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婚約破棄された誓約鑑定令嬢は、沈黙の辺境公爵と偽りの王国を縫い直す  作者: 乾為天女


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9/21

第9話 公爵が売った軍馬

 翌朝の会議で、最初に出た案は鉱山の再開だった。


 「危険坑道だけを閉じ、他の坑道は動かすべきです」


 補給担当の言葉に、会計官が頷く。


 「今月の現金残高では、追加の食糧と薬草、塩を買えば軍給が払えません。軍給を優先すれば、村への物資が不足します」


 机の上には二つの数字が並んでいた。


 領民の冬を支える金。


 国境を守る兵士へ払う金。


 どちらも削れない。


 リーゼロッテは帳簿を見たまま答えた。


 「監査中の鉱山を、資金が必要だからという理由で動かせば、昨日封印した帳簿も在庫も意味を失います」


 「では兵士に無給で働けと?」


 重臣の一人が言う。


 「そうは言っていません」


 「現実には二つに一つです」


 確かに、今ある公金だけを見ればそうだった。


 だからこそ皆が鉱山再開を口にする。


 リーゼロッテは反論を探した。


 しかし数字は変わらない。


 危険な坑道から子供を出した判断を撤回したくない。


 それでも、兵士の生活を犠牲にして正しさを守ったと言うつもりもなかった。


 沈黙の中、レオンハルトが会計官へ筆記板を向けた。


 『公爵家の私有財産目録を』


 会計官が顔を上げる。


 「領地財産ではなく、閣下個人の、ですか」


 『そうだ』


 別の台帳が運ばれてきた。


 レオンハルトは頁をめくり、いくつかの項目を指す。


 軍馬一頭。


 王都邸に保管している絵画と銀器。


 王家から授与された勲章のうち、売却制限のない記念章。


 会計官の顔色が変わった。


 「お待ちください」


 『売る』


 「軍馬まで?」


 『今は国境へ出る予定がない』


 「ですが、あれは閣下が長年――」


 『売る』


 短い文字だった。


 補給担当が言葉を失う。


 リーゼロッテはようやく意味を理解した。


 「私有財産の売却代金を軍給へ回すのですか」


 レオンハルトが頷く。


 「それなら領地会計の現金を食糧と薬草と塩へ残せる」


 『一か月分は足りる』


 会計官が急いで計算を始めた。


 軍馬の評価額。


 王都邸の美術品。


 銀器。


 記念章。


 すべてを保守的な価格で見積もっても、確かに一か月分の軍給を超える。


 「閣下」


 オスカーが低い声で呼んだ。


 「そこまでなさる必要は」


 レオンハルトが彼を見る。


 『必要がある』


 「鉱山を一部再開すれば――」


 『監査を命じたのは私だ』


 次の一行。


 『その結果で金が足りないなら、先に私が払う』


 リーゼロッテは息を止めた。


 鉱山を止めたのは、自分の提案だった。


 レオンハルトはそれを認めた。


 そして今、その判断を守るために自分の財産を売ろうとしている。


 「私の判断でもあります」


 リーゼロッテは言った。


 『知っている』


 「でしたら、私の信託財産からも――」


 レオンハルトは首を横に振った。


 『それは君の財産だ』


 「婚姻契約では、私の財産は私のもの。だから使うかどうかも私が決められます」


 筆が止まった。


 会議室の空気が少し変わる。


 リーゼロッテは続けた。


 「ただし、全部を埋めるつもりはありません。鉱山監査が終わるまでに必要な額と、私が負担できる範囲を分けて計算します」


 レオンハルトはしばらく彼女を見た。


 やがて書く。


 『まず私が売る』


 「頑固ですね」


 『君も』


 オスカーが小さく息を吐いた。


 「お二人とも、会議中です」


 その言葉に、会計官が初めて少し笑った。


 結局、軍給はレオンハルトの私有財産売却で確保し、領地会計は食糧と薬草、塩の購入へ残すことになった。


 売却はその日のうちに始まった。


 最初に厩舎から軍馬が引き出された。


 北境へ来てから何度か見かけた馬だった。大きな黒鹿毛で、レオンハルトが騎乗すると、合図をほとんど見せなくても歩調を変える。


 馬丁が手綱を持ったまま、レオンハルトを見た。


 「本当に、よろしいのですか」


 レオンハルトは頷いた。


 馬は主人が近づくと鼻先を伸ばした。


 彼はその額へ手を置き、しばらく撫でる。


 筆記板も出さない。


 言葉を持たない別れだった。


 リーゼロッテは、その場で初めて理解した。


 帳簿に書けば「軍馬一頭、売却」。


 数字だけなら、それで終わる。


 けれどレオンハルトにとっては、長年ともに国境を走った馬なのだ。


 「別の方法を探してからでも」


 思わず口にすると、彼は首を横に振った。


 そして筆記板へ書く。


 『兵士にも家族がいる』


 それだけだった。


 軍馬が連れていかれる。


 レオンハルトは最後まで見送ったが、判断を撤回しなかった。


 リーゼロッテは、鉱山で子供たちを坑道から出したときのことを思い出した。


 正しいと思った判断の代償を、誰か別の人へ押しつけない。


 彼はそれを、口ではなく自分の財産で示している。


 軍馬は北境の軍馬商へ。


 王都邸の品は、現地の管理人へ早馬で処分指示を送る。


 勲章は公的な授与記録を確認し、売却可能なものだけを選んだ。


 何でも売ればいいわけではない。


 私物と領地財産を混同しない。


 それも契約と同じだった。


 誰のものか。


 誰が決められるのか。


 境界を曖昧にしない。


 午後には、鉱山から監査の追加報告が届いた。


 リーゼロッテ、レオンハルト、オスカーは再び会計室へ集まる。


 「未報告在庫の数が確定しました」


 監査官が帳簿を広げた。


 前日に見つけた銀鉱石だけではない。


 別倉庫にも、採掘済みで月次報告へ載っていない鉱石があった。


 さらに安全設備費として計上された架空支出の分だけ、公爵家へ納めるべき歩合納付金も少なく申告されている。


 「これだけあれば、売却して不足分へ回せるのでは」


 会計官が言った。


 リーゼロッテは首を振った。


 「まだ使えません」


 「しかし、鉱石は領地の鉱山から出たものです」


 「請負契約上、採掘済み在庫が請負人の所有なのか、公爵家への納付対象なのか、違反時に没収できるのかを確定していません」


 オスカーが腕を組む。


 「請負人が隠した物でも?」


 「だからこそです。隠したからといって、こちらまで手続きを飛ばせば、後で同じことをしたと言われます」


 レオンハルトが頷いた。


 リーゼロッテは申立書を作らせた。


 請負権の停止確認。


 未報告銀鉱石の保全。


 架空経費による未納分の算定。


 在庫の帰属判断。


 すべて北境契約裁判所支部へ送る。


 「判決が出るまで、銀鉱石は封印したままです」


 「目の前に金になる物があるのに」


 会計官は惜しそうだった。


 「目の前にあるからこそ、勝手に使わないんです」


 リーゼロッテは封印記録へ署名した。


 その夜。


 私有財産の売却手続きを確認していた会計官が、一冊の古い台帳を持ってきた。


 「夫人。少し気になるものが」


 レオンハルトの私有財産売却台帳だった。


 今年。


 軍馬。


 美術品。


 記念章。


 そして頁を遡る。


 十年前。


 そこにも、大量の売却記録が並んでいた。


 しかも、一日や二日で処分したものではない。


 最初の売却から最後まで、およそ二か月。


 少額の品から始まり、途中から高価な物へ移っている。


 「急に金が必要になって、一度に売ったわけではない……」


 リーゼロッテは日付を追った。


 何かを進めるたびに足りない金を補うように、何度も現金化している。


 売却代金の受領記録には、支払い先へ振り替えた印も残る。


 つまり私腹を肥やした形跡ではない。


 若い公爵が、自分の財産を削りながら何かを続けていた。


 家具。


 銀器。


 猟具。


 先代から受け継いだ装飾品。


 若くして公爵位を継いだ直後のレオンハルトが、まとまった額の私財を現金化している。


 「十年前にも?」


 リーゼロッテは彼を見る。


 レオンハルトの表情が固くなった。


 「何に使ったのですか」


 筆記板へ手が伸びる。


 だが、書かない。


 これまで何度も見た黒い誓約紋を思い出し、リーゼロッテはすぐに止めた。


 「答えなくていいです」


 代わりに台帳を読む。


 支払先の欄には、複数の工房、運送業者、資材商。


 用途欄は一部が簡略化されている。


 このままでは何に使ったか分からない。


 「当時の行政記録と照合できますか」


 オスカーが答えた。


 「できます。十年前なら、私が副官になる前ですが、軍と村の登録台帳は残っています」


 「お願いします」


 しばらくして、彼は三冊の古い台帳を抱えて戻った。


 「妙です」


 「何が?」


 「閣下の私財売却と同じ時期に、北境の全村と全部隊で辺境忠誠誓約の登録更新が行われています」


 リーゼロッテは一冊を開いた。


 村名。


 村長名。


 住民の同意記録。


 忠誠誓約。


 その末尾に、後から追記された登録欄がある。


 『国境保全誓約連結番号』


 数字と文字の組み合わせ。


 別の村の台帳を開く。


 同じ番号。


 軍部隊の台帳も。


 同じ。


 「全部?」


 「確認できる範囲では」


 オスカーがさらに台帳を重ねる。


 「北境全域です」


 リーゼロッテは三冊を横一列に並べた。


 村の忠誠誓約と軍部隊の忠誠誓約では、契約主体も署名者も違う。登録した日も完全には同じではない。


 それなのに、追記欄だけは同じ番号だった。


 「偶然、同じ番号になることは?」


 「登録番号ならありません」


 オスカーが答える。


 「一つの国境保全誓約へ複数の忠誠誓約を連結する場合なら、同じ番号を記すことはあります」


 「つまり、この番号の先に一つの契約がある」


 「そのはずです」


 では、その一つとは何か。


 リーゼロッテの背中を冷たいものが走った。


 北境への道中。


 レオンハルトが王妃に関わることを書こうとした瞬間、遠く離れた前哨隊の忠誠誓約台帳が熱を帯びた。


 あの台帳にも、この番号がある。


 「レオンハルト様」


 呼びかけるだけにした。


 彼は何も書かない。


 だが、その沈黙が答えの一部だった。


 十年前。


 母が死んだ年。


 レオンハルトが大量の私財を売った年。


 北境全域の忠誠誓約へ、同じ連結番号が追記された年。


 そして今、その契約は彼が真実を伝えようとするたびに熱を持つ。


 リーゼロッテは番号を別紙へ写した。


 「次は、この番号が何と繋がっているのか調べます」


 十年前の記録は、初めて一本の線になり始めていた。


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