第7話 勅命ではない命令
命令書は、朝になっても机の上にあった。
白い紙。
摂政印。
『誓印視保持者リーゼロッテ・グラーツを、王都へ速やかに帰還させよ』
何度読んでも、理由は書かれていない。
リーゼロッテは窓を開けた。
冷気が頬を刺す。
城下では、戻ってきた小麦を積んだ馬車が倉庫と村を往復していた。昨日より配給の列は短い。それでも、食糧不足が終わったわけではない。
この状況で王都へ戻れと言われても、素直に従う気にはなれなかった。
だからといって、命令書を破り捨てればいいわけでもない。
それをすれば、オスカーが恐れている「北境の反逆」という形を、自分たちから差し出すことになる。
「拒絶ではなく、確認」
リーゼロッテは呟いた。
机の反対側に座るレオンハルトが顔を上げる。
彼の前には筆記板。
隣にはオスカーと法務官がいる。
「まず、この命令に従わないと決めるのではありません」
リーゼロッテは命令書を指で押さえた。
「摂政に、この命令を出す権限があるのか確認します」
法務官が慎重に答える。
「摂政は国王陛下の長期療養中、日常行政を代行しています。人事、徴税、軍需、各領への行政命令。権限は広い」
「昨日も聞きました。広い、では足りません」
「ですが、王都の現行法令集では、摂政権限の根拠は簡略化されています」
「簡略化?」
法務官は棚から厚い法令集を持ってきた。
摂政制度の頁を開く。
『国王の統治が長期にわたり困難である場合、王国統治誓約に基づき摂政を置く』
リーゼロッテの目が止まった。
「王国統治誓約」
初めて見る名称だった。
「これが、摂政権限の根拠なのですね」
「そう理解されています」
「内容は?」
法務官は次の頁をめくった。
「法令集には全文がありません。王家と四大公爵家、契約裁判所に関係する最高位の登録文書ですから、通常の法令集には要約だけです」
「北境に写しは?」
「現行の認証写しなら、公爵家文書庫にあるはずです」
「持ってきてください」
法務官が席を立つ。
オスカーが腕を組んだ。
「現行写しに『摂政は誓印視保持者を召還できる』と書いてあれば、戻るのですか」
「その条文が正規のものだと確認できれば」
「王妃が待っている王都へ?」
厳しい問いだった。
リーゼロッテは少し考えた。
「怖いですよ」
オスカーが意外そうに眉を上げる。
「王都へ戻れば、また拘束されるかもしれない。今度はレオンハルト様が身柄を引き受けられるとも限らない」
レオンハルトの指が筆記板の縁を強く掴んだ。
「でも、怖いから違法だと決めることもできません」
リーゼロッテは命令書を折らずに置いた。
「正しいかどうかを確かめる。それが私にできることです」
レオンハルトが書く。
『戻すつもりはない』
「まだ決めないでください」
文字を書いた手が止まる。
「あなたが私を守ろうとしてくれていることは分かっています。でも、権限の確認前に拒否すれば、王妃は『北境公爵が正当な摂政命令を妨害した』と言える」
レオンハルトはしばらく無言だった。
やがて、書いた。
『では確認する』
「はい」
それで話は決まった。
ほどなく法務官が文書箱を抱えて戻ってくる。
「これです」
厚手の羊皮紙を束ねた認証写し。
表紙には『王国統治誓約 現行認証写』。
リーゼロッテは手を伸ばし――途中で止めた。
「登録番号は」
「あります」
「契約石の照合記録は」
「王都の契約裁判所本庁にあります。北境支部では閲覧できません」
「この写しだけで、原文と一致していると証明できますか」
法務官は答えに詰まった。
「認証写しですから、通常は一致しているものとして扱います」
「通常は」
リーゼロッテは表紙を見つめた。
誓印視を使う。
銀。
少なくとも、この写しを認証した者は、ここに書かれた内容を真正な認証文書として扱っている。
だが、それは法的原本そのものが正しいことを意味しない。
認証した者が、渡された原文を本物だと思っていれば銀になる。
「……私の目でも、これが元の誓約と同じだとは証明できません」
「夫人にも?」
「ええ」
リーゼロッテは認証写しから手を離した。
「誓印視が読めるのは、目の前の文書に残った署名時の意思と現在の文面です。この写しを認証した人が、渡された文章を本物だと信じて署名したなら銀に見える。けれど、その人へ渡された元の文章自体が十年前に差し替えられていたら、私の目だけでは遡れません」
自分の能力を過信してはいけない。
馬車の車軸交換時の受領証でも、赤い亀裂は入口にすぎなかった。商会控えと工房の出庫帳があったから、第三者にも改竄を示せた。
今回も同じだ。
「私が赤だ、銀だと言っただけで国の根本契約を決められるなら、それは契約制度ではありません。原本と登録記録を確認します」
法務官が、わずかに姿勢を正した。
「承知しました」
オスカーが言う。
「なら、これを読んでも意味がないのでは」
「意味はあります。少なくとも王妃が現在、何を根拠にしているかは分かる」
リーゼロッテは頁を開いた。
摂政は国王に代わり、王国の日常行政を執行する。
各領への命令。
物資供出。
官吏任免。
王家の保護下にある特殊能力保持者への召還命令。
「……ある」
特殊能力保持者。
誓印視と名指しされてはいない。
それでも、王妃が今回の命令を出す根拠にはできる。
「これだけ見れば、帰還命令は権限内です」
オスカーの顔が険しくなる。
だが、リーゼロッテは次の頁へ進んだ。
摂政権限の制限。
そこには、わずかな記述しかない。
『王国の根幹に関わる事項については、別に定める承認を必要とする』
「別に定める」
何を。
誰の承認を。
書いていない。
「法務官。これが全部ですか」
「現行写しでは」
「古い写しは?」
「十年前、王都から書式統一と再認証の命令がありました。各公爵家の旧写しは返却しています」
リーゼロッテは顔を上げた。
「十年前?」
「はい」
胸の奥で、何かが鳴った。
十年前。
母エレオノーラが死んだ年。
レオンハルトが十七歳で公爵位を継いだ年。
グラーツ公爵家の婚姻契約書式に、母の監査署名が残された年。
「返却した古い写しの記録はありますか」
「発送記録なら」
「出してください」
オスカーが口を開く。
「夫人。今は帰還命令への返答が先です」
「分かっています」
リーゼロッテは新しい紙を引き寄せた。
「だから返答します」
羽根ペンへインクを含ませる。
拒否ではない。
服従でもない。
事実確認のための保留。
一文ずつ、余計な挑発を避けて書く。
『摂政殿下より発せられた帰還命令を受領したことを確認いたします』
『本件は、特殊能力保持者への召還権限および王族婚姻後の身柄に関わるため、王国統治誓約に基づく摂政権限の範囲を確認する必要があります』
『契約裁判所本庁に登録された王国統治誓約および関連承認記録の照会が完了するまで、命令の執行を保留いたします』
『照会終了後、速やかに正式回答いたします』
最後まで書き、法務官へ渡す。
「どうです」
法務官は二度読んだ。
「拒否とは書いていません」
「はい」
「命令が無効とも断定していない」
「はい」
「照会の必要性を理由に執行保留を求めている」
「それなら、反逆ですか」
法務官は少しだけ口元を緩めた。
「少なくとも、この文面だけで反逆罪を構成するのは無理があります」
オスカーが息を吐く。
「王都は不愉快でしょうが」
「不愉快で済むなら安いものです」
リーゼロッテは領主印ではなく、自分の署名を入れた。
これは北境公爵の命令ではない。
帰還を命じられた本人からの照会回答だ。
レオンハルトが筆記板へ書く。
『護衛名義で副署する』
「必要ですか」
『身柄引受人として、照会中の所在を保証する』
法務官が頷く。
「それなら、夫人が逃亡しているという扱いも避けられます」
レオンハルトの副署が加わった。
封をして、契約裁判所本庁と摂政府の双方へ同じ文面を送る。
早馬が城門を出たのは昼前だった。
同じ文面を二通作り、一通は摂政府へ、一通は契約裁判所本庁へ送った。途中で片方が失われても、もう片方に受領記録が残るよう、別々の伝令へ持たせる。
リーゼロッテは窓から、二騎が時間をずらして城門を出ていくのを見送った。
王都にいたころなら、一通の正式文書を出せば十分だと思っていただろう。
今は違う。
正しい文章を書くだけでは足りない。届いたこと、受け取ったこと、後から消されていないことまで残さなければ、事実は簡単に形を変える。
返答が来るには日数がかかる。
その間に、北境でできることは山ほどある。
「お嬢様」
ミーナが入ってきた。
「郵便係の方が、これを」
小さな封筒だった。
王宮のものではない。
差出人の名もない。
宛名だけが、リーゼロッテの旧姓で書かれている。
『リーゼロッテ・エーヴァルト様』
誰が、自分をその名で。
封を切る。
中には、小さな紙が一枚。
たった二行だった。
『王国統治誓約の条文を確認してください。』
『十年前、あなたの母君も、同じ条文を確認しようとしました。』
署名。
『ノエル』
リーゼロッテの呼吸が止まった。
「ノエル……司祭?」
王立聖堂の契約文書管理官。
母が生きていたころ、王国契約石の祭礼で何度か顔を見たことがある。
どうして彼が。
どうして今。
リーゼロッテは紙を裏返した。
何もない。
もう一度、二行を読む。
同じ条文。
十年前。
母。
机の上には、現行の王国統治誓約認証写し。
そこには「王国の根幹に関わる事項については、別に定める承認を必要とする」とだけ書かれている。
母は、この曖昧な一文の向こうに何を見つけたのか。
そして、その直後に死んだ。
リーゼロッテは手紙を握り潰しそうになり、指を止めた。
証拠になるかもしれないものを、感情で傷つけてはいけない。
紙を丁寧に机へ戻す。
王妃からの帰還命令は、もう一枚の命令書ではなかった。
十年前に母が開こうとした扉が、同じ場所に残っている。
リーゼロッテは王国統治誓約の表紙へ手を置いた。
「お母様」
答えはない。
それでも、初めて母の死へ続く道の名前を知った。
王国統治誓約。
そこから調べる。




