第9話 公爵が売った軍馬
翌朝の会議で、最初に出た案は鉱山の再開だった。
「危険坑道だけを閉じ、他の坑道は動かすべきです」
補給担当の言葉に、会計官が頷く。
「今月の現金残高では、追加の食糧と薬草、塩を買えば軍給が払えません。軍給を優先すれば、村への物資が不足します」
机の上には二つの数字が並んでいた。
領民の冬を支える金。
国境を守る兵士へ払う金。
どちらも削れない。
リーゼロッテは帳簿を見たまま答えた。
「監査中の鉱山を、資金が必要だからという理由で動かせば、昨日封印した帳簿も在庫も意味を失います」
「では兵士に無給で働けと?」
重臣の一人が言う。
「そうは言っていません」
「現実には二つに一つです」
確かに、今ある公金だけを見ればそうだった。
だからこそ皆が鉱山再開を口にする。
リーゼロッテは反論を探した。
しかし数字は変わらない。
危険な坑道から子供を出した判断を撤回したくない。
それでも、兵士の生活を犠牲にして正しさを守ったと言うつもりもなかった。
沈黙の中、レオンハルトが会計官へ筆記板を向けた。
『公爵家の私有財産目録を』
会計官が顔を上げる。
「領地財産ではなく、閣下個人の、ですか」
『そうだ』
別の台帳が運ばれてきた。
レオンハルトは頁をめくり、いくつかの項目を指す。
軍馬一頭。
王都邸に保管している絵画と銀器。
王家から授与された勲章のうち、売却制限のない記念章。
会計官の顔色が変わった。
「お待ちください」
『売る』
「軍馬まで?」
『今は国境へ出る予定がない』
「ですが、あれは閣下が長年――」
『売る』
短い文字だった。
補給担当が言葉を失う。
リーゼロッテはようやく意味を理解した。
「私有財産の売却代金を軍給へ回すのですか」
レオンハルトが頷く。
「それなら領地会計の現金を食糧と薬草と塩へ残せる」
『一か月分は足りる』
会計官が急いで計算を始めた。
軍馬の評価額。
王都邸の美術品。
銀器。
記念章。
すべてを保守的な価格で見積もっても、確かに一か月分の軍給を超える。
「閣下」
オスカーが低い声で呼んだ。
「そこまでなさる必要は」
レオンハルトが彼を見る。
『必要がある』
「鉱山を一部再開すれば――」
『監査を命じたのは私だ』
次の一行。
『その結果で金が足りないなら、先に私が払う』
リーゼロッテは息を止めた。
鉱山を止めたのは、自分の提案だった。
レオンハルトはそれを認めた。
そして今、その判断を守るために自分の財産を売ろうとしている。
「私の判断でもあります」
リーゼロッテは言った。
『知っている』
「でしたら、私の信託財産からも――」
レオンハルトは首を横に振った。
『それは君の財産だ』
「婚姻契約では、私の財産は私のもの。だから使うかどうかも私が決められます」
筆が止まった。
会議室の空気が少し変わる。
リーゼロッテは続けた。
「ただし、全部を埋めるつもりはありません。鉱山監査が終わるまでに必要な額と、私が負担できる範囲を分けて計算します」
レオンハルトはしばらく彼女を見た。
やがて書く。
『まず私が売る』
「頑固ですね」
『君も』
オスカーが小さく息を吐いた。
「お二人とも、会議中です」
その言葉に、会計官が初めて少し笑った。
結局、軍給はレオンハルトの私有財産売却で確保し、領地会計は食糧と薬草、塩の購入へ残すことになった。
売却はその日のうちに始まった。
最初に厩舎から軍馬が引き出された。
北境へ来てから何度か見かけた馬だった。大きな黒鹿毛で、レオンハルトが騎乗すると、合図をほとんど見せなくても歩調を変える。
馬丁が手綱を持ったまま、レオンハルトを見た。
「本当に、よろしいのですか」
レオンハルトは頷いた。
馬は主人が近づくと鼻先を伸ばした。
彼はその額へ手を置き、しばらく撫でる。
筆記板も出さない。
言葉を持たない別れだった。
リーゼロッテは、その場で初めて理解した。
帳簿に書けば「軍馬一頭、売却」。
数字だけなら、それで終わる。
けれどレオンハルトにとっては、長年ともに国境を走った馬なのだ。
「別の方法を探してからでも」
思わず口にすると、彼は首を横に振った。
そして筆記板へ書く。
『兵士にも家族がいる』
それだけだった。
軍馬が連れていかれる。
レオンハルトは最後まで見送ったが、判断を撤回しなかった。
リーゼロッテは、鉱山で子供たちを坑道から出したときのことを思い出した。
正しいと思った判断の代償を、誰か別の人へ押しつけない。
彼はそれを、口ではなく自分の財産で示している。
軍馬は北境の軍馬商へ。
王都邸の品は、現地の管理人へ早馬で処分指示を送る。
勲章は公的な授与記録を確認し、売却可能なものだけを選んだ。
何でも売ればいいわけではない。
私物と領地財産を混同しない。
それも契約と同じだった。
誰のものか。
誰が決められるのか。
境界を曖昧にしない。
午後には、鉱山から監査の追加報告が届いた。
リーゼロッテ、レオンハルト、オスカーは再び会計室へ集まる。
「未報告在庫の数が確定しました」
監査官が帳簿を広げた。
前日に見つけた銀鉱石だけではない。
別倉庫にも、採掘済みで月次報告へ載っていない鉱石があった。
さらに安全設備費として計上された架空支出の分だけ、公爵家へ納めるべき歩合納付金も少なく申告されている。
「これだけあれば、売却して不足分へ回せるのでは」
会計官が言った。
リーゼロッテは首を振った。
「まだ使えません」
「しかし、鉱石は領地の鉱山から出たものです」
「請負契約上、採掘済み在庫が請負人の所有なのか、公爵家への納付対象なのか、違反時に没収できるのかを確定していません」
オスカーが腕を組む。
「請負人が隠した物でも?」
「だからこそです。隠したからといって、こちらまで手続きを飛ばせば、後で同じことをしたと言われます」
レオンハルトが頷いた。
リーゼロッテは申立書を作らせた。
請負権の停止確認。
未報告銀鉱石の保全。
架空経費による未納分の算定。
在庫の帰属判断。
すべて北境契約裁判所支部へ送る。
「判決が出るまで、銀鉱石は封印したままです」
「目の前に金になる物があるのに」
会計官は惜しそうだった。
「目の前にあるからこそ、勝手に使わないんです」
リーゼロッテは封印記録へ署名した。
その夜。
私有財産の売却手続きを確認していた会計官が、一冊の古い台帳を持ってきた。
「夫人。少し気になるものが」
レオンハルトの私有財産売却台帳だった。
今年。
軍馬。
美術品。
記念章。
そして頁を遡る。
十年前。
そこにも、大量の売却記録が並んでいた。
しかも、一日や二日で処分したものではない。
最初の売却から最後まで、およそ二か月。
少額の品から始まり、途中から高価な物へ移っている。
「急に金が必要になって、一度に売ったわけではない……」
リーゼロッテは日付を追った。
何かを進めるたびに足りない金を補うように、何度も現金化している。
売却代金の受領記録には、支払い先へ振り替えた印も残る。
つまり私腹を肥やした形跡ではない。
若い公爵が、自分の財産を削りながら何かを続けていた。
家具。
銀器。
猟具。
先代から受け継いだ装飾品。
若くして公爵位を継いだ直後のレオンハルトが、まとまった額の私財を現金化している。
「十年前にも?」
リーゼロッテは彼を見る。
レオンハルトの表情が固くなった。
「何に使ったのですか」
筆記板へ手が伸びる。
だが、書かない。
これまで何度も見た黒い誓約紋を思い出し、リーゼロッテはすぐに止めた。
「答えなくていいです」
代わりに台帳を読む。
支払先の欄には、複数の工房、運送業者、資材商。
用途欄は一部が簡略化されている。
このままでは何に使ったか分からない。
「当時の行政記録と照合できますか」
オスカーが答えた。
「できます。十年前なら、私が副官になる前ですが、軍と村の登録台帳は残っています」
「お願いします」
しばらくして、彼は三冊の古い台帳を抱えて戻った。
「妙です」
「何が?」
「閣下の私財売却と同じ時期に、北境の全村と全部隊で辺境忠誠誓約の登録更新が行われています」
リーゼロッテは一冊を開いた。
村名。
村長名。
住民の同意記録。
忠誠誓約。
その末尾に、後から追記された登録欄がある。
『国境保全誓約連結番号』
数字と文字の組み合わせ。
別の村の台帳を開く。
同じ番号。
軍部隊の台帳も。
同じ。
「全部?」
「確認できる範囲では」
オスカーがさらに台帳を重ねる。
「北境全域です」
リーゼロッテは三冊を横一列に並べた。
村の忠誠誓約と軍部隊の忠誠誓約では、契約主体も署名者も違う。登録した日も完全には同じではない。
それなのに、追記欄だけは同じ番号だった。
「偶然、同じ番号になることは?」
「登録番号ならありません」
オスカーが答える。
「一つの国境保全誓約へ複数の忠誠誓約を連結する場合なら、同じ番号を記すことはあります」
「つまり、この番号の先に一つの契約がある」
「そのはずです」
では、その一つとは何か。
リーゼロッテの背中を冷たいものが走った。
北境への道中。
レオンハルトが王妃に関わることを書こうとした瞬間、遠く離れた前哨隊の忠誠誓約台帳が熱を帯びた。
あの台帳にも、この番号がある。
「レオンハルト様」
呼びかけるだけにした。
彼は何も書かない。
だが、その沈黙が答えの一部だった。
十年前。
母が死んだ年。
レオンハルトが大量の私財を売った年。
北境全域の忠誠誓約へ、同じ連結番号が追記された年。
そして今、その契約は彼が真実を伝えようとするたびに熱を持つ。
リーゼロッテは番号を別紙へ写した。
「次は、この番号が何と繋がっているのか調べます」
十年前の記録は、初めて一本の線になり始めていた。




