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攻勢の狼煙

ルミナリア王の許可が下りたのは、その夜のうちだった。

城の書庫は王のものだった。だが王は惜しまなかった。「女王どのが必要とするなら」とだけ言って、鍵を開けさせた。

書庫の扉が開いた瞬間、リラは息をのんだ。天井まで届く本棚が四方を埋め尽くし、羊皮紙の地図、擦り切れた写本、彩色の絵本——数百冊が積み重なって待っていた。普段なら、一晩中でも居座っていられる場所だった。

今夜は、違った。

「私がこの中から、この戦いに“使えそうな物語”を選び出します。そして——カイ、ヴェルナ様。選んだ本を、私が予測する敵軍の進軍ルートの各所に隠してきてほしいのです」

リラは夜通し、一心不乱にページをめくった。ある本からは猛烈な嵐の記述を。ある本からは大地を焼いた火炎の呪文を。そして古い英雄譚からは、空を駆ける幻獣の伝承を——リラの念威が、インクの文字一つ一つへ、強烈な「現実への変換式」として染み込んでいく。

本を一冊手に取るたびに、その物語の重さが指先から伝わった。誰かが書き、誰かが読み、誰かの夜を照らしてきた言葉たちが、今夜は別の形で、世界に放たれようとしている。

ただ、カバンのいちばん底に沈めた三冊にだけは、リラは指を伸ばさなかった。それは、どんなに苦しくても使うつもりのない本だった。

「……よし、準備は整ったわ。みんな、行ってらっしゃい」

夜明け前、カイとヴェルナがヴァルハラ森へと向かった。ティアが偵察のために夜空へと飛び立つ。リラは城壁の上に残り、戦場を見下ろす位置に立った。

そして、運命の進軍が始まった。

夜明けの平原を埋め尽くすのは、ガルドス軍の黒い念機と、複合軍勢の数千の歩兵隊。圧倒的な数の暴力が、不気味な駆動音を響かせながら、リラの予測通り“迷いのヴァルハラ森”の渓谷へと誘い込まれていく。

崖の上からは、ヴェルナの指揮する防衛軍が、地形を生かして必死の陽動を仕掛けていた。だが、ガルドス軍の猛火の前に、防衛線は徐々に押し込まれていく。

「今よ……! 敵の先鋒が、最初の“物語”の真上に来たわ!」

罠を仕掛け終えたカイが、城壁へ戻ってきていた。その背に支えられながら、リラはカバンの一冊を高く掲げて叫んだ。

その瞬間、敵軍の足元の草むらに隠されていた数冊の本が、あり得ないほどの白銀の光を放って爆発した。

大地を揺るがす轟音とともに、奇跡が空高く舞い上がる。

「な、なんだぁっ!? 大地が、光の渦になって……!?」

ガルドス軍の兵士たちが叫び声を上げながら、光の乱気流に巻き込まれて吹き飛んでいく。リラが仕込んだ「物語の術式」が、現実の物理法則を書き換え、敵の進軍を完全に足止めしたのだ。

さらに奥の岩場に配置されていた一冊がまばゆい波動を放ち、ページから光の粒子が溢れ出すと、それはみるみるうちに巨大な質量へと実体化していった。

グルァァァァァッ!!!

咆哮とともに虚空から現れたのは、おとぎ話に描かれていた通りの、巨大な翼を持つ飛竜と、鋭い牙の猛獣たちの群れだった。リラの念威が編んだ、臨時の光の生命体だった。

「ひ、飛竜だと!? このあたりには生息していないはずのバケモノだぞ!」

「うわああっ! 突撃してくる! 隊列を維持しろ!」

予想だにしない「物語の軍勢」の不意打ちに、ガルドス軍の圧倒的だったはずの隊列が、見る見るうちに大混乱へと陥っていく。

城壁の上で、リラは頭の芯が焼き切れるような激痛と、力の消費に耐えながら、光の獣たちを見つめていた。

一冊の光が、静かに消えた。また一冊、消えた。さらに、もう一冊——。

消えていったのは、農場の夜にひとり読んで涙した英雄譚。クロエと声を出して読み合った絵本。そして、この書庫の棚から抜いてきた、題名も覚えていない一冊だった。

(……ごめんね。本当は静かな本棚の中で、子供たちに読まれるのを待っていたはずなのに)

飛竜たちは一層激しく羽ばたき、ガルドスの念機へと勇敢に体当たりを敢行している。その姿を見ながら、リラは唇を小さく動かした。「ありがとう」と声に出そうとして、やめた。声にしたら、消える気がした。消えてほしくなかった。だから、飲み込んだまま、ただ見ていた。

飛竜の群れが、一頭ずつ、光の粒子へと還っていく。

リラのカバンの中に、残りは三冊。——使うつもりのなかった、あの三冊だけ。

(あと三回。それだけ)

リラは城壁の端に手をついて、白みかけた空を見上げた。戦火の煙が流れる向こう、北の方角に、規則正しく並んだ光が見えた。星ではない。間隔が、均等すぎる。カイと二人で空を見上げたあの夜と同じ光が、今夜もそこにあった。リラは一瞬だけそれを見て、それから視線を戦場へ戻した。今は、考える余裕がなかった。

「――よし。道は開いた」

カイの全身に、リラの想像力が紡いだ白銀の念甲が、いま確かに形を結んで実体化していく。あの路地でカイを救った光が、今度は彼を包む甲になっていた。

「行くぞ、ヴェルナ! ティア! ここからが、俺たちの本当の反撃だ!」

カイが光の弾丸となって、混乱する敵陣の真っただ中へと飛び込んでいく。

残り三冊のカバンを胸に抱いたまま、リラはその背中を、ただ見送った。


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