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婚約破棄された誓約鑑定令嬢は、沈黙の辺境公爵と偽りの王国を縫い直す  作者: 乾為天女


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12/21

第12話 王妃の北境訪問

 王妃ヴァレリアが北境へ到着したのは、雪の止んだ午後だった。


 先触れから到着まで、わずか二日。


 歓迎の宴を整える時間もない。


 もっとも、リーゼロッテには宴を開くつもりもなかった。


 城門から入ってきた王家の馬車は三台。護衛も必要最小限だった。


 大軍を連れてきたわけではない。


 それがかえって、ヴァレリアの自信を示しているように見えた。


 王妃は北境へ乗り込むことを恐れていない。


 迎賓室へ入ってきた彼女は、王都の夜会で見たときと同じ穏やかな笑みを浮かべていた。


 「久しぶりですね、リーゼロッテ」


 「王妃殿下」


 リーゼロッテは礼をする。


 レオンハルトも隣で一礼した。


 ヴァレリアの視線が、一瞬だけ彼の首元へ落ちた。


 黒い誓約紋は出ていない。


 それでも、その目は契約の存在を知っている者の目だった。


 「北境での働きは聞いています」


 王妃は席へ着く。


 「穀物供出を止め、銀鉱山の不正を正し、商人との契約まで組み直したそうですね」


 「必要だったことをしただけです」


 「謙遜する必要はありません。王都にいたころより、ずっと生き生きしている」


 褒められている。


 不自然なほどに。


 あの王宮夜会で反逆者として拘束した人物へ向ける言葉ではない。


 リーゼロッテは返事を急がなかった。


 ヴァレリアは続ける。


 「あなたを北境へ送ったことは、結果として正しかったのかもしれません」


 「送った、ですか」


 「グラーツ公爵との婚姻を認めたのは私です」


 事実ではある。


 だが、言い方が違う。


 婚姻が成立しなければ拘束へ戻すと迫ったのも王妃側だ。


 リーゼロッテはそこを争わなかった。


 相手が言葉をどう飾るかより、今日ここへ来た目的のほうが重要だ。


 「今日は、何のために北境まで?」


 ヴァレリアは微笑みを保ったまま、侍従へ合図した。


 革張りの文書箱が机へ置かれる。


 「あなたに頼みたいことがあります」


 中から出されたのは、三通の草案だった。


 一通目。


 『国王統治不能認定』


 二通目。


 『生前譲位承認契約』


 三通目。


 『王太子ユリウス戴冠契約』


 リーゼロッテの指先が冷える。


 「陛下はご存命です」


 「ええ」


 「それでも、ユリウス殿下を即位させると?」


 「陛下は長く政務へ復帰されていません。王国を永久に待たせることはできないでしょう」


 「統治不能認定には、誰の承認が必要ですか」


 ヴァレリアの笑みが少し深くなった。


 「さすがですね。最初にそこを聞く」


 「王国統治誓約の原本を確認させてください」


 室内の空気が変わった。


 王妃付きの侍従が目を伏せる。


 レオンハルトは動かない。


 ヴァレリアだけが、変わらずリーゼロッテを見ている。


 「北境にある認証写しでは不足ですか」


 「不足です」


 「あなたの誓印視でも?」


 「誓印視は、原本そのものを作り出す能力ではありません」


 リーゼロッテは静かに答えた。


 「認証者が偽造版を本物だと思って署名すれば、その意思は真正です。だからこそ、法的原本と契約石の登録記録が必要です」


 「慎重になりましたね」


 「北境で学びました」


 正しいと思っただけでは、人は動かない。


 目に見えた色だけでも、裁判は動かない。


 誰が見ても同じ結論へ辿り着ける証拠を残す。


 それを、ここ数週間で嫌というほど学んだ。


 ヴァレリアは三通の草案へ指を置いた。


 「だから、あなたに認証してほしいのです」


 「原本照合をせずに?」


 「現行認証写しと、契約裁判所に保管された現行登録を確認すれば十分でしょう」


 「十分ではありません」


 「なぜ?」


 「現行登録そのものが正しいかを調べているからです」


 その瞬間。


 王妃の目から、ほんの少しだけ温度が消えた。


 リーゼロッテは見逃さなかった。


 やはり。


 王妃は、自分が何を調べているか知っている。


 「母エレオノーラが十年前、同じ条文を調べていました」


 リーゼロッテは続ける。


 「そして今、旧認証写しがその年に回収された記録も見つかっています」


 「過去の整理作業を犯罪のように言うのですね」


 「犯罪だとは言っていません。確認したいと言っています」


 「その確認が終わるまで、王国の継承を止める?」


 「正しい手続きでなければ、戴冠後にもっと大きな混乱を生みます」


 「混乱を恐れるからこそ、早く定める必要があるのです」


 「急ぐことと、手続きを省くことは同じではありません」


 ヴァレリアは初めて、わずかに目を細めた。


 「あなたは、法が人を救うと思っているのですね」


 「少なくとも、権力を持つ者が自分だけで正しさを決めるよりは」


 侍従の一人が息を呑んだ。


 レオンハルトは動かなかった。


 リーゼロッテ自身も、自分が王妃へここまで言えるようになったことに遅れて気づく。


 以前なら、王太子妃候補として失礼のない答えを探していただろう。


 今は違う。


 北境で、間違った契約の代償を払う人々を見た。


 だから黙れない。


 しばらく沈黙が続いた。


 やがて王妃は別の話をするように言った。


 「北境では、薬草と塩がまだ不足しているそうですね」


 リーゼロッテの背筋が強張る。


 「改善しています」


 「王室補助輸送を使っているからでしょう」


 王都直轄街道。


 王室倉庫。


 北境のような遠隔地へ、食糧や薬品を通常より安く早く運ぶための許可。


 銀鉱山の予約購入で運転資金を確保しても、この経路があるから輸送費を抑えられている。


 「次回の許可更新は、来月でしたね」


 王妃はまるで天気の話をするように言う。


 「更新しないこともできます」


 オスカーの手がわずかに動いた。


 レオンハルトの目が細くなる。


 リーゼロッテは王妃だけを見る。


 「それは、戴冠契約を認証しなければ輸送許可を止める、という意味ですか」


 「私はそんな下品な言い方をしていません」


 「では、どういう意味でしょう」


 「王家の制度は、王家へ協力する領地を支えるためのものです」


 静かな声。


 「王国の安定を妨げる領地へ、同じ優遇を与え続ける理由はありません」


 脅しだった。


 言葉を丁寧に整えただけの。


 「北境の領民は、王位継承手続きと関係ありません」


 「すべては関係しています」


 ヴァレリアは初めて、少し身を乗り出した。


 「一人ひとりの事情を切り離して考えるから、国は争うのです」


 リーゼロッテは黙って聞いた。


 「貴族は自家の利益を選ぶ。商人は自分の利益を選ぶ。領民は自分の村だけを守ろうとする。王族でさえ、自分が王になるかどうかで争う」


 「だから、選ばせない?」


 「最初から最も争いの少ない形に決めておくのです」


 ヴァレリアの声には、迷いがなかった。


 「婚姻も、忠誠も、相続も。人が自由に選び直せるから裏切りが生まれる」


 「自由がなければ、裏切りもないと」


 「少なくとも減ります」


 リーゼロッテの脳裏に、銀鉱山の少年が浮かんだ。


 父親の借金を理由に働いていた十一歳。


 契約は成立していた。


 逃げ道だけがなかった。


 「それでは、間違った契約からも逃げられません」


 「間違わない者が決めればいい」


 「誰が、その者が間違っていないと決めるのですか」


 初めて。


 ヴァレリアの表情が完全に消えた。


 「国家です」


 「国家を動かすのも、人です」


 「だからこそ、個人の迷いより先に仕組みを置くのです」


 王妃の手が、戴冠契約の草案へ触れる。


 「人間は、選択肢があることを美徳だと思いすぎる」


 静かで、冷たい確信。


 「一人ひとりの自由より、百万人が争わず生きる仕組みのほうが重要です」


 そこには、相手を屈服させる快楽ではなく、秩序こそ救済だと信じ切った硬さがあった。


 リーゼロッテはようやく、目の前の人が何をしているのか理解した。


 嫌いな者をいじめたいのではない。


 息子を王にしたいだけでもない。


 ヴァレリアは、本気で国を救っているつもりなのだ。


 だから危険だった。


 自分の正しさを疑わないまま、他人の選択肢を奪える。


 「北境で、父親の借金を理由に十一歳の子供が働いていました」


 リーゼロッテは言った。


 「契約は成立していました。誰かが『家族なら代わりに働くのが最も合理的だ』と決めたからです」


 ヴァレリアは黙っている。


 「その子は、その合理性を選んでいません」


 「国家と一つの鉱山契約を同じにするのですか」


 「規模は違います。でも、選ぶ側と選ばされる側がいる点は同じです」


 リーゼロッテは草案を王妃側へ戻した。


 「私は、誰かが全員の代わりに正しい選択をし続けられるとは思いません」


 「理想論ですね」


 「かもしれません」


 「その理想のために北境への輸送費が上がっても?」


 痛いところを突かれた。


 それでも、リーゼロッテは視線を逸らさなかった。


 「だから別の道を探します」


 「すべての道を契約で守れると思っている?」


 「いいえ」


 リーゼロッテは答えた。


 「守れないから、一つの署名だけで全部を止められない形にします」


 ヴァレリアは数秒、彼女を見つめた。


 その目に初めて、敵を見る色が混じった。


 「認証はできません」


 リーゼロッテは改めて言う。


 「原本を確認するまでは」


 王妃は立ち上がった。


 「残念です」


 「王室補助輸送は?」


 「更新時に判断します」


 答えは、それで十分だった。


 王妃一人の署名で止められる道に、北境の食事を預け続けてはいけない。


 ヴァレリアが部屋を出る。


 扉が閉じた瞬間、オスカーが低く吐き捨てた。


 「兵糧攻めと同じだ」


 「ええ」


 リーゼロッテは机に残された輸送許可の期限を見た。


 まだ時間はある。


 短いが、ゼロではない。


 レオンハルトが筆記板へ書く。


 『どうする』


 リーゼロッテは窓の外へ目を向けた。


 雪の向こう。


 王都へ続く最短の直轄街道。


 そこだけが道ではない。


 「王妃一人では止められない輸送路を作ります」


 王都へ戻る前に。


 北境そのものを、人質にされない形へ変える。


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