100.cry werewolf(5)
何を持ってる、鈍い色、危ない刃物。
心が凍えて時間の流れが緩やかになる中で、アンナは向かってくる誰かに目を奪われる。
何も聞こえない、声を出せない、手足も動かない。できることは、ただ迫り来る凶器を見ていることだけ。
呼吸を忘れた少女にカメリアが疑問を持つも、すでに遅い。
振り向く間もなく、男性の持つ刃物は夫人の背中を捉え、後はただ貫かれることを待つだけ。
「……いやだ」
黒い少女が放つ叫びは、胸の内で響くのみ。
いつかの光景が視界に重なるアンナの瞳には、光を彷徨わせる霧がかかっていった。
──この光景を見るのは、何度目だろう。
長命の錬金術師をかばい致命傷を負った、作り笑いを浮かべる青年。
人と怪物の境目に立った少女の、黒味があるひび割れた肌とまぶしい碧眼。
そして見知っているけれど、あまりにも遠くて手を伸ばしても触れない、金髪の少女の勇ましい背中。
いくつもの赤が塗り重ねられ、どろりと冷えた心の涙がアンナの髪に伝っていく。
炭を思わせる少女の長髪に赤みが差し、パチンと爆ぜるは火花の音。切り刻まれた時間の中で、あの日に言いたかった言葉をアンナは告げた。
「誰か、助けて」
アンナの耳に届いた火花の音は、彼女の想いに疾くと答える。
一秒にも満たずに夫人の背中へ届くはずだった、鈍色の凶器。彼女たちの彼我の距離を余裕とした火花の音は、連れた黒を挟みこむ。
怪物を生みだす黒い霧。それが瞬時に壁を作り、刃物を弾いてカメリアを救うと、霧は瞬く間に玄関から廊下まで自身の色に染めていった。
夫人の混乱も、凶器を持つ男性の困惑も意に介さず、アンナが呼んだ黒い霧は事を進めていく。
刃物を拒んだ壁は一度圧縮され、黒の濃さを増した霧が次になるのは人の形。
長身で肩幅がある男性像。輪郭だけの黒い人形だが、雄々しく真っ直ぐな佇まいは、確かな力強さを見せていた。
そんな黒い怪物は床に足をつけ、ひび割れた黒い肌から覗く赤い光が、声の代わりとして火花の音を鳴らしていく。
一歩。黒い霧に満ちていく空間を進む怪物が、明かりを失ったアンナの瞳が捉える者へ近づこうとしたところで、玄関の扉が荒々しい物音を立てた。
「ザック──」
アンナは振り向き、何が起こったのか分からないカメリアは、音に引き寄せられて視線を向ける。
希望の象徴たる青年の名前。それをつぶやく黒い少女は、あの時と同じ光景を胸に描いた。
扉の先にはザックがいる。
そんな期待が叶うように、施錠された扉が悲鳴とともに打ち破られた瞬間、アンナの瞳から霧が晴れるも映りこんだ姿は別人だった。
「テメェか、殺人鬼のクソ野郎は!」
見慣れない大柄、視線の先に男性を捉えると同時に炎上する怒声。
よく知っている青年ではない暴力的な存在に、アンナは二人の殺人犯に挟まれた心境へ変わっていく。
飛びこんできた大柄の男性に意表を突かれたのは、アンナに限らない。カメリアも、そして刃物を持っていた男性もだ。
大声に続いて懐から拳銃を取りだし、迷うことなく男性が相手に銃口を向けたことによって、カメリアも相手も我に返る。
引き金を絞り、空気を裂く発射音。
アンナの耳をふさぎ、全身を使って少女を守るカメリアの上を通るのは、火薬の臭いを置き去りにした金属の弾丸。
狙われた相手もとっさに体を動かしたお陰か、胴体目がけて撃たれたはずの弾丸は、右の二の腕を貫き真正面の壁に受け止められる。
痛みどころか当たったことすら分からないとばかりに、そのままの勢いで玄関を目指そうと走りだす男性だったが、迎えたのは首都の町並みではなく、凶暴な男の笑顔だった。
「外出てえのか。いいぜ、出してやるよぉ。オラァ!」
発砲から見切りをつけての徒手空拳。
手慣れた様子で拳銃をその場に落とし、逃げようとした相手を掴む男性は、勢いをそのままに自身の腕力を混ぜていく。
想定外の力が加わったことにより、足をもつれさせて転がるように外まで投げ出された相手は、受け身を取る間もなく地面に全身を打ちつける。
「ザマぁねえぜ。クソ野郎にはお似合いだな」
下宿の外。今の首都は暗さを増し、雨が降っていた。
自分と同じく灰混じりの水に濡れ、無様に転がる相手を笑うのは、いつの日かザックに暴力を振るっていた警官。
その人だと気がついたアンナがキョトンとしていると、少女に遅れて来たのは彼が現れる前後の違和感。
なんだろうとカメリアに抱きしめられながら周りを見回してみると、すぐに答えへたどり着く。
アンナの髪は未だ赤い光を灯してはいるも、下宿を黒で染めようとしていた霧は、壁の汚れ程度にまで薄まっていた。
目の前にいたはずの黒い怪物も姿を消しており、今となっては乱暴な警官が二人を助けたようにも見える。
「って、おい。まだ逃げようってのか。チッ、おらそっち行ったぞ、探偵」
「分かっている」
下宿内の状態に違和感がないのか、それとも直前までいた黒い怪物を見ていないのか。
刃物を持っていた相手ばかりを注視する警官は、霧がかった雨天という珍しい天候の中を逃げようとする彼を見て、呆れたように声を上げていく。
その声に応えたのは、短く静かな言葉。
自覚が出てきたのか、右腕を押さえながら駆けだそうした男性だったが、彼の意識外から来た人物によってその足は宙を舞う。
霧と雨を弾く人の円。
逃げようとした男性を背負うように投げた人物は、容赦なく相手の背中を地面へ打ちつけた。
「ガハッ!」
「逃がしはしない。抵抗もオススメしないな。大人しく縄についた方が身のためだ」
「おい、探偵。そりゃ俺のセリフだ、盗るんじゃねえ」
呼吸が上手くできず、咳きこみもだえるばかりの相手に向かって、探偵と呼ばれた人物は淡々と言葉を落としていく。
そんな探偵を見てぼやく警官につられて、状況が落ち着いたと考えたアンナとカメリアは、おそるおそる外へ目を向ける。
彼女たちを襲った相手を投げたのは、よく見知った朽葉色の毛髪の男性──パーシヴァル。
信頼できる人が自分たちを助けてくれた。その安心感が心に一息を入れるとともに、冷ややかな空気も全身に巡っていく。
後ろを振り返ると、堂々たる証拠として転がる抜き身の刃物、包丁。
一目で下宿の物だと分かったカメリアは、キッチンから持ちだされた物だと想像する。
アンナと出会った日にも使っていた愛用の包丁。それが自分に向けられたと理解した夫人は、無意識に少女を抱き締める力を強めた。
「んで。そいつが殺人鬼で間違いねえよなあ? 得物があって、逃亡もした。現行犯逮捕だ」
「間違いないだろう。そうでなかったとしても、夫人たちを狙った人物だ。どちらにせよ、罪に問える」
落とした拳銃を拾い、雨を気にせず外へ出る警官は、先ほどまでの暴力性を静めながらパーシヴァルへ声をかけていく。
追っていた犯人を捕まえた。それが気を静める薬となったのか、上機嫌を隠さない。
右腕と背中が痛み、呼吸も整わず。外見と同じ心を持っているであろう犯人の傍まで寄った警官は、表情を喜色に染めるかと思いきや、深いため息だけをつくのだった。
「おい、なんだよこいつ。こんなのが稀代の殺人鬼? 切り裂き魔? ただのそこらにいる、不景気なツラした野郎じゃねえか」
新聞で号外され、デカデカと紙面を飾る殺人犯。長らく捕まらなかった犯人となれば、非凡な才能と目を見張るような外見だと警官は思いこんでいた。
しかし現実は違う。黒みの強い茶髪はグチャグチャで、苦しそうに開けられたまぶたからは、汚れた赤褐色が覗いている。
顔立ちも体型も平凡で、癖のない服装もふくめれば、一度雑多の中に紛れてしまうと分からなくなるほど特徴がない。
誰もがなんとなく思い浮かべる、平均的で好かれも嫌われもしない成人男性。
影が薄いことこそ特徴と言えるような人物に、パーシヴァルも興味を持ち切れないのか、警官の言葉に同意するような形で沈黙する。
動かないと判断し、警戒の意識を持ちつつも手を放した探偵は、拳銃を握る警官と入れ替わりながら懐に手を伸ばした。
紙巻煙草を取りだすも、咥えたまま雨に濡らす彼の表情は、非常に冷たく色味が薄い。
「……ねえ、カメリア。あれって」
「お客様……いえ、ラルフ・カーペンター。彼が殺人鬼のようです」
押しの強い娘に弱く、緊張しがちで口下手。
頼りなくとも父親であろうとしていた彼が、カメリアに包丁を向けたのは疑いようのない事実。
現実味のない衝撃は痛みがなく、雨音しか聞こえない室内と同じ心境の二人は、探偵と警官の動向を見守るだけ。
そして全員の意識から外れ、一人だけで部屋の扉から顔を覗かせるシエナは、遠くなった父親をジッと見つめるのだった。




