第8話 黒い石を掘る子供たち
銀鉱山へ向かう道には、雪より黒いものが積もっていた。
砕けた鉱石の粉だ。
馬車の車輪が通るたび、湿った黒灰色の泥が跳ねる。
「銀なのに、黒いのですね」
窓の外を見ていたミーナが言った。
「精錬する前の鉱石は、全部が銀色に光るわけではないわ」
リーゼロッテは答えた。
城から半日。
谷あいに開かれた北境最大の銀鉱山は、グラーツ公爵領の財産だ。ただし、公爵家が直接坑夫を雇っているわけではない。
採掘、労務管理、鉱石の保管。
それらは民間の鉱山請負人へ任されている。
公爵家は請負料と採掘量に応じた納付金を受け取る。
だから、この鉱山が止まれば北境の収入も止まる。
そのことは、出発前に会計官から何度も念を押された。
それでも来た理由は、ミーナが薬草の在庫を調べている途中で見つけた一枚の診療記録だった。
『鉱山労働者。十二歳。咳、発熱、胸痛』
翌月。
『同じ戸籍の弟、十歳。右手指の裂傷』
さらに別の家族。
七歳。
九歳。
十一歳。
鉱山門の前で馬車を降りた瞬間、リーゼロッテは記録が誤りではなかったと知った。
籠を背負った子供たちが、坑道から出てくる。
一人ではない。
十人以上。
顔も服も黒い粉にまみれている。
大人なら腰を曲げなければ通れない低い選鉱小屋へ、子供たちが鉱石を運んでいた。
「止めて」
リーゼロッテの声に、オスカーが振り返った。
「何をです」
「あの子たちです」
彼も子供たちを見る。
「鉱山では昔から、家族で働く者はいます」
「家業の手伝いと、鉱山労働は同じではありません」
リーゼロッテは一番近くを歩いていた少年へ近づいた。
年齢を尋ねる。
「十一です」
「ここで働き始めたのは?」
「去年」
「お父様かお母様も一緒?」
少年は首を振った。
「父ちゃん、坑道で足を潰したから」
「では、なぜあなたが」
「借金が残ってるから」
答えは、あまりにも当然という口調だった。
請負人が慌てて駆け寄ってくる。
「公爵夫人。子供たちには軽作業しかさせておりません」
「この籠は?」
「選別用の鉱石です」
リーゼロッテが持ち上げようとする。
重い。
片手では持ち上がらない。
「軽作業?」
請負人は口をつぐんだ。
「労働契約を見せてください」
事務所へ移る。
家族ごとの契約書が、棚に何十冊も並んでいた。
少年の父親の契約を探す。
本文は普通だった。
採掘労働。
賃金。
借入金の返済。
事故時の治療費。
だが、最後の頁に小さな文字がある。
『債務者が労務を履行できない場合、同一戸籍に属する家族を労働代替者とみなす』
黒い歪み。
文字の周囲に、煤を水へ落としたような色がまとわりついている。
「強制を含んでいる」
リーゼロッテは呟いた。
請負人の顔が強張る。
「正式な契約です」
「ええ」
リーゼロッテは否定しなかった。
「形式上は成立しています」
オスカーが彼女を見る。
「止められないのですか」
「この黒い歪みだけを理由には」
悔しい。
目の前に、子供が父親の借金の代わりに働かされている。
それでも誓印視は裁判官ではない。
「契約時に選択の自由が乏しかったことは分かります。でも、私が黒く見えると言っただけで全契約を無効にすることはできません」
請負人が、わずかに息をついた。
リーゼロッテはその顔を見た。
「ですから、別のところを確認します」
「別のところ?」
「請負契約です」
今度は公爵家と鉱山請負人の契約を出させる。
採掘量。
納付率。
安全義務。
坑道補強。
排水。
事故防止用品。
そして、月ごとの収量報告。
「安全設備の支出帳も」
請負人の表情が変わった。
「急に言われましても、書類が」
「ありますよね」
オスカーが低く言う。
拒める空気ではなくなった。
帳簿が運ばれてくる。
支柱材。
安全縄。
坑内灯。
排水設備の修繕。
毎月、相当な金額が計上されている。
「現物を見ます」
リーゼロッテたちは再び外へ出た。
危険度が高いとされる第三坑道へ向かう。
入口の支柱は新しい。
だが、中へ進むほど木材は古くなった。
ひび割れた支柱。
切れかけた縄。
水が溜まった足場。
帳簿にある交換済みの坑内灯も数が足りない。
リーゼロッテは、坑道入口に掛けられた事故記録板にも目を向けた。
「直近三か月分を見せてください」
記録係が紙束を持ってくる。
落石による負傷。足場からの転落。滑車縄の断裂。粉塵を吸い込み、勤務途中で倒れた者。死亡事故こそ記されていないが、同じ種類の事故が繰り返されている。
その横には、毎月の安全点検報告。
『支柱交換済み』
『安全縄更新済み』
『排水路補修済み』
事故記録と並べるほど、不自然さが増した。
「全部直したことになっているのに、同じ原因で怪我人が出続けている」
「鉱山では事故を完全には防げません」
請負人が反論する。
「完全に防げないことと、交換したと報告した物が交換されていないことは別です」
リーゼロッテは、さきほど見た裂けかけた縄を思い出した。
「支柱材の購入先は」
「北部木材商です」
「納入数は」
「帳簿に」
「帳簿ではなく、受領した現物の記録を」
また沈黙が落ちた。
オスカーが記録係を見る。
出された受領簿では、支柱材百本を受け取ったことになっている。だが資材置場に残る新品は十二本。第三坑道で交換済みとされた支柱を数えても、差は埋まらない。
「少なくとも、安全費が帳簿どおり現場へ使われたとは言えません」
リーゼロッテは数字を書き留めた。
子供を坑道から出したいという感情だけなら、請負人は『公爵夫人の気まぐれ』と言える。
だから一つずつ、誰が見ても同じ結論へ近づく証拠を積む。
そのとき、坑道の奥から乾いた咳が連続して聞こえた。
さきほどの少年とは別の小さな子が、口元を袖で押さえている。袖口には黒い粉がこびりつき、息を吸うたび肩が上下した。
ミーナが持っていた水筒を渡す。
「医務室は?」
「勤務を終えれば診てもらえます」
「勤務を終えるまで、この状態で働かせるのですか」
請負人は答えなかった。
リーゼロッテは怒鳴りたい衝動を飲み込んだ。今必要なのは、相手を黙らせることではなく、作業を止められる根拠だった。
オスカーが一本の支柱を拳で叩く。
乾いた音がした。
「これを新品として計上したのか」
「交換予定分も先に――」
「帳簿には交換済みとあります」
リーゼロッテは遮った。
さらに資材倉庫を確認する。
帳簿上は購入済みの安全縄がない。
支柱材もない。
あるはずのものがない。
支出だけがある。
「架空計上ですね」
請負人の額に汗が浮いた。
「違います。納入が遅れているだけで」
「では納入証明を」
「それは……」
「ありませんね」
そこで終わりではなかった。
倉庫の奥。
施錠された扉をオスカーが見つける。
「これは何だ」
「資材庫です」
「鍵を」
請負人は動かない。
レオンハルトが筆記板へ書いた。
『開けろ』
鍵が出された。
扉が開く。
中に積まれていたのは安全用品ではなかった。
黒灰色の鉱石。
袋ではない。
木箱へ詰められ、天井近くまで積まれている。
ミーナが息を呑む。
「これ、全部……」
「銀鉱石です」
オスカーの声が低くなる。
リーゼロッテは帳簿を思い出した。
「今月の収量報告には、この在庫はありません」
請負人が何か言いかける。
「売却前の一時保管です」
「それなら一時在庫として報告義務があります」
「精錬前ですから――」
「契約書には『採掘後、地上へ搬出した鉱石を月次収量へ含める』とあります」
逃げ道はなかった。
安全設備費の架空計上。
未報告の鉱石在庫。
請負契約そのものへの違反。
リーゼロッテはようやく、子供たちの契約書から目を離さずに済む方法を見つけた。
「危険坑道を即時停止します」
請負人が青ざめる。
「夫人!」
「それから、児童を含む労働代替者の作業班も停止」
「そんな権限は――」
「公爵家との請負契約、第十八条。安全義務に重大な違反がある場合、領主側は危険作業を即時停止できる」
リーゼロッテは続ける。
「第二十二条。収量報告に重大な欠落がある場合、請負権全体を七日間の緊急監査下へ置くことができる」
「鉱山全体を止めるつもりですか!」
「監査が終わるまでです」
「北境の収入がどうなるか、お分かりなのですか」
分かっている。
だから苦しい。
リーゼロッテはレオンハルトを見た。
「レオンハルト様」
彼は筆記板へ書く。
『実行しろ』
請負人の顔から色が消えた。
オスカーが鉱山兵へ指示する。
「第三坑道封鎖。児童労働班を全員地上へ。帳簿と未報告在庫は公爵家の監査対象として封印する」
子供たちが、何が起きたのか分からない顔で立っている。
十一歳の少年もいた。
「今日は帰っていいのですか」
リーゼロッテは少し迷ってから答えた。
「少なくとも、監査が終わるまではここで働かせません」
「借金は?」
それには、すぐ答えられなかった。
契約が残っている。
借金も消えてはいない。
「そこも調べます」
「本当に?」
「約束できるのは、調べることまでです」
少年は少し考え、それから頷いた。
正しいことを言えば人が安心するわけではない。
リーゼロッテはもう知っている。
子供たちが山道を下りていく。
その背後で、鉱山の鐘が鳴った。
作業停止を知らせる鐘。
北境最大の収入源が止まる音だった。
城へ戻ったのは夜だった。
会計官は報告を聞くなり、額を押さえた。
「七日間……」
「監査が早く終われば短くできます」
「問題は七日だけではありません」
会計官が新しい帳簿を開く。
次回の軍給。
冬の追加食糧購入。
薬草。
塩。
数字が並ぶ。
「鉱山から入る予定だった納付金を除くと、次の軍給と食糧購入を両方払うことはできません」
部屋が静まった。
鉱山を止めれば、子供たちは坑道から出せる。
その代わり、兵士の給金と領民の食事が足りなくなる。
リーゼロッテは帳簿を見つめた。
一つ救えば、別の場所から金が消える。
それでも。
だからといって、子供たちを黒い坑道へ戻す答えだけは選べなかった。




