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ヴォルケン

城壁の上で、リラは動けずにいた。

足元のカバンは、置いたままだった。底に眠る三冊には、まだ触れていない。

頭上のヴォルケンは、ひとつも動いていない。主砲が満ちては放たれ、放たれるたびに、防衛軍の翼がまた数を減らしていく。カイのヴァルトが死角を突き、念炉を唸らせて要塞へ肉薄しても、装甲の表面を白く弾けさせるだけで、その奥へは届かない。念壁は限界まで削れている。けれど中枢は、削れた壁のさらに奥、別の層に守られて、傷ひとつ負っていなかった。

覚醒も、ヴァルトも、あの一度きりの鉄の影も、そこには届かない。二度目は、来なかった。

リラには、分かっていた。本を介さない力には、天井がある。芯から直接引いた念威では、敵機を退けるのが精一杯で、あの本体には爪の先も立たない。

中枢を割れるものが、ひとつだけある。

震える指が、ひとりでに、足元のカバンへ伸びていった。ほんの少し前は、ここで止まった。まだ、触れない、と。

今度は、止めなかった。

カイには、言わなかった。アルヴィにも、誰にも。言えば、止められる。止められれば、この瞬間は来ない。

カバンの底から、一冊目を抜く。

幼い夜、ランプの下で、指が黒くなるまで読んだ本。表紙には、民を守る王女の挿絵——助けを求める者には必ず耳を傾け、決して見捨てない人の絵が、刷られている。

(もう、挿絵はいらない。本物に、会えたから)

そう思っても、指は離れたがらなかった。それでもリラは、ページの端へ念威を押し当てた。紙が内側から火を含み、挿絵の王女が炎の縁で一度だけ微笑んだように見えて——燃えながら、光へと変わっていった。

二冊目。エルマが、いつか農場の片隅でリラに手渡した薄い本。世界をおとぎ話として読むことを、最初に教えてくれた一冊。これがなければ、空をただの空、川をただの川としか見られなかった。

(いい。私が、覚えてる)

読むための本を手放して——リラは、語る側へ回ろうとしていた。まだ、自分では気づいていなかった。

薄い背表紙を、炎が舐め上げる。エルマの手の温度が、紙といっしょに、ゆっくりとほどけていった。ばらけたページが宙へ散って、白い羽のように燃え立った。

三冊目。

最後の一冊だった。旅の果てに、ひとりの戦士が自分の国へ帰っていく話。リラは、この本だけは、最後まで開きたくなかった。開けば、いつかカイが帰ることを、認めてしまう気がした。

でも。本は、読まれるためだけにあるのではない。

リラは、その一冊を炎へくべた。帰る者の物語が、ページごとにほどけ、火の粉になって舞い上がる。

(帰っていい。ちゃんと、見送れるから。——どこへ行っても、あなたが迷子にならないように)

風の中に、無数のページが浮いていた。燃えてなお散らず、白く、静かに揺れている。一枚いちまいが、光を待つ鏡のように角度を変えながら、リラの念威に従って整列していった。

リラは、その角度を一枚ずつ合わせていく。どこへ束ね、どこへ通すか——照準を、編んでいた。

紙の鏡の森だった。空中にひらいた、燃える鏡の森。

アルヴィが、いつの間にか城壁の縁に、リラの隣に立っていた。ルテが何か言いかけて、止まる。アルヴィは動かず、風の中で角度を決めていくページを、ただ見ていた。それから、低く、平坦な声で、術を放った。

光が走った。最初のページに触れ、反射し、次へ、また次へ。リラの編んだ照準のとおりに折れ曲がり、束になって、一点へ収束していく。アルヴィの光は、貫く力ではなかった。三冊が燃えて生んだ出力を、ただ束ねるレンズだった。

二人は、一言も交わさなかった。

それでも、光は迷わなかった。

ヴォルケンの中枢を、白い束が貫いた。

別の層に守られていたはずの心臓へ、燃え尽きた三冊の物語が、まっすぐに届いた。

光が、消えた。

ページが、一斉に舞い落ちる。白い紙吹雪が、夜の空にひろがった。文字の読めるものも、もう読めないものもあった。光に変わったとき、言葉が消えたのだ。

構わなかった。

リラの膝が、笑った。指先まで、何かが抜けていく。底の見えたカバンが、足元で軽くなっている。視界がゆっくりと傾いで——城壁の縁から、身体が落ちた。

* * *

ヴァルトの席で、カイは城壁を見ていた。

中枢を光が貫いた瞬間から、目を逸らさなかった。逃がす癖は、もう手放していた。だから、リラの身体が縁から傾いだのも、見えた。

ヴァルトが、考えるより先に動いた。

機体が城壁へ滑り込み、装甲の隙間から、カイは腕を伸ばす。

衝撃は、なかった。ただ、止まった。落ちてくるリラを、カイの腕が受け止めていた。

台詞は、なかった。

カイは、リラを抱えたまま、しばらく動けなかった。腕の中の重さを、確かめていた。

軽かった。軽すぎた。

これだけの力を使って、これだけしか重くないのか。そのことを、どう受け止めればいいのか、分からなかった。受け止めようとして、やめた。今は、ここに、彼女がいる。それだけで、よかった。

ルテが、城壁の縁に立った。

ヴォルケンの中枢から、黒い煙が上がっていた。空を圧していた駆動音が、ひとつ、またひとつと桁を落としていく。

「終わったの……かしら」

ルテの声に、アルヴィはすぐには答えなかった。落ちていくページを、ひとつ、目で追っていた。風に乗って、遠くへ流れていく一枚を。

「……ああ」

そう言って、アルヴィは目を閉じた。

ヴォルケンは、煙を吐きながら、東の山脈の彼方へと不時着していった。ガルドスを仕留めるには、至らなかった。それでも、要塞を失った敵軍は、その日のうちに、完全に退いた。

城壁には、白いページが、まだ降り続けていた。リラの足元のカバンは、口を開けたまま、空になっていた。


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