第11話 王太子からの復縁状
王太子からの手紙は、廃礼拝堂から戻った翌朝に届いた。
封蝋には、見慣れた王太子の紋章。
リーゼロッテは執務机の前で、しばらく封を切らなかった。
かつてなら、その印を見ただけで背筋を正していた。
将来の夫。
仕えるべき王太子。
そう教えられてきた相手から届く手紙だったからだ。
今は違う。
隣の机では、ミーナが鉱山監査の書類を分類している。窓の外では、城下へ塩を運ぶ荷車が雪道を進んでいた。
自分には、今日やるべき仕事がある。
そのことを確かめてから、リーゼロッテは封を切った。
『リーゼロッテへ』
書き出しだけは昔と同じだった。
『王都を離れてからのことは聞いている。北境の穀物問題を解決し、鉱山にまで手を入れたそうだな。君らしいと思う』
指が止まる。
褒められている。
だが、なぜか胸は動かなかった。
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『母上も、君の能力を失うことが王国にとって損失であると理解し始めている』
『今からでも遅くはない』
『王都へ戻れば、夜会での婚約破棄は撤回できる。君にかけられた反逆の嫌疑も、誤解によるものとして処理する』
ミーナが紙を持つ手を止めた。
「何と?」
「婚約破棄を撤回するそうよ」
「……今さら?」
あまりにも率直な声で、リーゼロッテは少し笑いそうになった。
「反逆容疑も消してくださるそう」
「消す、って。最初からお嬢様は何もしていません」
「ええ」
その一言で、手紙の違和感が形になった。
許す。
戻してやる。
罪を消してやる。
まるで、間違えたのがリーゼロッテであるかのようだ。
さらに下には条件が続いていた。
『ただし、エレオノーラ夫人の死について、これ以上の私的調査を行わないこと』
『王国統治誓約および摂政権限に関する照会を取り下げること』
『北境公爵家が保有する関連資料を王都へ提出すること』
リーゼロッテはそこで手紙を机へ置いた。
「復縁状ではありませんね」
ミーナが言う。
「取引ね」
「王太子殿下は、お嬢様が何を見つけたかご存じなのでしょうか」
「全部は知らないと思う」
知っていたなら、もっと直接的に資料を渡せと命じるだろう。
おそらく王都には、リーゼロッテが王国統治誓約を調べていることと、北境で十年前の記録を探していることまで伝わっている。
母の指輪。
一部写し。
手帳。
そこまでは知られていない。
だから今の手紙は、帰還させて調査を止めるためのものだ。
「殿下は、本当に婚約を戻したいのでしょうか」
ミーナが尋ねた。
リーゼロッテは答えず、もう一度最初から読んだ。
以前なら、ユリウスの言葉の奥にある気持ちを探していただろう。
不器用なのかもしれない。
母親である王妃に逆らえないのかもしれない。
本当は自分を心配しているのかもしれない。
そうやって相手に都合のよい理由を、自分で補っていた。
今は文字だけを見る。
婚約破棄を撤回する。
反逆容疑を消す。
その代わりに、母の死を調べるな。
摂政権限を確認するな。
資料を渡せ。
十分だった。
リーゼロッテは、夜会で婚約を破棄された瞬間を思い出した。
あのときユリウスは、彼女が何を言うかを待たなかった。
婚約解消証書の原本照合を求めても、王妃の隣に立ったままだった。
今の手紙にも同じものがある。
リーゼロッテが何を知りたいのか。
母がなぜ死んだのか。
北境で何を見たのか。
それを尋ねる言葉は一つもない。
必要なのは、彼女自身ではない。
誓印視と、公爵令嬢だったころの立場と、王太子の判断を正しいことにしてくれる存在。
そう考えると、胸の奥に残っていた曖昧な痛みが、ようやく輪郭を持った。
「返事を書きます」
紙を新しく出す。
長く書く必要はない。
『ユリウス殿下』
『お申し出は辞退いたします』
一度、筆を止める。
レオンハルトとの婚姻があるから断るのではない。
それでは、相手を王太子から北境公爵へ替えただけになる。
リーゼロッテは続きを書いた。
『私は現在の婚姻が存在しなかったとしても、殿下との婚約へ戻る意思はありません』
『母の死に関する調査と、王国統治誓約の照会も取り下げません』
『反逆の嫌疑については、事実と証拠に基づく正式な手続きによって判断されることを望みます』
最後に署名する。
リーゼロッテ・グラーツ。
旧姓ではない。
けれど、誰かの妻だから書いたのでもなかった。
今、自分が選んでいる立場の名だった。
「これで送って」
「はい」
ミーナが封を準備し始めた、そのとき。
廊下から急ぎ足が聞こえた。
会計官と法務官が、そろって入ってくる。
「公爵夫人。契約裁判所支部から暫定決定です」
差し出された文書を、リーゼロッテはすぐに開いた。
銀鉱山。
旧請負人による安全義務違反。
未報告在庫。
架空経費。
歩合納付金の未納。
一つずつ認定されている。
最後の頁を読む。
「未報告鉱石は、公爵領の保全財産として処分可能……」
会計官が大きく息を吐いた。
「これで売れます」
「公開入札にします」
「旧請負人と取引していた商人へ、そのまま売るのでは?」
「しません」
リーゼロッテは即答した。
「誰か一社へ安く渡せば、次は公爵家と商人が結託したと言われます。商人組合へ数量と品質を公開して、同じ条件で入札してもらいます」
レオンハルトも呼ばれ、その日の午後には臨時の売却手続きが始まった。
銀鉱石の箱は一つずつ封印番号を確認され、重量を測られた。
商人組合から来た複数の買い手が、同じ場所で品質を確認する。
最高値だけでなく、支払期限と運搬条件も比較する。
落札が決まるころには、会計官の表情が朝とは別人のようになっていた。
「これなら、鉱山労働者の滞納賃金を払えます」
「最初にそこへ」
リーゼロッテは配分表を作る。
第一。
滞納賃金。
第二。
支柱、縄、坑内灯、排水設備。
第三。
不足している食糧と薬草。
銀を売ったからといって、全部を自由に使えるわけではない。
止めた鉱山を安全に戻すための金を先に確保する。
「採掘そのものはどうします」
オスカーが尋ねた。
「請負人をすぐ入れ替えるのは無理です」
「直営にします」
「公爵家が鉱夫を直接雇う?」
「六十日間だけ」
法務官と一緒に、臨時協定を作る。
成人労働者との自由契約。
固定賃金。
安全監督者の常駐。
家族債務を別の家族の労働へ転嫁しない。
危険と判定された第三坑道は閉鎖したまま。
安全確認済みの坑道だけを、以前より低い出力で動かす。
「児童は?」
「採掘労働へ戻しません」
「債務契約は残っています」
「残っているから、家族への労働転嫁を直営協定で禁止します。債務そのものは別に整理する」
協定案は、実際に坑道へ戻る成人労働者にも読み上げた。
以前と同じ仕事へ戻れると安堵する者もいれば、固定賃金では歩合より稼げない月があると不満を口にする者もいる。
「安全のためと言われても、家に食わせる人数は減りません」
一人の坑夫の言葉に、リーゼロッテは頷いた。
「だから六十日間です。この期間に、採掘量、事故件数、必要な賃金を全部記録します。その数字を見て、本契約を決めます」
「公爵家が後で勝手に変えませんか」
「変更するなら、書面で提示して、署名前に全員が読めるようにします」
その場で全員が納得したわけではない。
けれど、疑問を口にした者を黙らせず、契約案の余白へ意見を書き加えた。
すべてを一日で解決したことにはしない。
今できる部分だけを、確実に変える。
夕方、商人組合から別の提案が出た。
「今後二か月の銀を、先に買わせていただけませんか」
組合代表が言う。
「代金の一部を今払います。その代わり、優先買付権を」
リーゼロッテは首を横に振った。
「優先権は付けません」
「では、我々が前払いする理由が」
「市場価格に連動した予約購入ならどうでしょう」
採掘量を保証しない。
価格も固定しない。
実際に採れた分について、その時点の市場価格を基準に売る。
商人側は一定量まで購入予約できる。
その代わり、運転資金の一部を前払いする。
「独占ではありません」
リーゼロッテは言った。
「北境も、将来の銀を安値で縛られない。商人側も、再開後の仕入れ枠を確保できる」
組合代表は長く計算した末、頷いた。
契約が成立した。
前払金が入れば、食糧と薬品の次回輸送費まで持つ。
レオンハルトの私財だけに頼らず、鉱山自身の収入で立て直せる。
夜。
すべての署名を終えたころには、指が痛くなっていた。
リーゼロッテは執務机へ額をつけそうになり、何とか姿勢を戻す。
向かいにいたレオンハルトが筆記板へ書いた。
『疲れたか』
「少し」
『少しには見えない』
「あなたもでしょう」
彼は答えなかった。
代わりに、朝書いた王太子への返書を見た。
『送った?』
「ええ」
リーゼロッテは少し迷い、それから言った。
「殿下には、あなたとの結婚がなかったとしても戻らないと書きました」
レオンハルトの目が上がる。
「誤解されたくなかったので」
何を、と聞かれたわけではない。
それでも言葉が続く。
「私が王太子を断る理由を、別の男性と結婚したから、にはしたくありませんでした」
レオンハルトはしばらく動かなかった。
やがて立ち上がる。
机を回り、リーゼロッテの前へ来た。
「……レオンハルト様?」
彼は筆記板を置く。
リーゼロッテの右手を取った。
領主印を何度も押し、書類を書き続けた手。
その甲へ、唇が触れる。
一瞬だった。
礼儀としての挨拶なら、もっと何気なくできるはずなのに。
レオンハルトは顔を上げると、わずかに視線を逸らした。
リーゼロッテの頬が遅れて熱くなる。
「……それは、何への返事ですか」
彼は筆記板へ手を伸ばした。
しかし少し考え、何も書かなかった。
その沈黙だけは、呪いのせいではないと分かった。




