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婚約破棄された誓約鑑定令嬢は、沈黙の辺境公爵と偽りの王国を縫い直す  作者: 乾為天女


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10/21

第10話 凍った礼拝堂の指輪

 十年前の売却台帳は、翌朝から別の顔を見せ始めた。


 家具。銀器。猟具。


 売った品目だけを眺めていたときには見えなかったものが、支払先を並べ替えると浮かび上がる。


 「同じ工房へ、四回」


 リーゼロッテは紙へ印をつけた。


 石工。

 木工。

 屋根板を扱う資材商。

 荷運びを請け負う運送業者。


 それぞれ別の名だが、用途欄には共通する言葉があった。


 『北部旧礼拝所修繕』


 「礼拝所?」


 オスカーが台帳を覗き込む。


 「心当たりはありますか」


 「北境には古い礼拝堂がいくつもあります。ただ、これだけの額を使うなら、小さな村の祈祷所ではない」


 さらに支払先の所在地を照合する。


 四件とも、城から北西へ半日の同じ街道沿いだった。


 最後の運送記録には、目的地まで残っている。


 『旧セント・アルマ礼拝堂』


 オスカーの表情が変わった。


 「知っているのですね」


 「今は使われていません。雪崩で参道が崩れてから、冬季の礼拝は麓の教会へ移されました」


 「十年前は?」


 「すでに廃止寸前だったはずです」


 使われなくなる礼拝堂へ、十七歳の公爵が自分の財産を売ってまで修繕費を払った。


 普通ではない。


 リーゼロッテはレオンハルトを見る。


 彼は何も書かない。


 聞けば、また黒い誓約紋が出るかもしれない。


 「行きましょう」


 その日のうちに、三人は礼拝堂へ向かった。


 ミーナも同行した。


 雪は深く、途中から馬車を捨てて徒歩になった。


 針葉樹の間を抜けると、白い斜面の上に小さな石造りの建物が現れる。


 屋根は半分まで雪に埋まり、鐘楼の鐘もない。


 ただ、完全な廃墟ではなかった。


 「壁がきれいすぎます」


 リーゼロッテは手袋越しに外壁へ触れた。


 周囲の石は古い。


 だが南側の一面だけ、目地が明らかに新しい。


 十年前の修繕記録と一致する。


 扉は凍りついていた。


 オスカーとレオンハルトが氷を砕き、ようやく開く。


 中へ入ると、冷気が外より重かった。


 祭壇。

 割れた長椅子。

 色の抜けた聖人画。


 人の気配はない。


 「何を直したのでしょう」


 ミーナが呟く。


 屋根なら、もっと傷んでいる。


 床板なら。


 リーゼロッテは足元を見た。


 祭壇の前だけ、板の幅が違う。


 「ここです」


 オスカーが膝をつき、板の端へ刃を入れる。


 一枚。

 二枚。


 外すと、下から石の蓋が現れた。


 レオンハルトの顔が強張る。


 知っている。


 そう見えた。


 しかし彼は手を出さなかった。


 リーゼロッテはすぐには蓋を開けず、持参した十年前の支払控えを広げた。


 「石工への四回目の支払い。『祭壇前床下、防湿石箱の設置』」


 用途欄にはそこまで書かれていた。


 昨夜、会計官と文字を読み直したときには、古い礼拝堂の修繕だから湿気対策だろうと思った。


 だが礼拝堂全体は荒れたままだ。


 防湿まで施されたのは、この場所だけ。


 「礼拝堂を直したかったのではなく、ここに何かを置くために直した」


 オスカーが頷く。


 「支払記録とも一致します」


 木工への代金は床板。石工への代金は床下の箱。運送業者には、王都方面から届いた小型荷物を人目の少ない夜間に運んだ記録があった。


 誰が何を運んだかは書かれていない。


 それでも、十年前の金の流れと目の前の修繕箇所は一致している。


 リーゼロッテはそれを別紙へ記録した。


 「箱の中身だけを見つけても、後で『誰かが最近隠した』と言われるかもしれません。この床が十年前に作られたことも残しておきます」


 オスカーが少し驚いた顔をした。


 「今ここで?」


 「今だからです。開けた後では、私たち自身が床を動かしたことになる」


 ミーナが修繕箇所を簡単な図に写し、オスカーが立会人として署名する。レオンハルトも、内容が母の秘密そのものへ触れない範囲で立会確認の署名を加えた。


 証拠は、見つけるだけでは足りない。


 見つけた時点の状態を残す。


 馬車の車軸交換時に改竄された受領証から、リーゼロッテはそれを学んでいた。


 記録を終えてから、リーゼロッテ自身が蓋へ指をかける。


 石は重かった。


 四人でずらす。


 浅い空間の中に、油布で幾重にも包まれた箱があった。


 箱を開く。


 最初に見えたのは、小さな指輪だった。


 銀の台座に青い石。


 リーゼロッテの指が止まる。


 「……お母様」


 忘れるはずがなかった。


 母エレオノーラが、仕事のときだけ身につけていた指輪。


 王国契約石の照合官として正装するとき、右手に嵌めていた。


 九歳の自分が一度だけ、貸してほしいとねだったことがある。


 『大人になって、自分で守れるものが増えたらね』


 母は笑ってそう言った。


 その指輪が、雪に閉ざされた北境の礼拝堂の床下にある。


 九歳だった自分は、母が事故で死んだと聞かされた。


 雪道で馬車が滑った。

 運が悪かった。

 誰にも防げなかった。


 そう説明され、父も否定しなかった。まだ幼かったリーゼロッテは、悲しむ以外に何もできなかった。


 けれど今、その「事故」の前に母が王国統治誓約を調べ、北境へ来て、礼拝堂の床下へ自分の指輪まで残していたことを知った。


 十年前の死が、初めて過去ではなく調べるべき事実へ変わる。


 喉が詰まった。


 泣けば文字が見えなくなる。


 リーゼロッテは一度だけ目を閉じ、息を整えた。


 「続けます」


 箱の中には、折り畳まれた羊皮紙と小さな革表紙の手帳があった。


 羊皮紙を広げる。


 完全な文書ではない。


 王国統治誓約の一部を写したものだった。


 冒頭と登録番号は欠けている。


 だが中央部分は読める。


 『摂政は、王位継承、王族の婚姻、領土割譲、四大公爵家の処罰を単独で決定してはならない』


 リーゼロッテは息を呑んだ。


 北境城で確認した現行認証写しには、こんな具体的な制限はなかった。


 そこにはただ、


 『王国の根幹に関わる事項については、別に定める承認を必要とする』


 としか書かれていない。


 「内容が違う」


 オスカーが低く言った。


 「ええ。でも、これだけでは証明になりません」


 写しには母の筆跡がある。


 リーゼロッテには分かる。


 だが、第三者にとっては私的な写しだ。


 王国契約石の照合紋もない。


 法的原本ではない。


 「手掛かりです。証拠は別に必要です」


 自分へ言い聞かせるように答え、手帳を開いた。


 最初の数頁は日付と短い記録。


 王都。

 契約裁判所。

 王国契約石。


 途中から文字が細かくなる。


 『原本がなければ、誓印視は証拠にならない。私の目が真実を示しても、国を動かすには誰の目にも確認できる原本が要る』


 リーゼロッテの指が止まった。


 摂政命令の執行を保留したときに自分が考えたことと、ほとんど同じだった。


 母も、能力だけでは足りないと知っていた。


 頁をめくる。


 『旧認証写しは書式統一を名目に回収された。新認証写しだけが残れば、偽造前の条文を公に証明できなくなる。原本を失ってはならない』


 「やはり、十年前の回収には目的があった」


 次の頁。


 『北の人が守ってくれた』


 それだけ。


 名前はない。


 だがリーゼロッテはレオンハルトを見た。


 十年前、十七歳。


 母と同じ時期にこの礼拝堂へ金を使った青年。


 レオンハルトは視線を逸らさなかった。


 何も言えない。


 何も書けない。


 それでも、今は分かる。


 「あなたがお母様を助けていたのですね」


 黒い誓約紋は出なかった。


 リーゼロッテ自身が証拠から導いた言葉だからだ。


 レオンハルトは、ごく小さく頷いた。


 胸の奥が熱くなった。


 感謝だけではない。


 十年間、彼が何を背負っていたのか、その輪郭が初めて見えた。


 さらに頁をめくる。


 そこに、売却台帳を調べた際に写したものとよく似た番号があった。


 『辺境忠誠誓約の連結番号は、本来の国境保全誓約と一致しない』


 「……違う番号?」


 オスカーが覗き込む。


 手帳には続きがある。


 『別の契約を国境保全誓約として登録し、忠誠誓約へ連結した可能性がある』


 リーゼロッテは北境への道中で馬車を狙われたときのことを思い出した。


 レオンハルトが核心へ触れようとした瞬間に熱を帯びた台帳。


 母の記録が正しければ、あれは本来結ばれるべき契約ではない。


 次の一文を読む。


 『各契約主体が忠誠を返せば鎖は切れる』


 「解除できる……?」


 希望が浮かび、すぐに次の記述で重くなる。


 『村と部隊はそれぞれ独立した契約主体。構成員の同意記録を集め、現職署名者が解除申請を出す必要がある。北境全域で行わなければ連帯責任の対象は残る』


 オスカーが息を吐いた。


 「数十件あります」


 「今すぐは無理ですね」


 村ごと。

 部隊ごと。


 構成員の同意。


 現職の村長、部隊長。


 しかも解除申請を届ける先は王都の契約裁判所だ。


 王妃に悟られれば妨害される可能性もある。


 「でも、方法はある」


 リーゼロッテは手帳を閉じなかった。


 残りの頁にも重要な記述があった。


 『国王が統治不能のまま摂政権を失った場合、四大公爵家と契約裁判所が暫定行政を担う』


 『摂政権停止中、王都守備隊の統治上の指揮は契約裁判所の執行命令へ一時移る』


 現行認証写しでは見た覚えのない内容。


 もし本物なら、王妃の権限を止めても国そのものが止まるわけではない。


 リーゼロッテは一つずつ別紙へ写した。


 原本が必要。


 忠誠誓約には解除方法がある。


 摂政を止めた後の行政手順も存在する。


 十年前、母はそこまで調べていた。


 そして、死んだ。


 礼拝堂の外で風が鳴る。


 リーゼロッテは母の指輪を掌へ載せた。


 冷たい。


 けれど、ただの遺品ではなかった。


 母がここまで辿り着いた証だった。


 「原本は、この箱にはありません」


 ミーナが小さく言った。


 「ええ」


 リーゼロッテは頷く。


 「お母様は、原本を失ってはならないと書いている。なら、どこかへ移したはずです」


 レオンハルトを見る。


 彼は答えられない。


 無理に答えさせる必要もない。


 「今は聞きません」


 リーゼロッテは指輪を握った。


 「自分で辿ります」


 十年前の雪の中を、母が残した文字だけを頼りに。


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