第6話 初めて温かい食卓
領主印は、会議卓の中央に置かれていた。
黒い木箱。
銀の留め金。
それだけなら、どこにでもある書類箱に見える。
だが、蓋の上にはグラーツ公爵家の紋章が刻まれていた。
北境の行政命令、軍への指示、主要契約、領地財産の処分。
その印が押された瞬間、文書はレオンハルト個人の意見ではなく、北境公爵家の公式判断になる。
「反対です」
最初に口を開いたのはオスカーだった。
夜はすでに深い。
それでも家臣会議室には、会計官、法務官、倉庫責任者、軍の補給担当、それに城下代表まで集められていた。
明朝の穀物輸送を止めるなら、今夜中に決めなければならない。
「夫人が数字を正しく読んだことは認めます」
オスカーの目がリーゼロッテへ向く。
「だが、それと領主印を預けることは別問題です」
「私も、預けてほしいとは言っていません」
リーゼロッテは答えた。
「緊急停止申請に必要だと聞いただけです」
「申請書は法務官が作ればいい。印を押すのは閣下ご自身であるべきです」
もっともだった。
リーゼロッテもそう思う。
レオンハルトは会議卓の端に座り、筆記板へ何かを書いた。
『申請理由は』
法務官が資料を見る。
「第一に、北境の越冬用備蓄が供出対象へ含められた結果、領民の最低生活量を下回ること。第二に、明朝の追加輸送を行えば、配給停止が三日以内ではなく二日以内へ早まること」
レオンハルトは次にリーゼロッテを見る。
『足りない』
「はい」
オスカーが眉をひそめた。
リーゼロッテは供出契約を開いた。
「不足そのものを理由に停止を申請するだけでは、王都側は『非常時だから全領が負担する』と返せます」
「では何を探すのです」
法務官が尋ねる。
「この供出契約が、何を根拠に数量を決めたのかです」
契約本文には、供出量の算定方法が書かれている。
摂政府が直接、各倉庫の在庫を調べたわけではない。
指定商会の納入記録を基礎に算定するとある。
「北境が秋に小麦を買った契約を見せてください」
会計官が別の綴りを持ってくる。
王都と北境の中間に倉庫を持つ、大手穀物商会との年間契約。
そこには、はっきり書かれていた。
『冬季納入分について、契約数量の全量をグラーツ公爵領指定倉庫へ納入する』
リーゼロッテは指で条項を追う。
「全量」
「はい」
会計官が答える。
「それで毎年買っています」
「供出量の算定に使われた商会記録は?」
別の紙が出される。
摂政府へ提出された納入予定証明。
同じ商会。
同じ契約年度。
だが、添付されている補足契約には別の文言があった。
『王都非常時には、王都指定倉庫への納入を優先する』
リーゼロッテは黙って二枚を並べた。
オスカーが身を乗り出す。
「何だ、これは」
「同じ小麦について、二つの約束をしています」
法務官が書類を取った。
「北境へ全量納入する契約と、王都を優先する補足契約……」
「時期は?」
「北境との年間契約が先です。補足契約は三か月後」
「商会は後から、すでに北境へ売ると約束した小麦を王都へ優先できる契約を結んだ」
会計官の顔が赤くなる。
「そんなものが通るのか」
「通りません。少なくとも、そのままでは」
リーゼロッテは二つの契約を見た。
どちらも真正。
銀色。
改竄された形跡はない。
だからこそ問題だった。
「偽造ではありません。商会は本当に両方へ署名しています」
「それなら余計に悪質だ」
オスカーが吐き捨てる。
「ええ。でも、怒るだけでは馬車は戻りません」
リーゼロッテは法務官へ向き直った。
「契約裁判所の暫定停止規定。履行不能な二重契約について、先に成立した契約の権利を保全するため、後発契約の履行を一時停止できますね」
法務官が一瞬、目を見開く。
すぐに棚から法令集を引き抜いた。
「……あります」
頁をめくる。
「同一物について互いに両立しない履行義務が発生した場合。先行契約の当事者は、権利保全のため緊急の暫定停止を申し立てることができる」
「北境の契約が先です」
「ただし」
法務官の指が止まる。
「申立人は、その契約の当事者本人か、正式な代理権を持つ者でなければならない」
室内の視線が、また黒い木箱へ集まった。
領主印。
リーゼロッテは息を吐いた。
「でしたら、レオンハルト様が申請書に押印すれば――」
レオンハルトが首を横に振った。
筆記板へ書く。
『私が押せば、私の判断になる』
「領主なのですから、当然では?」
『王都は私を監視している』
次の一行。
『北境公爵が摂政府の契約へ直接異議を申し立てた、と処理される』
オスカーが口を挟む。
「今まで閣下が供出に従ってきた理由の一つです。王都側に、北境公爵が摂政府へ反抗したという形を与えないためでもある」
「でも、誰かが申請しなければ」
リーゼロッテが言う。
レオンハルトは黒い木箱を自分の前へ引き寄せた。
留め金を外す。
中には、重い銀製の印章があった。
狼と山を組み合わせたグラーツ家の紋章。
彼はそれを取り出し――。
リーゼロッテの前へ置いた。
「閣下」
オスカーが立ち上がった。
「お考え直しください」
レオンハルトは彼を見る。
「夫人は昨日まで王都にいた方です。暗殺者が夫人を狙ったことと、夫人が王都側ではないことは同義ではありません」
「オスカー」
会計官が止めようとする。
「言わせてください。領主印を渡すということは、この方が閣下の名で北境の契約を動かせるということです」
リーゼロッテは何も言わなかった。
その疑いは当然だ。
むしろ、家臣として疑わないほうが問題だと思う。
オスカーは続ける。
「もし間違えば、北境全体が代償を払う」
レオンハルトの筆が動いた。
『だから渡す』
「……どういう意味です」
『間違えば、私が責任を取る』
短い文。
『彼女が数字を出した』
『契約を見つけた』
『法を使う道を見つけた』
最後に。
『領主が責任を取らずに、誰が取る』
オスカーの口が閉じた。
リーゼロッテも、しばらく何も言えなかった。
領主印を渡す。
それは、レオンハルトが責任を手放すことではない。
逆だった。
彼女に仕事をさせ、その結果の責任は自分が負うと言っている。
「……預かります」
リーゼロッテは印章へ手を伸ばした。
冷たい。
思ったより重い。
「ただし、申請書は全員で確認してください。私一人の判断で押しません」
オスカーが彼女を見る。
「私も?」
「最も反対している人に見てもらったほうが安全でしょう」
数秒。
オスカーは椅子へ座り直した。
「分かりました」
そこから、会議室は戦場のようになった。
法務官が申請書を起草する。
会計官が先行契約の日付と支払記録をまとめる。
倉庫責任者が現時点の在庫証明を作る。
補給担当が、明朝出発予定の馬車番号を一覧にする。
リーゼロッテは二重契約の矛盾箇所を一つずつ書き出した。
北境への全量納入。
王都への優先納入。
同じ数量。
同じ収穫期。
同じ商会。
両方を完全に履行することはできない。
夜半を過ぎたころ、申請書が完成した。
法務官が読み上げる。
「グラーツ公爵領は、先行する年間穀物納入契約に基づく権利保全を求め、後発の王都優先納入補足契約、および当該補足契約を数量算定の基礎とした非常時供出のうち、係争数量部分について暫定停止を申し立てる」
リーゼロッテは頷いた。
「これなら、摂政府そのものへ反逆すると言っているのではありません」
「二重契約の整理を求めているだけだ」
オスカーが言う。
「はい」
「抜け道ですね」
「法律です」
オスカーの口元が、ごくわずかに動いた。
笑ったのかもしれない。
最後に領主印を押す。
リーゼロッテは印章を持ち上げた。
一度、レオンハルトを見る。
彼は頷く。
蝋の上へ押し込む。
銀の印章を離すと、グラーツ公爵家の紋章が鮮明に残った。
申請書は夜間伝令で、北境契約裁判所支部へ送られた。
返答が来たのは、夜明け直前だった。
扉が勢いよく開く。
「暫定決定です!」
雪を肩へ積もらせた伝令が、封書を差し出した。
法務官が封を切る。
全員が立ち上がる。
「係争数量について、後発契約および非常時供出の履行を停止。裁判所による本審理まで、先行契約上の納入先を保全する」
会計官が椅子へ崩れるように座った。
「止まった……」
「いいえ」
リーゼロッテは立ち上がった。
「馬車はもう積み込みを始めています」
城外の輸送場へ走る。
空はまだ暗い。
松明の下で、荷馬車が列を作っていた。
小麦袋が積まれ、御者たちが出発を待っている。
オスカーが声を張る。
「輸送停止! 契約裁判所の暫定決定だ!」
ざわめきが広がった。
先頭の御者が困惑する。
「でも、王都へ行けと言われています」
リーゼロッテは決定書を見せた。
「今は、北境へ戻すよう命じられています」
「どこへ?」
「まず城下の倉庫へ。そこから村別配給台帳どおりに再配分します」
御者はレオンハルトを見る。
レオンハルトが筆記板へ書く。
『従え』
馬車が、一台ずつ向きを変え始める。
王都へ向いていた車輪が、北境の倉庫へ戻る。
小さなことに見える。
けれど、その一台に積まれている小麦だけで、何百人分ものパンになる。
倉庫前へ戻るころには、空が白み始めていた。
昨日まで空いていた棚へ、麻袋が運び込まれていく。
一袋。
二袋。
三袋。
扉の外には、配給を待つ人々が集まり始めていた。
昨日と同じ女。
同じ老人。
同じ子供。
まだ誰もリーゼロッテへ笑いかけない。
当然だ。
一度、小麦を戻しただけだ。
明日の食事まで保証したわけではない。
リーゼロッテは手の中の領主印を見る。
重い。
今は、その意味が昨日より分かる。
レオンハルトへ返そうと差し出した。
だが彼は受け取らなかった。
「……まだ持っていろ、と?」
筆記板に文字が現れる。
『裁判が終わるまで』
「信用しすぎではありませんか」
少し考えてから、彼は書いた。
『では、間違えないでくれ』
リーゼロッテは思わず息を漏らした。
「簡単に言いますね」
彼の口元が、ほんのわずかに緩んだ。
その背後で、小麦袋がまた一つ、空だった棚へ積まれた。




