第78話 滝行
カリ山脈の麓にある小さな集落――そこで俺たちを出迎えてくれたのは、白装束にも似た衣を身にまとった、年配の男女二人だった。
いずれも髪には白が混じり、年の頃は五十代といったところか。厳かな山の空気に溶け込むような佇まいをしていた。
そのうちの一人、穏やかな笑みをたたえた男が静かに一歩前へ進み出て、丁寧に頭を下げながら声をかけてきた。
「ようこそお越しくださいました。ムスク伯爵家のサグマ様でいらっしゃいますか?」
その問いに、サグマ様は短くうなずく。
「ああ、そうだ。すでに早馬で知らせは届いていると思うが、今回は魔力回復薬をはじめ、さまざまな商品を仕入れに来た」
「はい、確かに承っております。ただ……本来であればすぐにご案内したいところなのですが、外部からお越しの方々には、登山前――北カリ村へ入る前に、少なくとも三日間、こちらで身を清めていただく決まりとなっておりまして。差し支えありませんでしょうか?」
……なんだ、それ。
思わず口に出しかけたが、サグマ様は表情を変えず、うなずくだけ。
その姿に倣い、俺も言葉を飲み込むことにした。
「ありがとうございます。それでは、事前に六名の方の入村申請をいただいておりますので、その六名の方々、前へお進みいただけますか?」
男が穏やかにそう促したところで、サグマ様が一歩前に出て手を上げ、制した。
「待ってくれ。その件についてだが、追加で二名、入村の許可を願いたい者がいる。一人は十三歳にして銀証を授かった才気ある魔法師。そしてもう一人は、フローラル伯爵家の三女だ」
しかし、その申し出を聞いた年配の男女は、わずかに表情を曇らせた。
「……承知いたしました。一応、村長にはお伝えいたしますが、あくまで決まりは決まり。追加の入村が認められる可能性は、極めて低いとお考えください。これは、決してお二人やサグマ様のお言葉を疑っているという意味ではございませんので、どうかご理解を」
やんわりとした言い回しではあったが、その語調の奥には揺るぎない戒律と閉鎖的な空気が漂っていた。
サグマ様がうなずくのを合図に、彼と護衛隊の商人五名、そして俺とリンの計八名が、集落の奥へと案内された。
そこには、落差五十メートルはあろうかという巨大な滝が轟々と流れ落ちている。
水量は凄まじく、足元に立っているだけでも、空気に含まれる水気と冷気が肌を刺すようだった。見ただけで全身が清められそうなほど、あふれんばかりのマイナスイオンが満ちている。
「皆さまにはこちらで衣をお着替えいただき、三日間、この滝に打たれていただきます。滝行を終えたら温泉で体を温めていただき、適度に休息を取った後、再び滝行に戻っていただきます」
滝行……日本では一度もやったことがない。
というか、この水量、本当に耐えられるのか?
思わず、もしもの時は魔法でどうにかと考えかけたその瞬間、横から女性の声がやんわりと釘を刺す。
「くれぐれも魔法で滝の負荷を軽減しようなどとは思わないでください。ここで行うのは、身体だけでなく精神をも清めるための儀式です。もし魔法の使用が発覚した場合、その時点で入村の許可は取り消されますので、ご承知おきください」
――危なかった。
本気で魔法を使う気でいた。危うく入村許可をふいにするところだった。
リンと別々に簡素な更衣室へ案内され、白装束へと着替える。
そして、いよいよ滝行が始まった。
最初に挑んだのは隊商護衛の五名。彼らは一人ずつ、滝の下へと進み、白装束を打ちつける激流に耐えながら、一分間をなんとかやり過ごしていく。
次にサグマ様がその身を水にさらし、泰然とした様子で滝行を終えると、ついに俺の番が回ってきた。
最初に襲ってきたのは、想像以上の冷たさだった。
それは、事前に護衛たちが身震いしていた様子から想像していた以上。
身体の芯まで一気に冷やされるような感覚が走り、思わず歯が鳴る。
そして追い打ちをかけるように、水の圧力が全身を叩きつける。
激しい衝撃と、それに伴う痛み。さらに顔を容赦なく打つ水が呼吸すらままならなくさせる。
ただの六十秒のはずが、永遠のように長く感じた。
しかし、その苦行を乗り越えた瞬間、全身が澄み渡るような感覚に包まれた。
心が静まり、何かの穢れがすべて洗い流されたような……そんな感覚。
そして最後に滝の下へ向かったのは、リンだった。
白装束に身を包み、一歩一歩進んでいくその姿は、周囲の空気を一変させるほどだった。
その凛とした佇まいに、護衛たちは思わず息を飲む。
「じ、十三歳だよな……?」
「あんなにスタイル良かったのか……?」
「……お前ら。リンス様をそのような目で見るのはやめろ!」
誰かの低く鋭い一喝が飛ぶと、男たちはハッと我に返り、気まずそうに目をそらした。
そんな中、皆の視線を一身に集めながら、リンが静かに滝の前へと進み出る。
彼女ならいつものように淡々と滝行をやり遂げるだろうと、誰もがそう思っていた。
だが、その予想は裏切られた。
滝の水圧の前で、リンの身体が大きく揺らぐ。
立ち上がっていられないほどの圧力に、彼女は思わず顔をしかめ、苦悶の表情を浮かべた。
なんとか背筋を伸ばそうとするも、滝の重みがそれを許さない。
水の勢いに晒されるたび、まとっていた白装束は少しずつ乱れはじめ、やがてその下の白い肌が、滝の飛沫の中に透けるように浮かび上がっていく。
それでもリンは、必死に歯を食いしばりながら、地獄のような一分間を耐え抜いた。
滝の下から自力で歩み出たときには、全身が小鹿のように震えていた。
「リン、大丈夫か!?」
俺は思わず駆け寄り、びしょ濡れの白装束を身にまとった彼女の肩に手を置く。
滝の飛沫に濡れたその姿はどこか煽情的で、それでいて無防備だった。
リンは何も言わず、震える身体を俺の胸に預け、しばらくしてからぽつりと呟いた。
「……みっともないところを見せて済まぬな。剣を持たなければ、【剣姫】のギフトは発動しない……つまり、これが私自身の本来の力というわけだ」
その声には、どこか悔しさと自嘲が込められていた。
「そんなことはない。よく頑張ったよ、リン」
俺はそう言いながら、彼女を強く抱きしめようとしたとき――
背後から控えめながらもはっきりとした咳払いがひとつ響いた。
「……ゴホン」
振り向けば、先導していた白装束の男が、目を逸らしつつも苦笑まじりに告げてきた。
「お二人とも、見事な滝行でした。ですが……ここでは、そういったご行為は控えていただけるとありがたい」
その口ぶりは穏やかだったが、言外に「人目を気にしてくれ」と伝えてくるような、絶妙な気遣いがにじんでいた。
俺は気まずさを覚えながらも、リンの肩に掛けた手をそっと外す。
滝行を終えたあとは、そのままの白装束で温泉へと向かうことになった。
衣服を着たまま湯に浸かるという行為には、どうにも背徳感のようなものを覚える。
だがそれは、おそらく俺が日本人の転生者だからこその感覚なのだろう。
そうして八人全員で温泉に浸かること三十分。
しばしの安らぎを終えると、再び滝の下へと向かうことになる。
これを三日間、ひたすら繰り返した。
♢
そして、三日後――
「皆さま、本当にお疲れさまでした。これで、心身ともに十分に清められたかと思います」
まずは、白装束の男が労いの言葉を口にする。
続けて、俺とリンの入村に関する可否が、いよいよ告げられた。
「レオ様、リン様。おふたりの入村について村長に確認を取ったところ、正式に許可が下りました。よって、これより八名全員での入村が認められます」
その言葉に、俺は安堵の息をついた。
滝行の苦行も、報われた――そう思えた瞬間だった。
……が、ふと、ひとつの疑問が浮かぶ。
この三日間、この男はずっと俺たちの近くにいたはずだ。村長の元へ行った気配など、一度もなかった。
では、どうやって許可を取ったというのか?
俺の出した結論は、この男が村長。
それしかありえないと思った。
が、その予想は大きく外れる。
「皆さまの中には、私がどのようにして村長に確認を取ったのか、不思議に思われた方もいらっしゃるかと存じます。あまりにも曖昧なままでは、信頼関係にも関わりますので、ご説明いたしましょう。実は私の持つギフト――【双共】によるものです」
「【双共】……?」
思わず、声が漏れる。
「はい。同じく【双共】のギフトを持つ私の弟とは、視覚・聴覚、さらには意識までも共有することができます。つまり、私を通じて弟が状況を把握し、そのまま村長に確認を取った、というわけです」
なるほど……それならば納得がいく。
俺たちの反応を確認した男は、説明の役目は果たしたと判断したのだろう。
表情を少し引き締めると、今度は口調を改め、真剣な面持ちでこう告げた。
「これより、皆さまを北カリ村へご案内いたします。ただし、カリ山脈では、いかなる理由があっても、許可なく魔法をしようすることは厳禁とさせていただきます」
「えっ……魔物が現れたとしても、ですか?」
思わず確認すると、男は頷きながら、はっきりと言い切った。
「はい。たとえ命を落とす危険があろうとも、です」
その断言には一切の揺らぎがなかった。
サグマがさらに厳しい声で念を押す。
「レオ、今の掟だけは絶対に破ってはならん。カリ山脈においては、ドラグラス国王の命よりも優先される規律だ。肝に銘じておけ」
――マジか……!?
もし、ここで本当に国王が魔物に襲われたとしても、誰も魔法を使って助けることは許されないというのか……?
あまりに非常識すぎる掟に、俺の顔が強張るのを自分でもはっきりと感じた。
それを察したのだろう。男はふっと柔らかく微笑み、安心させるように言葉を添えた。
「ご安心ください。魔物など、そうそう現れるものではありません。この地には『鳳龍』様が眠っておられます。その魔力と気配に怯え、魔物どもがここまで登ってくることは、まずありませんので」
『鳳龍』――
まるでこの地を護る伝説の守護神のように、その名は語られた。
どうやら、俺以外の者たちは皆、その存在を当然のように知っているらしい。
誰一人として、その言葉に疑問の色を浮かべることも、驚きの声を漏らすこともなかった。
俺が「鳳龍って何ですか?」と訊こうとしたときには――
すでに男は静かに踵を返し、北カリ村へと続く山道を歩き出していた。




