勇者の遺志
アルヴィは、自分が引き寄せられているのを、ずっと前から知っていた。
旅をしていれば、道に迷うことはある。ルテに言わせれば、今回も「また」だった。けれど今回は、違った。迷ったのではない。向かっている。どこへ向かっているのかは分からない。ただ、何かに呼ばれている感触が、数日前から足の裏に残っていた。
百年生きてきて、こういう感触は初めてだった。
怖くはなかった。むしろ、少しだけ静かな気持ちになった。世界の理の根源を探して、旅をしている。その根源の方から手を伸ばされているのだとしたら——それがどういうことなのか、アルヴィにはまだ言葉がなかった。言葉のないまま、足だけが先へ進んでいた。
王都の空が、赤く染まっていた。戦の匂いがした。魔力の流れが、ひどく乱れていた。アルヴィは空を見上げ、それから、会話と変わらぬ声で言った。
「ルクスフォール」
* * *
城壁の上から、リラは戦場を見下ろしていた。
光の獣たちが一頭ずつ粒子へ還っていく中で、地上の敵陣は、確かに崩れていた。複合軍勢の歩兵が逃げ惑い、念機が立て直しに追われている。リラの読んだ進軍ルートは、そこまでは正確だった。
だが、空の黒影だけは、別だった。
一機の念機が、地上の混乱には目もくれず、王都の天守閣へと高度を下げていく。
「ナイラ様、危険です! どうかお下がりを!」
近衛の叫びが、下から幾重にも届いた。けれど、白金の髪をなびかせた若き女王は、バルコニーの最前線に立ったまま、指先ひとつ動かさなかった。
「いいえ。瑠の国の女王が怯えては、戦う兵たちの気力が萎えます。私は、ここにいます」
念機の巨大な砲口が、その細い身体を、無慈悲に捉えた。
「させるか……!」
空を駆けるカイの声が、風に乗って届く。だが、間に合わない。
残り三冊のカバンを胸に押し当てたまま、リラの足が、城壁の縁で固まった。
「ナイラ様――ッ!!」
砲口の奥に、禍々しい光がチャージされていく。誰もが最悪を覚悟した——その刹那。
空の色が、変わった。
夕暮れの橙でもない。戦火の赤でもない。もっと古い色だった。言葉にするなら、白に近い。けれど、白ではない。何百年もの風雨に色を奪われた石造りの聖堂が、それでもかろうじて残しているような、淡い色。それが雲の裏側から滲み出し、ほんの一瞬、戦場のすべてを染めた。
鳥が、鳴くのをやめた。
風が、止まった。
遥か上空、その白みを割って、ひどく平坦で、退屈そうな少女の声が降ってきた。
「――ルクスフォール」
落ちてきたのは、光線ではなかった。
幾重にも浮かぶ、白金の鳥。鳴かず、翼の音もなく、それぞれが行くべき場所を知っているように、まっすぐ、高速で落ちていく。
鋼鉄に触れた瞬間だけ、鳥は白く弾けた。
念機のパイロットが叫ぶ間もなかった。念壁ごと、その鋼鉄の巨体が何十羽もの光に貫かれ、声もなく、空中で分解していく。
「え……?」
リラが、呆然と空を見上げる。夕闇の混ざりはじめた空から、白い髪をなびかせて静かに舞い降りてきたのは——アルヴィと、その弟子のルテだった。
「まったく。異世界だかなんだか知らないけど、本屋を壊されるのは困るんだよね。まだ、読みたい本があったのに」
いつもと変わらぬ口ぶりで呟きながら、アルヴィはナイラ女王の前に、ふわりと降り立った。空を染めていた白みは、その足が地につくと同時に、嘘のように消えていた。
「お待たせしました。腹を空かせていたところに魚をもらった、そのお礼に参上しました」
ルテもまた、冷静に杖を構え直し、上空に残る念機の動きを牽制する。
リラの目から、堰を切ったように涙が溢れた。
(おとぎ話の主人公たちが——今、本当に、ここにいる)
物語の中だけにいると思っていた人たちが、崩れかけた現実の戦場に立っている。リラはカバンを胸に押し当てたまま、泣きながら、ただ、その姿を見ていた。
腕の中の、残り三冊のカバンが、少しだけ温かかった。
* * *
アルヴィは、城壁の上の少女を、一度だけ見た。
カバンを胸に抱えて、泣いていた。泣きながら、目だけは戦場を離れずにいた。
川辺で魚をくれた少年の、連れだった。あのときは、本を抱えていた。今は——カバンが、軽くなっている。何冊か、使ったのだろう。
百年生きて、ああいう目をした人間に会うことは、それほど多くない。アルヴィは静かに視線を戻し、ルテの隣に立った。
* * *
グランは、城壁の陰から戦場を見ていた。
その少女のことは、川辺で一度、見かけている。本を抱えていた。カイから魚をもらっていた。それきりの相手だった。
それでも——城壁の上で、少女が両腕でカバンを胸に押さえているのが見えた。手が、震えていた。震えながらも、目が、戦場を離れない。
それを見て、グランは動いた。
師が空から降り、見える範囲の脅威は片づいた。だが、地上は、まだ終わっていない。
念機の残党を押し戻していたカイの隣に、低い地響きとともに、誰かが着地した。長柄の戦斧を肩に担いだ、黒髪の少年。声を張るでも、闘気を撒くでもない。ただ息をひとつ吐いて、戦場を見た。
「……間に合ったな」
「お前は、さっきのエルフと一緒にいた……!」
カイが目を細める。グランは戦斧を担ぎ直し、戦場を一瞥しただけで状況を読んだらしく、口を開く前に、もう跳躍の体勢に入っていた。
「自己紹介は後だ。行くぞ」
グランが地を蹴り、戦斧を振り下ろす。ガルドス軍の歩兵の重装甲が、力任せに叩き割られていく。カイもまた、白銀の念甲を再び滾らせ、グランの突進に呼応して、光の刃を振るった。
二人の刃が交差し、敵の包囲が崩れていく。隙間なく噛み合うその連携は、言葉を交わしていないとは、とても思えなかった。
ふいに、小さな膠着が生まれた。次の波が来るまでの、数秒の静寂。カイは、隣のグランへ視線を流した。
「なぜここにいる。お前はエルフの弟子だろう」
問いというより、確認だった。グランは戦斧の石突きを地に立て、息を整え、少し考えてから言った。
「師に助けられた者が、別の誰かを助ける。それだけのことだ」
それ以上は、語らなかった。カイも、聞かなかった。
「ふん。頼もしい援軍だな」
次の波が、来た。
二人は、同時に動いた。
王都へ迫っていたガルドスの先鋒部隊は、完全に戦闘能力を喪失し、敗走を始めた。




