貪る野心
ひと夜が明けても、リラの中に色鮮やかなおとぎ話の情景は戻らなかった。
城の最上階にある女王の私室に、リラは招かれていた。バルコニーからは、宿場町の向こうに広がる荒野が一望できる。
「来ましたね、リラ」
出迎えたナイラ女王は、静かに夕闇を見つめていた。
「お加減は大丈夫ですか? カイから、あなたの力が使えなくなったと聞きました」
「今から私たちの要塞が生き返ります。あなたにはここで見せたかった」
以前のリラなら、巨大な鉄のお城が宙を浮くのを見るなんて、きっとロマンチックな感動の極みだと大騒ぎしていたはずだった。しかし今は、そうなることができなかった。
「今の私は、ただ、あの向こうで命が失われる恐怖しか感じられなくて……私の心が、あの頃のようにならないのです」
泣きそうになるリラ。だが、ナイラはすかさず、凛とした声で遮った。
「それでいいのです、リラ」
「私はあなたに感動させたかったわけではありません。あなたは傷つき、現実を知り、成長したのです。……私は、あなたのその力が戻るかどうかには、最初から興味がありません」
「これからの戦いは、純粋な武力だけでは勝てません。私が本当に必要なのは、あなたがこれまで積み上げてきた膨大な知識、突出した洞察、そして誰も思いつかない柔軟な発想……その生身の力です」
「今日からあなたには、この防衛軍の"参謀"の役割を担ってもらいたい。……できますか、リラ・マーレン?」
「……! そ、そんなこと、私にできるわけがありません! 私はただの孤児で、妄想ばかりしている女の子で……!」
「私は瑠の国の女王です。私の目を信じなさい」
圧倒的な女王の覇気に、リラは息をのんだ。
「……考え、させてください」
震える声で答えると、ナイラは優しく微笑み、バルコニーの向こうの夜空を見上げた。
「ええ。ですが覚えておきなさい。あなたの知恵は、いずれカイやライラたちの武力をも超え、この世界を救う光になるのです、リラ」
その夜、リラは割り当てられた小部屋で、膝の上に本を開いたまま、ページを見ていなかった。
頭の中では、ナイラ女王の言葉が繰り返されていた。「参謀」。その言葉の重さが、まだうまく飲み込めない。
(私には無理だ。間違ったことを言うかもしれない。誰かが死ぬかもしれない、私の判断で)
それは本当のことだった。反論できない。
ただ、もう一つのことも、同じくらい本当だった。
(でも、私はこの城の誰よりも、地形を知っている。古い軍記を知っている。千年前の戦の結末を知っている。それを知らない人間が決断しても、私が知っていた時より多くの人が死ぬかもしれない)
恐怖と引き換えにしてでも動くべき理由が、そこにあった。感情の話ではなかった。単純な、算数に近い話だった。
(だから断れない。怖いけれど、断れない。それだけだ)
リラは本を閉じた。決めたとは言えなかった。ただ、断れない理由が、自分の中で言葉になった。それで十分だった。
一方、起動を始めた空中要塞ヴォルケンの薄暗い玉座の間。重々しいコンバーターの駆動音が響く中、ガルドスは不敵な笑みを浮かべていた。
「ジェイルよ。あちらの王都も動いたな。こちらはどうか」
問いかけられたジェイルは、数枚の設計図を抱えたまま、一歩前に出た。
「はっ。ヴォルケン、および残存するバトラー機、すべて同様に動かせる状況となりました。この世界の"魔力"と呼ばれるエネルギーを、コンバーターが異常な効率で吸収・変換しております」
「ふっ、奇妙なものよな。世界が混ざり合ってからというもの、このわし自身にも、底知れぬ力が湧いてくるのを感じるわ」
ガルドスが楽しげに拳を握る。その背後に揺らめく思念力は、エルド・ラインにいた頃よりも、ずっとドス黒い悪意の塊へと変貌していた。
「ジェイルよ。この世界には、純粋に修羅を極め、魔術を高める"魔族"という種族がいると聞いた」
「ええ、人間を欺くために言葉を使う、この世界の危険な存在ですが……それが何か?」
「かき集めよ、きゃつらを。高い魔力を持つあやつらをバトラー機に乗せれば、地上人の比ではない、凄まじい力を発揮するだろう」
ジェイルは目を見開いた。
「しかし、ガルドス様! 奴らは人間を"食料"としてしか見ていない狂暴な種族ですぞ! 兵として御せるわけが――」
「食料なら、この世界にいくらでも転がっているだろう」
ガルドスは言いながら、窓の外へと視線を向けていた。
その一点を、ジェイルは見逃さなかった。
反論が来ることを、この男は最初から想定していなかった。ジェイルが口を開いた瞬間にはすでに、ガルドスの視線は「次」に向いていた。意見を聞く回路が、もはやそこにない。参謀に必要なのは主君の耳だ。この男にはそれがなくなっていた。
(もう止まれない。止まる気もない。そして止められる人間を、そばに置く気もない)
ジェイルは設計図を、ほんの少しだけ、強く握り直した。
ガルドスは、低く、地響きのような声で笑い出した。
「人間など、いくら食わせても構わん。わしが欲しいのは、この世界を完全に支配する絶対的な力だ。魔族だろうが神だろうが、わしの駒となればそれでよい」
ジェイルは背中に冷たい汗が流れるのを感じていた。感情ではなかった。計算の結果だった。この男の傍にいる限り、参謀という職能は存在できない。己の命もまた、いつ「食料」と同列に扱われるか分からない。
玉座の間を出た後、ジェイルは廊下で一度だけ足を止めた。設計図を抱え直し、次に自分が動くべき方向を、頭の中で静かに組み立て始めていた。




