決戦
祭壇の間に入った瞬間、空気が変わった。
重かった。何百年分かの執念が、この空間に溜まっていた。壁の文様が光っていた。装置の出力が最大に近かった。
ただの装置ではなかった。根に触れるための祭具だった。教団が、何百年もかけて組み上げたもの——あの僧は、その最も奥まで触れた一人だった。
僧侶は祭壇の前に立っていた。法衣のままだった。表情がなかった。影の形がおかしかった。
アルヴィが前に出た。カイが右に広がった。リラが左に広がった。ブラートは後ろにいた。
「来るのが遅かった」
僧侶が言った。声に何百年分かの重さがあった。
アルヴィは答えなかった。
広間を素早く見渡した。天井が高い。石柱が八本。音が反響する構造だ。リラは図書館で読んだ音響理論の図と照らし合わせながら、唇を少しだけ動かした。
(合ってる。柱の間隔も、角度も)
本を取り出した。ヴェルダ国の図書館で見つけた一冊——手が止まった理由が、今分かった。この本は、ここのためにあった。
「——リラ」
カイが低く言った。確認ではなかった。任せる、という声だった。
リラは頷かなかった。ただ、ページを開いた。
文字が光り始めた瞬間、リラの胸の中に一瞬だけ恐怖が走った。
(また、言葉が消える)
本が燃えるたびに、自分の世界を読んできた言葉が一つずつ灰になる。それは分かっていた。でも——
(消えても、読んだことは消えない)
カイが農場で薪を割っていた夜のことを、思った。川辺で魚を渡してくれた手の温かさを、思った。「お前は俺の地図だ」という声を、思った。
あの言葉たちは、本の中にはない。自分の中にある。
リラの指先が、特定の行をなぞった。
広間の空気が、震えた。
低い共鳴音が床の奥から這い上がってきた。石柱が微かに振動する。八本が、順番に、リラの念威に応えるように揺れ始めた。
僧侶がリラを向いた。
その瞬間を、アルヴィは待っていた。
声はなかった。ただ、百年分が、動いた。
空間そのものを押し込むような、質量を持った力が解放された。光でも熱でもない。あえて言えば、時間の重さだった。百年という時間が、今この一点に凝縮されて放たれた。
石柱の一本に亀裂が入った。
「カイ」
リラが言った。声は小さかったが、届いた。
共鳴の通り道が、見えていた。石柱八本が作る音の流れの中に、一点だけ力の死角がある。僧侶の防御が、そこだけ薄い。
カイには分かった。
踏み出した瞬間、古い声が頭の奥で言った。
(一人で行け。巻き込むな)
エルド・ラインから持ち越してきた、古い習慣だった。誰かがいると、守ることを考える。守ることを考えると、動きが鈍る。だから一人の方が速い——そう思ってきた。
だが。
(お前がいるから、俺は迷わなかった)
夕暮れの城壁で、自分の口から出た言葉を思った。
迷わなかった。一人の時より、ずっと速く、迷わずに動けた。地図があるから、迷子にならない。
カイは走った。
正面でも側面でもなかった。床を転がるように低く入った。泥臭かった。華麗ではなかった。でも、これが一番速かった。
その時、ブラートが動いた。
音がなかった。気配もなかった。ただ、次の瞬間にはブラートが僧侶の背後にいた。カイが正面から入った瞬間に、背後を取っていた。誰も、いつ動いたか分からなかった。
アルヴィだけが、かすかに目を細めた。
(やっぱり、変わっていない)
百年前と同じ動き方だった。静かで、速くて、誰よりも的確だった。この男はいつもそうだった。言葉より先に、体が答えを知っていた。
僧侶が完全に止まった。
前にカイ。後ろにブラート。左右にアルヴィの百年分。床からリラの共鳴。
四方が塞がれた。
カイは剣を使わなかった。
手を置いた。僧侶の胸の中心に。何かを通す、という手の置き方だった。
同じ瞬間、地下の深い場所で、低い音がした。シオン側が制御核に触れた音だった。
装置の出力が、急激に落ちた。
僧侶の影が薄くなった。ゆっくりと。音もなく。中のものが抜けていった。最後に、老いた顔が戻った。疲れた顔だった。それから、消えた。
終わったのは、ここだけだった。作法を伝えた者たちは、まだ遠くにいる。
アルヴィはそれを口にしなかった。でも、分かっていた。
広間が静かになった。
リラは本を閉じた。
手が震えていた。震えていたが、笑っていた。言葉が一つ消えた。でも、ここに来られた。それだけで十分だった。
カイは手を見た。何かが通った感触がまだあった。
ブラートがカイの隣に来た。カイより頭一つ分背が高かった。近くで見ると、さらに大きかった。
「泥臭いな」
「うるさい」
ブラートが笑った。理由のない笑い方だった。何かが面白いからではなく、ただそこにいることが楽しい、という顔だった。
カイはその笑い方を見て、何も言えなかった。
アルヴィがリラを見た。
「よくやった」
リラは笑ったまま頷いた。
東側の通路から足音が来た。シオンとエリオと、艦隊の兵士たちだった。粉塵で少し汚れていた。エリオの制服の袖が焦げていた。
シオンは広間を見た。終わっていた。
「遅かったですか」
エリオが言った。
「いいタイミングでした」
アルヴィが答えた。
シオンはもう一度、広間を見た。天井まで届く石柱。亀裂の入ったその一本。床の粉塵。それから、カイとリラとブラートの立っている場所。
赤茶の髪の娘が、本を閉じるところだった。
——あの輪郭だ。
艦が星海を裂いたあの夜、夢の底で引かれた二つの輪郭があった。気高く静かな方は、ヴェルダへ発つ前に、もう名がついていた。ナイラ、と。残った片方——赤茶に波立つ方だけが、ずっと名のないままだった。それが今、目の前で、本を閉じている。名を、まだ知らない。けれど知っている、と体の奥が言った。
読書眼鏡の縁に、指をやった。
(やれやれ。先に夢で見ていたとは、記録者の名折れだな)
そう思ってから、もう一つのことを思った。退役届を書くたびに戦火が上がる、と思ってきた。でも今夜は——終わった、と思えた。
読書眼鏡の縁を一度だけ触った。
* * *
あれは、城壁の上で飛竜を呼んだ、あの夜のことだった。
また一冊、光が消えた。
消えた、とリラが気づいた時には、もう遅かった。
一瞬だけ、目の前の戦場が遠くなった。遠くなった、という感覚しかなかった。何かの夜の、消えかけのランプの色——赤くなった芯の色——が体の中を通り過ぎて、また消えた。
農場の夜に、ひとりで読んで、何度も泣いた英雄譚だった。
飛竜が鋼鉄の機体に叩きつけられる音が、耳に戻ってきた。
まだ終わっていない。
次の一冊を手に取った時、リラの指が一度だけ、止まった。
止まった理由が、分かっていた。
この本は、燃やしたくなかった。
クロエと、声をそろえて読んだ絵本だった。隣の畑の友達と、縁側で、何度も。どの頁のどの台詞を、どちらが読むか、決まっていた。クロエの好きだった頁を、リラは今でも諳んじられた。
馬鹿げている、と思った。今はそんな話ではない。カイが地上で戦っている。飛竜があと何頭残っているか分からない。一秒が、命に換わる場所にいる。
それでも、一秒だけ、絵本を見ていた。
でも動いた。
その一冊の光が、夜の空に向かって飛んだ。最後にもう一冊を手に取った時、リラは少し笑った。
書庫の棚から抜いてきた、題名も覚えていない一冊だった。古い本だった。誰が書いたのかも、分からなかった。読み終えてもいなかった。ただ、最後まで開いてみた頁の隅に、別の筆跡で、一行だけ書き足してあった。
——この本が、いつか子供たちに読まれるのを、待っている。
待っていた本だった。誰にも読まれないまま、暗い書庫の隅で、ずっと。
ごめんね、とリラは思った。誰に言うともなく。
その光も、夜空に向かって飛んだ。




