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婚約破棄された誓約鑑定令嬢は、沈黙の辺境公爵と偽りの王国を縫い直す  作者: 乾為天女


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14/23

第14話 契約に泣いた女性たち

 最初に訪ねてきたのは、五十二歳の未亡人だった。


 王都の宿舎に用意した小さな応接室で、女性は膝の上に契約書を置いたまま、何度も指を組み直している。


 「夫が亡くなったのは三年前です」


 声は小さかった。


 「子供はいません。夫の遺言では、屋敷と農地の半分は私へ残すことになっていました」


 「その遺言は?」


 「こちらです」


 リーゼロッテは受け取った。


 真正。


 夫本人の署名も、遺言作成時の意思も銀色だ。


 問題は、その後に作られた財産承認契約だった。


 『未亡人の生活保障を目的として、相続財産の管理権を夫家の男子親族へ委任する』


 管理。


 言葉だけなら穏やかだ。


 実際には、女性が農地を売ることも、収益を受け取ることもできない。


 「署名を断れなかったのですか」


 「断りました」


 女性は唇を噛んだ。


 「でも、摂政特別承認がある契約だと言われました。拒めば夫家の財産を不法占有していることになると」


 リーゼロッテの目が、契約末尾へ落ちる。


 『摂政特別承認』


 その横の登録番号。


 胸の奥が冷えた。


 見覚えがある。


 数字と文字の並び。


 王太子妃教育で見た婚姻承認、持参財産、相続承認。


 用途も当事者も違うのに、同じ番号が繰り返されていた。


 婚約破棄の数日前。


 リーゼロッテが契約裁判所へ原登録照会を申請した、あの番号。


 「……これ」


 「何か?」


 「いえ。まだ確認します」


 一件で決めてはいけない。


 リーゼロッテは番号を書き写した。


 次に来たのは、二十六歳の女性商人だった。


 父から継いだ染料店を経営していたが、二年前に結婚。


 婚姻契約には、妻の家業を夫婦共同財産へ組み込む条項があった。


 「共同なら、まだ分かります」


 女性は苦笑した。


 「でも、その半年後に夫が店の名義を自分の兄へ移したんです」


 「あなたの同意なしに?」


 「『家業譲渡の摂政特別承認』があるから、夫婦共同財産の代表者である夫だけの署名でいいと」


 契約書が差し出される。


 また同じ番号だった。


 三人目。


 下級貴族の娘。


 家の借金を理由に、二十歳以上年上の伯爵との婚姻を決められた。


 拒絶すると、父親から「王家が承認した救済婚だから逆らえない」と言われた。


 婚姻契約。


 黒い歪み。


 摂政特別承認。


 同じ番号。


 四人目。


 夫の死後、持参金を実家へ戻そうとした女性。


 同じ。


 五人目。


 婚姻中に自分で始めた工房を、夫側の家へ譲渡させられた職人。


 同じ。


 リーゼロッテは机の上へ契約書を並べた。


 婚姻。


 相続。


 持参金。


 家業譲渡。


 内容は違う。


 当事者も違う。


 作成年も違う。


 王妃ヴァレリアの直筆命令は、一つもない。


 それなのに、すべて同じ登録番号が使われている。


 「これでは、一件ずつ命令しているのではありません」


 法務官が言った。


 「制度そのものに、摂政特別承認を通す仕組みがある」


 「ええ」


 リーゼロッテは番号を見つめた。


 念のため、契約ごとに「何が通常手続きから省かれているか」も書き出した。


 未亡人の相続契約では本人による財産管理の再確認。


 染料店の譲渡では共同財産者双方の同意。


 救済婚では本人の婚姻意思確認。


 持参金では返還請求権。


 工房譲渡では所有者本人の処分同意。


 省かれているものは違う。


 だが共通している。


 本来なら当事者本人が止められる場所を、「摂政特別承認」が代わりに通過させている。


 「通常の承認番号なら、一つの原登録に一つの承認理由が対応します」


 法務官が言った。


 「たとえば未成年相続なら未成年相続。軍需徴発なら軍需徴発です。こんなふうに婚姻と相続と家業譲渡を同じ番号で処理することはありません」


 「では、この番号が正常なら」


 「原登録側に、複数分野の本人保護規定を一括で例外化する根拠が書かれているはずです」


 「正常でなければ?」


 「番号そのものが、本来存在しない権限をあるように見せるための鍵になっている」


 リーゼロッテは息を吐いた。


 どちらにしても、元登録を見なければならない。


 「つまり、この番号は一つの種類の契約を承認する番号ではない」


 リーゼロッテは言った。


 「本人同意や財産保護の制限を、摂政権限で例外扱いするための番号です」


 法務官が顔を上げた。


 「もしそうなら、通常の登録番号の使い方ではありません」


 「だから私は最初に照会を出した」


 記憶が鮮明に戻る。


 王太子妃教育の一室。


 机に並べられた教材。


 婚姻承認。


 相続承認。


 持参財産。


 最初は自分の見間違いだと思った。


 番号を書き写し、別の教材と照合し、三件目でも同じだった。


 教師役の官吏へ尋ねると、「摂政特別承認だから問題ない」とだけ返された。


 何を承認した番号なのか。


 なぜ違う契約に同じ番号を使えるのか。


 答えがなかったから、規定に従って原登録照会を申請した。


 その数日後。


 夜会で婚約を破棄された。


 リーゼロッテはその時点でも、二つを別の出来事だと思おうとしていた。


 王太子との関係と、自分が見つけた登録番号。


 今はもう無理だった。


 王妃が毎回、誰と誰を結婚させるか決めているわけではない。


 各家や役人が、自分たちに都合のいい契約を作る。


 そして「摂政特別承認」という一つの仕組みを使えば、通常なら必要な本人同意や財産保護の制限を越えられる。


 王妃は一件一件の被害者を知らなくてもいい。


 権限だけを広げれば、下にいる人間が勝手に使う。


 「だから被害が広がる」


 リーゼロッテは呟いた。


 ヴァレリアが北境で言った言葉を思い出す。


 最も争いの少ない形へ固定する。


 間違わない者が決めればいい。


 その思想が、王都ではすでに制度になっていた。


 昼を過ぎても、証言者は途切れなかった。


 そこでミーナが別室から戻ってきた。


 「お嬢様。貴族の方だけではありません」


 手元に何枚もの聞き取り用紙を抱えている。


 「何人?」


 「今日だけで十七人です」


 「十七?」


 「商人、職人、宿屋の娘、洗濯屋、薬草店の未亡人。それから、夫が軍へ入ったあと、住居契約を夫家の親族へ移された女性も」


 リーゼロッテは言葉を失った。


 宿舎へ面会に来られる貴族や商人だけを見ていた。


 それでも多いと思っていた。


 ミーナはさらに言う。


 「来られない人もいます」


 「どういうこと?」


 「家を空けられない。夫側に知られたくない。王都まで来る旅費がない」


 当たり前だった。


 証言できる人だけが被害者ではない。


 「どうやって集めたの」


 「薬草商の知り合いに聞きました。そこから女性職人組合へ。組合から教会の相談所へ繋いでもらいました」


 ミーナは用紙を机へ置く。


 「契約書を持ち出せない人は、条項だけ写してもらっています。原本がないものは証拠として分けました」


 リーゼロッテは一枚ずつ見る。


 ミーナが自分で欄を作っていた。


 『原本確認済み』

 『写しのみ』

 『本人証言のみ』

 『第三者証言あり』


 「……よくここまで」


 「馬車の車軸を調べたとき、お嬢様が、見えた色だけでは証拠にならないと言っていたでしょう」


 ミーナは少し笑った。


 「だから、分けたほうがいいと思って」


 リーゼロッテは胸の奥が熱くなった。


 自分が教えたつもりはない。


 一緒に見てきたものが、もうミーナの判断になっている。


 「ありがとう」


 「まだあります」


 ミーナは今度は小さな紙束を出した。


 「教会の相談所を手伝っている司祭と、女性相続人の互助会、それから商人組合の何人かが、北境から届く書類を王都へ運べると言っています」


 「北境から?」


 「忠誠誓約の解除申請です」


 リーゼロッテは身を起こした。


 北境を発つ前に配った申請書。


 村や部隊から集まったものを、最後には契約裁判所へ出さなければならない。


 だが一度に北境公爵家の便で運べば、目的を悟られる。


 「商人便だけではなく、別の経路が増える」


 「はい。司祭便、女性相続人の家同士の手紙、商人の取引書類。少しずつなら」


 リーゼロッテは紙束を見た。


 王妃が作った制度によって傷ついた人々。


 その人々を支えてきた者たち。


 その連絡網が、今度は北境の契約を解くための道になる。


 「使わせてもらいましょう」


 ただし、強制はしない。


 運ぶ者には中身の危険を説明し、自分で断れるようにする。


 誰かを守るためだからといって、別の誰かの選択肢を奪ってはいけない。


 夕方。


 リーゼロッテは最初に集めた五通の契約書をもう一度並べた。


 同じ番号。


 指先が震える。


 今度は寒さではなかった。


 「思い出した、ではありませんね」


 レオンハルトが隣を見る。


 リーゼロッテは紙を持ち上げた。


 「確認できました」


 婚約破棄の数日前。


 自分が照会した番号。


 今日、被害契約で見つけた番号。


 同じだ。


 「私は、婚約者として不要になったから捨てられたのではない」


 声に出すと、奇妙なほど冷静だった。


 「照会を止めるために、王太子妃候補の立場から外された」


 レオンハルトの手が、机の下で拳になる。


 「反逆容疑まで付けたのは、照会申請そのものを犯罪に見せるため」


 王妃が北境で、名声を得たリーゼロッテを今度は戴冠認証へ使おうとした理由も繋がる。


 最初は消す。


 消しきれなくなったら使う。


 必要なのは、リーゼロッテ本人ではない。


 誓印視の信用だった。


 「次は、この番号の元登録を見ます」


 法務官が答える。


 「通常の閲覧申請では、王妃側に先に知られる可能性があります」


 「分かっています」


 ノエルが示した古い登録簿。


 消された記録。


 そして王宮の契約文書庫。


 そこに、この番号が生まれた痕跡がある。


 リーゼロッテは契約書を一枚ずつ封筒へ戻した。


 泣きながら話した人もいた。


 怒りながら話した人もいた。


 何が悪いのか分からないまま、「自分が我慢すればいい」と言った人もいた。


 その声を、ただ王妃を倒すための材料にはしない。


 一件ずつ、誰が何を失ったのかを残す。


 制度を壊したあと、戻せるものを戻すために。


 摂政特別承認番号。


 リーゼロッテが最初に触れた糸は、想像していたよりずっと多くの人を縛っていた。


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