二度目の覚醒
渓谷の街道を三人で歩きながら、ティアはカイの肩の上でずっと喋り続けていた。
カイは無言で聞いていた。ティアの言葉のひとつひとつが、腹の底に落ちるようだった。
ガルドスの空中要塞ヴォルケンは、世界が混ざり合う衝撃に巻き込まれ、この世界の山脈に不時着したまま動けなくなっている。ガルドス本人は近くの領主の城に居座り、エルド・ラインの火器と資金でこの世界の傭兵や野心的な貴族たちを抱き込んでいる。その数、すでに数千。
「ナイラ様は?」
「ルミナリア王都に退いたよ。ライラも向かってる」
カイは一度だけ、強く目を閉じた。
リラはその横顔を、少し後ろから見ていた。何の話をしているのか、半分しか分からなかった。エルド・ラインの地名も、人名も、勢力図も、おとぎ話のどこにも出てこない話だ。でも、カイの肩が少し下がったのは分かった。ティアの声が細くなる瞬間も、分かった。
(こういう顔もするんだ、この人は)
戦士の顔でも、農場の居候の顔でもない。誰かを心配している、という顔だった。
渓谷を抜けて高台に出たとき、リラは思わず足を止めた。
「……おかしいわ」
「何が」
「この渓谷を抜けると、おとぎ話では"白鹿の渡し場"という石橋の宿場町があるはずなの。でも、あそこに見えるのは——」
リラが指さした先の地平線に、確かに街のような影があった。だが、様式が違った。石造りの建物のはずなのに、どこか有機的で、巨大な何かの骨格をそのまま柱に使ったような、見知らぬ輪郭だった。
カイは細く息を吐いた。
「……ガルドスの陣地建築だ。あいつらは制圧した土地に、すぐ簡易基地を作る。骨格様式の構造物は、エルド・ライン固有の工法だ」
リラは目を細めた。おとぎ話の地図と、今見えているものが、噛み合っていない。
「世界が、混ざっているの?」
「混ざり始めている」
それだけだった。短い言葉が、重かった。
渓谷の先にあった町は、石造りの古い交易都市だった。だが今は、各地から逃げてきた難民と怯えた商人たちで溢れ、通りのあちこちに荷車が乗り捨てられ、異様な緊張が満ちていた。
「カイ、長居しない方がいいよ。ガルドスの偵察兵が嗅ぎ回ってる匂いがする」
ティアがカイの耳元で小さく囁いた。
「分かってる。だが——」
カイの視線が、リラに向いた。リラは古本屋の店先で、積み上げられた分厚い書籍の背表紙をひとつひとつ確かめていた。夢中な目をしていた。
「リラ」
「ちょっと待って。あるかもしれないの」
「何が」
「ヴァルハラ森の地理書。一般に流通している本には載っていない迷路地形の記述が、六百年前の英雄譚の余白に書き込まれているはずなの。それがあれば、ガルドスの軍を——」
「……どれくらいかかる」
「十五秒」
リラは迷わず三冊を引き抜き、全財産の半分を払った。大事そうにカバンに詰め込みながら、少しだけ胸を張った。
カイは何も言わなかった。ただ、わずかに口元が緩んだ。
そのとき、路地の向こうから、金属の擦れる音がした。
「カイ!」
ティアの警告が一瞬早かった。
路地の両端から、馴染みのない金属鎧の兵士たちが音もなく姿を現した。エルド・ラインの装甲だ。ガルドスの将兵——この世界の傭兵ではない、訓練された本職の兵士が五人、腰の剣を引き抜きながら三人を囲んでいく。
「お前は——戦士カイだな。ガルドス様への反逆者め、ここで仕留めてくれる」
カイは即座にリラの前に立ち、大剣に手をかけた。
だが、状況は悪かった。路地は狭い。五対一で、しかもリラとティアを背後に庇いながらでは、カイの本来の動きができない。兵士たちはそれを知っていて、じりじりと間合いを詰めてくる。
刃の風圧が、カイのコートをかすめた。数の暴力の前に、カイの体勢が崩れる。
「死ね、カイ!」
兵士の一人が、無防備になった胸元へ向かって、容赦なく剣を突き出した。
その瞬間、リラの意識の中で何かが弾けた。
一瞬だけ、視界が変わった。
翠縁農場の夕暮れ。カイが納屋の裏で、無言で薪を割っていた。誰にも見せない顔で、ただ黙々と。声をかけたいと思いながら、かけられなかった。
川辺で魚を渡された時の、手の冷たさ。魚越しに触れたカイの指先が、川の水より少しだけ温かかったこと。
「今、目の前にいるあなたと話しているのよ」と叫んで踏み込んだカイの前で、リラは初めて誰かに見てもらえた気がした。
この人を、死なせたくない。
理屈ではなかった。今ここにいる、薪を割るあの背中を、魚を渡してくれたあの手を、消えてほしくなかった。ただそれだけだった。
「——させないっ!!!」
リラのカバンの中で、数冊の本が、あり得ないほどのまばゆい光を放ち始めた。
本のページから溢れ出した光は、カイの纏う思念力と完全に共鳴し、強力な精神波の波動となって爆発的に広がった。
「うわああああっ!?」「な、なんだこの光は……! 体が動かん!」
ガルドスの兵士たちは、路地の壁へと吹き飛ばされた。カイはその隙を逃さなかった。戦いが、数秒で終わった。
「リラ……! すごいぞ!」
リラはその場に膝をついた。頭の芯が、じんわりと重い。
手が震えていた。カバンを引き寄せて、中を確かめた。
さっき買ったばかりの三冊が、二冊になっていた。あの波動に変わった瞬間、一冊分の「物語」が完全に燃え尽きたのだ。
リラは、その空白を指先でなぞった。
(……使うたびに、減る)
でも、戦闘リソースの話じゃなかった。リラが本当に怖かったのは、もっと別のことだった。
本は、おとぎ話の入れ物だ。あの光はカイを守ったけれど、それは「おとぎ話が燃えた」ということでもある。リラが世界を読んでいた言葉が、一冊分、灰になった。
もし全部なくなったら。
もしこのカバンの中が空になったら——私は、この世界をどんな言葉で読む? カイの隣を、何を頼りに歩く?
「リラ、どうした。顔色が悪いぞ」
「……なんでもないわ」
リラはカバンの口を閉じ、立ち上がった。膝が少し笑っていたが、カイには見せたくなかった。
「行きましょう。まだ先があるでしょう?」
カイはしばらくリラの顔を見ていた。それから、何も言わずに頷いた。
二人は路地裏を抜け、再び街道へと足を向けた。リラのカバンは、一冊分だけ軽かった。




