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婚約破棄された誓約鑑定令嬢は、沈黙の辺境公爵と偽りの王国を縫い直す  作者: 乾為天女


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13/21

第13話 北境公爵夫人の帰還

 王妃が北境を去った翌朝、リーゼロッテは地図を会議卓いっぱいに広げた。


 赤い線は王都直轄街道。


 今まで北境へ届く小麦、塩、薬草の大半が通ってきた道だ。


 速い。


 安い。


 だが、王室補助輸送の許可がなければ使えない。


 「この道を捨てるわけではありません」


 リーゼロッテは言った。


 「ただし、ここだけに頼るのをやめます」


 オスカーが地図を覗き込む。


 「他の道は冬になると使いづらい」


 「陸路だけなら、そうです」


 指を西へ動かす。


 北境からエーヴァルト公爵領へ抜ける街道。


 さらに南へ。


 川へ接続する港町。


 「ここから民間河川船を使います」


 会計官が眉をひそめた。


 「遠回りです。輸送費は王室補助便の倍近くになる」


 「銀鉱山の予約購入で入った前払金があります」


 「それを全部、運送へ?」


 「全部ではありません。増加分だけです」


 リーゼロッテは計算表を出す。


 銀鉱山は低出力ながら再開している。


 安全設備費と賃金を確保したうえで、商人組合から受け取った予約購入代金の一部を、輸送経路の切り替えへ回す。


 「王室補助便より高い。それでも、王妃の一署名で止まるよりは安いです」


 レオンハルトが筆記板へ書いた。


 『通行権は』


 「二つ必要です」


 一つ。


 現在のエーヴァルト公爵領。


 もう一つ。


 北境と河川港の間にある西隣の公爵領。


 どちらも四大公爵家に数えられる家だ。


 「私がエーヴァルト家へ頼めば、個人的な保護に見える」


 リーゼロッテは言った。


 「だから、頼みません」


 「どうするのです」


 会計官が尋ねる。


 「買います。通行税を払って」


 書簡は、親族へ送る文面にはしなかった。


 『グラーツ公爵領は、銀鉱石および北境向け生活物資の安定輸送を目的として、貴領内街道の商業通行契約を申し込みます』


 条件。


 通行税。


 冬季除雪費の一部負担。


 銀鉱石輸送の定期利用。


 領内商人が北境向け物資の入札へ参加できること。


 相手にも利益がある契約へする。


 法務官が草案を読んだ。


 「エーヴァルト公爵家には、親族間の無償通行を求める余地もあります」


 「使いません」


 「なぜです」


 「無償なら、向こうの好意が止まれば終わります。通行税を払う契約なら、向こうにも続ける理由が残る」


 リーゼロッテはもう一つ付け加えた。


 「北境の銀を運ぶ荷車が空で戻らないよう、帰路の積荷をエーヴァルト領と西隣の領内商人から優先的に募ります。ただし価格は公開入札です」


 「優先するのに公開入札?」


 「参加機会を優先するだけです。買う相手までは固定しません」


 王妃との話で改めて分かった。


 一つの相手へ全部を預ければ、その相手の機嫌が変わったときに止まる。


 契約は縛るためだけのものではない。


 縛られすぎないためにも使える。


 西隣の公爵領にも、ほぼ同じ条件で送った。


 返事を待つ間、もう一つ準備を始める。


 十年前の忠誠誓約。


 全村、全部隊へ同じ国境保全誓約連結番号が付けられていた。


 エレオノーラの手帳には、その解除手順も残っていた。


 「構成員の同意が必要です」


 リーゼロッテは村長用の用紙を示した。


 「公爵個人への忠誠誓約を解除して、領地法を守る市民誓約へ切り替える」


 オスカーが低く言う。


 「兵にも?」


 「兵もです」


 「公爵への忠誠を捨てさせるのですか」


 その言葉に、会議室の空気が張る。


 リーゼロッテはレオンハルトを見る。


 彼は静かに筆記板へ書いた。


 『捨てさせろ』


 オスカーが彼を見る。


 『人ではなく法に誓え』


 次の一行。


 『私が間違えたとき、止められるように』


 オスカーは長く黙った。


 やがて、用紙を手に取る。


 「部隊長へ配ります」


 「目的は伏せてください」


 「なぜ」


 「王妃側に、沈黙の誓約と連結していることを知られたくありません」


 形式上の理由は、十年前の忠誠制度を現行の領地法へ合わせるための整理。


 それだけを書く。


 本当の目的は、レオンハルトの沈黙契約が北境領民を人質に取る土台を、一つずつ外すことだ。


 「一度に送れば目立ちます」


 ミーナが言った。


 「荷物に混ぜてはどうでしょう」


 「何へ?」


 「商人組合の荷札です。今は銀鉱石と生活物資の往来が増えています。村ごとの荷札束に一枚ずつ入れれば、不自然ではありません」


 オスカーが頷く。


 「軍部隊は商人便だけでは届かない」


 「司祭の巡回便があります」


 ミーナは鉱山診療記録を集めたときに知ったらしい。


 山間部の礼拝所を回る司祭たちは、薬や手紙も運ぶ。


 「商人便と司祭便を分ければ、一度に同じ経路を使わずに済みます」


 リーゼロッテは用紙を二つの束へ分けた。


 「お願いします」


 小さな紙が、北境全域へ散っていく。


 今はまだ署名も集まっていない。


 けれど、十年前から繋がれた契約を解く最初の一歩だった。


 三日後。


 エーヴァルト公爵領から返書が来た。


 内容は簡潔だった。


 『提示された通行税、除雪費分担、銀取引条件を受諾する。ただし、春の雪解けで街道補修費が増えた場合は、次期更新時に再協議する』


 親族としての言葉は一つもない。


 リーゼロッテはむしろ安心した。


 今のエーヴァルト公爵は傍系当主だ。


 成人した自分の婚姻や身柄を決める権限はない。


 だが領主として、利益のある商取引を選ぶ権限はある。


 「これでいい」


 保護されるのではない。


 契約相手として認められたのだ。


 翌日、西隣の公爵領からも受諾が届いた。


 こちらは河川港の利用料を追加で求めてきた。


 会計官は顔をしかめたが、リーゼロッテは一度計算してから受けた。


 「王室補助便より高くなります」


 「でも予算内です」


 「値切らないのですか」


 「値切れます。でも、今は急いでいます。相手にもこの契約を守る利益が必要です」


 無理に安くさせて、次の更新時に切られるよりいい。


 長く続く条件にする。


 そこからは早かった。


 商人組合が河川船を手配する。


 北境から銀鉱石を積んだ荷車が西へ向かい、帰路には塩、乾燥薬草、小麦を積む。


 河川船を使う区間は、王家の倉庫も王都直轄街道も通らない。


 初便が出た日、リーゼロッテは城で待たなかった。


 レオンハルトとオスカーと一緒に、西の中継倉庫まで出向いた。


 銀鉱石の箱を降ろした荷車が、帰りには小麦袋と塩樽を積み直していく。


 河川船から届いた荷には、二つの公爵領と商人組合、それぞれの封印が残っていた。


 「どこか一つが止まっても、別の商人と別の船へ振り替えられます」


 リーゼロッテは輸送記録を確認した。


 オスカーが言う。


 「手間は増えた」


 「ええ」


 「金もかかる」


 「ええ」


 「それでも、前より安全だ」


 「はい」


 初めて、オスカーのほうからそう認めた。


 一つの許可を失っただけで、領民の食事まで失う形ではなくなった。


 完全ではない。


 雪が増えれば遅れる。


 川が凍れば使えない区間もある。


 それでも、選択肢は一つではない。


 リーゼロッテは王妃との会話を思い出した。


 選択肢があるから争う。


 ヴァレリアはそう言った。


 けれど今、選択肢が増えたからこそ、北境は一人の意思に従わずに済む。


 王都へ向かう日を決めた。


 原本を探す。


 王妃が何を書き換えたのか、王都で証拠を集める。


 北境を離れるのは不安だった。


 だが、今度はあの王宮夜会のように追い出されるのではない。


 自分で戻る。


 出発前夜、最初の解除同意書が一通だけ戻ってきた。


 山間の小村。


 村長と構成員の署名。


 『領主個人への忠誠誓約を解除し、領地法を守る市民誓約へ切り替えることに同意する』


 たった一村。


 それでも、リーゼロッテはその紙を長く見つめた。


 レオンハルトも隣で読む。


 「まだ一つです」


 彼は書いた。


 『一つ目だ』


 リーゼロッテは頷いた。


 馬車が王都の城門をくぐったのは、それから六日後だった。


 懐かしい白い石壁。


 高い尖塔。


 冬でも人の多い大通り。


 けれど、空気が以前と違う。


 「号外です!」


 新聞売りの少年が叫ぶ。


 『北境飢餓回避 新公爵夫人、供出契約を停止』


 『銀鉱山の児童労働を停止 不正在庫を公開売却』


 見出しに自分の名がある。


 リーゼロッテは思わず馬車の奥へ身を引いた。


 「お嬢様、有名人ですね」


 ミーナが楽しそうに言う。


 「笑い事ではないわ」


 王都の貴族街へ入る。


 以前なら馬車の紋章を見ても視線を逸らした夫人が、今は自分から会釈した。


 夜会で婚約破棄を笑っていた若い貴族が、道を譲る。


 宿舎へ入る前には、面会を求める名刺が三枚も届いた。


 「急に親切になるのですね」


 ミーナが呆れる。


 リーゼロッテは名刺を見た。


 「私が正しいと分かったからではないわ」


 「では?」


 「北境で結果を出したから、話を聞く価値があると思われたの」


 少し苦い。


 けれど、それも現実だった。


 証拠だけでは人は動かない。


 実績だけでも足りない。


 両方を積み上げて、ようやく声が届く。


 その日の夕方。


 王立聖堂の裏手にある小さな資料室で、リーゼロッテはノエル司祭と再会した。


 北境へあの短い手紙を送ってきた男。


 十年前より痩せたように見える。


 「お久しぶりです」


 「……リーゼロッテ様」


 ノエルは扉を閉め、鍵をかけた。


 机の上には何もない。


 「手紙をありがとうございました」


 「届いてしまいましたか」


 奇妙な返事だった。


 「届かせるために送ったのでは?」


 「送るべきではなかった、と今でも思っています」


 「お母様のことを知っていますね」


 ノエルの顔が強張る。


 「王国統治誓約の法的原本は、どこですか」


 沈黙。


 「北境にあるのでしょう」


 ノエルの指が震えた。


 それでも首を横に振る。


 「言えません」


 「知らないのですか」


 「知っています」


 リーゼロッテは息を止めた。


 「なら、なぜ」


 「今、私の口から場所を言えば」


 ノエルは扉の向こうを気にするように声を落とした。


 「あなたはそこへ向かう。その動きを見ている者も、同じ場所へ向かいます」


 原本はある。


 場所もノエルは知っている。


 それでも、まだ言えない。


 「では何なら話せますか」


 ノエルは長く迷った末、棚から一冊の古い登録簿を取り出した。


 「原本の場所ではなく、消された記録から始めてください」


 表紙には、十年前の日付。


 王都での調査が、ここから始まる。


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