閾値
【場違いな本】
七日目の朝、本が現れた。
リラが書庫に来ると、棚の端に一冊だけ、見慣れない本があった。
差し込まれたような置き方だった。深い緑色の装丁。読めない文字。
同じ本だった。
古書店で見つけた本と、遺跡の石の台にあった本と、同じ装丁だった。
リラはしばらく、その本を見ていた。触れなかった。触れるのが怖かった、というより——触れる前に、少し確かめたかった。
誰が持ち込んだのか。
書庫の管理をしている老司書に聞いた。「そんな本、知らない」と言った。昨日の閉館時にはなかった、とも言った。
リラは書庫に戻った。
本はまだそこにあった。
棚の端で、静かに待っていた。
リラは手を伸ばした。
触れた瞬間——来た。
七日間、何も来なかった。紙と文字があるだけだった。でも今、来た。
言語になる前の何かが来た。感情だけが来た。温度だけが来た。
壊れていなかった。
向こうが閉じていただけだった。この本だけが、閉じていなかった。あるいは——この本だけが、リラに向けて開いていた。
リラは本を胸に抱えた。
震えていなかった。手が、安定していた。
(閉じているだけだ。壊れたんじゃない)
七日間、そう思おうとしていた。今、確信になった。
【カイに話す】
カイを見つけたのは、城壁の近くだった。
飛行艇の状態を確認していた。水晶内外の往来ができないか、毎朝試していた。毎朝、弾かれていた。それでも毎朝試していた。
「カイ」
振り返った。リラが本を持っているのを見た。
「書庫に、また本があった。同じ装丁の」
「触れたか」
「触れた。感じた」
カイは少し間を置いた。
「向こうが閉じていただけだったんだろ」
考えてから言うのではなかった。もう当たり前になっている言い方だった。
リラは頷いた。
「確信した」
カイは飛行艇から手を離した。リラを見た。
「それで、その本は何を言っている」
「まだ読めない。でも——」
リラは本に触れたまま、目を閉じた。来るものを感じた。言語ではない。方向だった。感情だった。
「急いている」
「また?」
「今回はもっと強い。焦っているような——いや、違う。待ちきれない、という感じ」
カイは本を見た。
「出口を知っているのかもしれないな」
リラは目を開けた。カイを見た。
「そう思う?」
「お前がそう感じるなら、そうなんだろ」
リラはその言葉を受け取った。
三度目だった。でも一度目より二度目より、今が一番、当たり前に届いた。
「本に、もう少し聞いてみます」
「俺は引き続き飛行艇を試す」
「弾かれても?」
「弾かれても」
カイは飛行艇に向き直った。リラは本を抱えたまま、書庫の方向へ歩いた。
【エリオの発見】
同じ頃、宇宙空間でエリオは計器を見ていた。
七日分のデータが積み重なっていた。水晶空間の表面測定、反発エネルギーの強度、時間帯による変化。全部記録していた。
昨夜から、一つの数値が気になっていた。
反発エネルギーの強度が、均一ではなかった。
大型艦が触れると強く弾かれる。小型機が触れると、弾かれ方が弱い。出力が小さいほど、反発も小さい。
比例していた。
エリオは計算した。もう一度計算した。もう一度計算した。
閾値がある。
一定以下の出力なら、表面を通り抜けられる可能性がある。飛行艇サイズの小型機であれば——理論上は、通れる。
エリオはシオンの執務室に向かった。
扉をノックした。
「入れ」
シオンは地図を見ていた。ハーブの茶が横にあった。まだ温かそうだった。
「提督、報告があります」
「聞こう」
エリオは計算結果を差し出した。シオンが受け取った。数行読んだ。また数行読んだ。
部屋が静かだった。
シオンが顔を上げた。
「飛行艇なら通れる」
「理論上は」
「やってみたら、できた、というやつだな」
エリオは記録板に目を落とした。
「試してみなければ分かりません」
「試そう」
シオンは立ち上がった。地図を折った。
「エリオ」
「はい」
「よくやった」
エリオは一拍置いた。
「ありがとうございます」
今日は「はい」ではなかった。シオンはそれに気づいたが、何も言わなかった。
【最初の往来】
試したのは、その日の午後だった。
飛行艇一機。エリオが操縦した。シオンは艦橋で計器を見ていた。
水晶空間の表面に、飛行艇がゆっくりと近づいた。
触れた。
弾かれなかった。
表面が、波紋のように揺れた。飛行艇がその波紋の中に入っていった。
「通れた」とエリオが通信で言った。声が少し上ずっていた。
シオンは計器を見た。飛行艇の反応が、水晶の内側から来ている。
「内側の状態は」
「見えます。王都が——普通に、あります」
「リラとカイは」
「今探しています。城壁の近くに——います。二人とも」
シオンは椅子に深く座り直した。
「伝えてくれ。迎えに行けると」
* * *
同じ頃、内側では。
カイが最初に気づいた。
城壁の上から、見慣れた飛行艇が降りてくるのを見た。
エリオの操縦だった。間違いなかった。
飛行艇が城壁の外の広場に降りた。ハッチが開いた。エリオが顔を出した。
「カイさん! リラさん!」
カイはリラを見た。リラはカイを見た。
「出られる」とカイが言った。
リラは本を胸に抱えたまま、頷いた。
二人は城壁を降りた。広場を走った。
飛行艇に乗り込んだ。
ハッチが閉まった。
飛行艇が上昇した。水晶の表面が波紋のように揺れた。
外に出た。
宇宙空間だった。星が見えた。シオンの艦隊が見えた。水晶空間が、球体として外から見えた。中に王都がある。灯りがある。
リラは窓の外を見た。
中と外が、逆になっていた。
「提督から通信が来ています」とエリオが言った。
「繋いでくれ」とカイが言った。
シオンの声が来た。
「無事ですか」
「無事です」とリラが答えた。
「よかった。——来てもらいたいところがあります。急いでいます」
「なぜですか」
一拍置いた。
「アメーバが来ています。それと隕石群も。同時に」
カイとリラは顔を見合わせた。
「向かいます」とカイが言った。
飛行艇がシオンの旗艦に向かった。
窓の外で、水晶空間が遠ざかっていった。中の王都の灯りが、小さくなっていった。
リラは本を膝の上に置いた。
本が、また反応していた。
温かかった。
急いている温度ではなかった。
落ち着いている温度だった。
まるで——準備ができた、と言っているように。




