第44話 いざ! 【拘束】の迷宮へ!
【拘束】が刻まれた迷宮に潜る当日――
「はい、これが昨日頼まれていた分だよ。ずんどう鍋で十キロなんて……こんなに作っても、早く食べないと傷んじゃうよ?」
奥さんが、ぐつぐつと煮えた大量の野菜スープをずっしり詰めたずんどう鍋ごと、ロビーまで運んでくれた。湯気とともに、ほのかに香ばしい匂いが立ち上る。
「今日から迷宮に潜るんで、いっぱい食料を溜めこんでおこうと思いまして」
そう答えながら、俺は【収納】を展開し、鍋ごと中へと収める。
目の前で展開されたその光景に、奥さんはぽかんと口を開けたまま、ただ見送るばかりだった。
宿には十日分の料金を前払いしていたが、実際に泊まったのは八日間。残り二日分の返金は不可。その代わり、銀貨三枚分ほどの食事を作ってくれるという話だった。
だからこそ、この野菜スープをお願いしたのだ。
胃に優しく、迷宮内では貴重な栄養源になるだろう。
宿を後にして冒険者ギルドへ向かう途中、街路に立ち並ぶ露店から、いつものように香ばしい肉の焼ける匂いが漂ってくる。
朝食は済ませているというのに、その匂いにつられてリンの足がぴたりと止まる。
きらきらと目を輝かせ、肉串を見つめるその姿が可愛らしい。
今日は節約なんて言わない。俺は小さく笑って、財布を取り出した。
「好きなだけ買おう! まだまだ【収納】には余裕がある!」
振り返ったリンの顔が、一瞬でぱっと花開くように明るくなる。
あの無垢な笑顔を見られただけでも、今日の出費は悪くない。
俺がこう言ったのには、ちゃんと理由がある。
――昨日、思い切って大金を使ったのだ。
その用途は、魔法書。しかも第三位階魔法。
値段はなんと、金貨五枚。
第三位階の相場が金貨四枚からだとすれば、やや割高にはなる。
だが、それだけの価値がある魔法だった。俺の直感は、そう告げている。
それに、店主も言っていた。こんないい魔法は年に一度手に入るかどうかだと。
ついでに、白紙の魔法書も五冊ほど追加で購入しておいた。
魔法習得中に時間だけでなく、魔力も無駄にしたくはないからな。
自分だけ好きなものを手に入れて、リンには何も買わない……なんて選択肢はない。
彼女は俺の大切な相棒で、大切な女性。いざというときには背中を預ける相手だ。
財布の中身は――金貨一枚、大銀貨二枚、銀貨六枚、大銅貨二枚。
これだけではやや心許ない。そこで昨日描き終わった【治癒】の魔法書を売却してきた。
値段は銀貨八枚。
前回は七枚だったから、人気の高さを改めて実感する。
結果、手元には金貨二枚とちょっと。
俺とリンの二人暮らしなら、これで三か月は十分にやっていける。
――もちろん、迷宮に潜らなければの話だが。
買い物を終え、リンと並んで冒険者ギルドに足を踏み入れると、すでにカタリナとミザリーの姿が見えた。
俺たちを見つけるなり、カタリナが静かに近づいてくる。
「おはようございます。もうギルドへ、迷宮の入場料は支払ってあります。よろしければ……」
おずおずとした態度で、けれど律儀に声をかけてくる。控えめな所作が、どこか不器用で、見ていて心配になるほどだった。
「おはようございます。分かりました。それでは、僕たちの分も」
そう返して、俺は銀貨二枚――俺とリンの入場料を手渡した。
カタリナの指先が、俺の手にわずかに触れた瞬間、びくりと肩が震える。
思わず、その細かな反応に目を細めた。
(……男性恐怖症か? 俺みたいな子供にも反応してしまうほどの……)
そう疑ってしまうほど、繊細すぎる反応だった。
けれど次の瞬間、カタリナは無理やり笑顔を作ってみせる。ぎこちないが、真面目な子だ。
そんな彼女が、俺とリンの背後に視線を送り、少し困惑したように首を傾げる。
「あの……荷物、それだけですか? 最低でも一か月、長ければ二か月近くの滞在になると思うのですが……」
そりゃ、そう思うよな。
目に見える荷物といえば、俺の腰に小さいポーチと、リンの背中にはヤマツキの小さい鞄だけ。どう見ても日帰りの装備だ。
対して二人の背中には大きなリュックを背負い、その上には綺麗に寝袋が包まれている。おそらく重さにして二十キロ前後はあるだろう。
「はい。ちょっとここでは詳しく言えませんけど……あとでお見せしますね。多分、僕たち二人のほうが、カタリナさんたちよりずっと多くの荷物を持ってきてると思いますよ」
俺がそう言うと、カタリナは目を瞬かせ、小さく「……は、はい」とうなずいた。
【拘束】の魔法陣が描かれた迷宮は、バックスの街の郊外――南門から徒歩で三十分ほど歩いた先に存在していた。
乾いた風が草を揺らし、踏みしめるたびに地面がぱりぱりと音を立てる。
そこにぽつんと口を開けていたであろう、祠の入口。
しかし、そこにはバックスの北門付近で見かけた、魔法陣の扉がその口を塞いでいた。
「あの、知っているかもしれませんが、この魔法――あまり人気はありません。ですから魔物が少し強いかもしれないので、気を付けてくださいね」
「ちなみにどうのような魔物が出るのか知っているのですか?」
俺がカタリナに問うと、嫌な顔一つせずに教えてくれる。
「……スライムです。種類は多くないですし、通常の個体ならそこまで強くはないんですが……この迷宮は、冒険者にも魔法師にも人気がないので、前回のボス討伐から多少時間が経っています。だから、迷宮核がどう影響を及ぼしているのかも、まだ分かっていません。それが不安で……今回、募集したんです」
なるほど。
つまり、通常であればカタリナとミザリーの二人でも第一位階魔法の迷宮は攻略可能ということか。
(ということは、この二人、見た目以上に実力があるってことだな)
油断はできないな。今後の参考にもなる。
迷宮の入口前に辿り着くと、そこには冒険者ギルドの腕章をつけた職員が待機していた。腰に長剣、手には厚めの書類板。厳しそうな顔でこちらを見やる。
「すみません。カタリナ、ミザリー、レオ、リンの四名です。こちらがギルドからの入場証明書です」
カタリナが丁寧に羊皮紙を差し出す。
職員はそれを受け取ると、目を通しながら問いを投げかけてきた。
「滞在期間は?」
「一応、四十日で」
カタリナが答えると、職員はうなずき、羊皮紙に何やらメモを書き込んだ。
「了解。現在、この迷宮には潜っているパーティはいない。ここは第一位階魔法【拘束】の迷宮だ。二つ注意点がある。一つは仮に後から入場を希望するパーティが来たとしても、入場は二十日後からとなる。それまでは君たちの専有期間とする。もう一つは迷宮核は持って帰って来てはならないこと。いいな?」
(……パーティ制限をかけるのか)
思わず内心で呟いた。
管理された迷宮とはこうも徹底されているとは……。
カタリナはギルド職員の問いかけに頷き、魔法陣が刻まれた扉に手をかける。
俺とリンはその後に続く。
迷宮に足を踏み入れた瞬間、肌に触れたのはひんやりと湿った空気。
まるで地の底から吹き上がる霧のような冷気が、全身を包み込む。
壁の表面は水晶のように磨かれた質感を持ち、そこに流れる魔力が、淡く、時折きらめきながら揺れている。
(これは……)
ジウムが俺に放った魔法陣と、よく似た色。
「気を付けてください。ここはぬかるんでいるので」
カタリナに言われ、俺たちは慎重に足を運んだ――




