来ています」とエリオが言った。
スクリーンにヴェルナの顔が映った。
「シオン提督、こちらの準備ができました。念機十二機、術式戦闘機八機。いつでも出られます」
「ありがとうございます。開始は私の合図で」
「了解」
ヴェルナの顔が消えた。
次にエリオの分遣隊からの通信が来た。エリオの副官の顔だった。エリオが指示を出した。包囲網の位置を確認した。
カイはスクリーンを見ていた。
「俺は飛行艇で出る」
「待ってください」とシオンが言った。
「なぜ」
「今回のカイさんの役割は別にあります」
カイはシオンを見た。
「リラの護衛です。主砲室で念威を込める間、リラの隣にいてほしい」
カイは、ナイフの柄に一度だけ触れた。
「分かった」
カイは主砲室へ向かいながら、自分が今何をしようとしているかを一瞬だけ確認した。戦わない。隣にいる。それだけだ。
おかしくはなかった。
「行くぞ」とカイがリラに言った。
二人は主砲室へ向かった。
ブリッジに、シオンとエリオが残った。
「エリオ」
「はい」
「始めましょう」
【包囲】
ヴェルナの念機が先に動いた。
十二機が一斉に出た。アメーバの外縁に向かって、思念の刃を振るった。切れる。でも切れても再合体する。でも——切り続けることで、外縁が中核から離れていく。
術式戦闘機が包囲した。八機が円陣を組んで、術式の壁を展開した。アメーバが壁に触れると、弾かれた。外に出られなくなった。
中核だけが残っていた。
エリオの分遣隊が包囲網を維持した。精密な艦隊運動だった。一機でも位置がずれると包囲網に穴が開く。エリオの指示が、静かに、でも正確に飛び続けた。
シオンはブリッジからその動きを見ていた。
「エリオ、四番艦を少し右に」
「了解」
「ヴェルナから通信」
「繋いでくれ」
「中核が見えています」とヴェルナが言った。「第一群の中核、射線が開きました」
「リラ」とシオンが通信で言った。「第一射、お願いします」
【本が燃える】
主砲室でリラは砲身の前に立っていた。
カイが後ろにいた。一歩後ろ。声は出さなかった。ただそこにいた。
カバンから一冊目を取り出した。
ヴェルダ国の図書館で見つけた本だった。古代の音響理論。遺跡の戦いで使った本だった。あの戦いの後で、ヴェルダ国の図書館で見つけた同じ本を買い直していた。
ページを開いた。
砲身に当てた。
来た。
音響理論の言葉たちが、砲身の金属に染み込んでいくのが分かった。物理的な現象を記述した言葉が、想像の振動として砲身に乗っていく。
「込めました」
「撃ちます」とシオンが言った。
一拍、間があった。本当に効くのか——誰も口にしなかったが、ブリッジの全員が、それを思っていた。砲は連邦の鋼鉄でできている。込めたのは、農場の少女が読んだ、一冊の本だ。
轟音がした。
艦が、根元から突き上げられたように揺れた。リラの足が床から浮きかけ、カイの腕が、とっさにその背を支えた。
砲身を駆け上がった光が、艦首から夜の宇宙へ、白銀の一条になって伸びていく。
スクリーンの中で、第一群の中核に光が届いた。
アメーバが、散った。
外縁の群れが、中核を失って方向を失った。念機が追い込んだ。術式戦闘機が押さえた。散っていった。
効いた。本が、砲になった。
リラは手の中の本を見た。
ページが白くなっていた。文字が消えていた。言葉が全部、砲撃に変わっていた。
一冊分の物語が、なくなっていた。
悲しかった。でも悲しみより先に、別のものがあった。
(これで良かった)
そう思えた。あのときは思えなかった。今回は思えた。それが違いだった。
「第二射、準備を」とシオンが言った。
リラは二冊目を取り出した。
【三射目】
二冊目が燃えた。
第二群の中核が散った。
ヴェルナの念機が歓声を上げた。通信に声が混じった。シオンは「静粛に」とは言わなかった。
三冊目を取り出す前に、リラは一度目を閉じた。
三冊目は王都の書庫で選んだ本だった。ナイラが参謀になる前のリラに渡してくれた本だった。「あなたが必要だと思ったら、使いなさい」と言われた本だった。
使う時が来た。
目を開けた。
砲身に当てた。
込めた。
「撃ちます」
三射目は、前の二発より長く尾を引いた。リラの背から、まっすぐ何かが抜けていく。膝が、笑った。それでも、手は砲身を離さなかった。
第三群の中核が、白い光の中に消えた。
アメーバが、散った。
全部散った。
ブリッジから歓声が来た。エリオの副官の声が通信に混じった。ヴェルナが短く「完了」と言った。
リラは砲身から手を離した。
手の中の本が、白くなっていた。
三冊とも、白くなっていた。
カバンの中に、残っているのは——不思議な本だけだった。
カイが隣に来た。
リラの手の中の本を一度だけ見た。
それから前を向いた。
「悪くなかった」
リラは、すぐには答えなかった。手の中の三冊が、白くなっている。文字の消えたページに、温度だけが、まだ残っていた。
「……ええ」
轟音の後の静けさが、主砲室に満ちていた。
【隕石群】
歓声が収まった頃、エリオが言った。
「提督、隕石群の速度が上がっています」
ブリッジが静かになった。
スクリーンに隕石群が映った。数十個。惑星の方向に向かっていた。外縁のエリアにすでにいくつか落ちていた。
「被害状況は」
「外縁の農村部に複数の着弾。水晶空間内は振動のみ。でも——」
エリオが数値を確認した。
「速度が上がっています。このままだと、二十四時間以内に主要な居住区域に届きます」
シオンは窓の外を見た。
「惑星の方向から来ている。あのエネルギー反応の方角と同じだ」
カイが言った。「つまり、同じ場所から来ている」
「そう見えます」
リラはカバンを見た。
不思議な本が入っていた。触れた。
温かかった。
急いている温度だった。
(早く来い、と言っている)
「シオン提督」
シオンが振り返った。
「本が言っています。惑星に向かわなければならない」
「今ですか」
「今です」
シオンはエリオを見た。エリオが頷いた。
「艦隊の状態は」
「主要艦は戦闘可能です。ただし——」
エリオが一拍置いた。
「早い方がいいと思います」
シオンは椅子に座り直した。ハーブの茶を一口飲んだ。冷めていた。
「では行きましょう」
それで、決まった。
艦隊が動き始めた。惑星の方向へ。
リラは窓の外を見た。
遠くに、惑星が見えた。
まだ遠かった。でも確かにそこにあった。
不思議な本が、手の中で温かかった。




