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婚約破棄された誓約鑑定令嬢は、沈黙の辺境公爵と偽りの王国を縫い直す  作者: 乾為天女


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15/22

第15話 仮面舞踏会の鍵

 王宮の仮面舞踏会は、王都へ戻って四日後に開かれた。


 招待状は、北境公爵夫妻宛て。


 リーゼロッテは銀糸の仮面を机へ置き、その隣に王宮の見取り図を広げた。


 「舞踏会の最中に文書庫へ入るのですね」


 ミーナが声を潜める。


 「正確には、契約文書庫の索引室まで」


 「同じことでは?」


 「だいぶ違うわ」


 原本保管室へ入るつもりはない。


 鍵も権限もない。


 狙うのは、十年前の登録簿と、各簿冊の所在を示す索引台帳だった。


 王都で再会したノエルから見せられた古い登録簿には、王国統治誓約の登録変更申請が行われた形跡だけが残っていた。


 だが、肝心の保管先は消されている。


 「王宮文書庫の索引なら、消された申請がどの簿冊に入るはずだったか追える」


 リーゼロッテは言った。


 「ただし、そこで見つけても正式な証拠にはならない」


 「持って帰れないから?」


 「それもある。でも、もっと大事なのは、私たちが正式な閲覧手続きで確認するわけではないこと」


 誓印視で何かが見えても。


 欠番を見つけても。


 後から王妃側に「勝手に入り、都合よく読んだ」と言われれば終わる。


 「今夜の目的は、証拠を取ることではありません」


 リーゼロッテは地図を畳んだ。


 「後で、どこを正式に押さえればいいか知ることです」


 夜。


 王宮大広間には、仮面をつけた貴族たちが集まっていた。


 弦楽器の音。


 香水。


 蝋燭の熱。


 北境の冷たい空気に慣れた身には、少し息苦しい。


 リーゼロッテは黒い仮面をつけたレオンハルトの隣に立った。


 「目立っていますね」


 彼が筆記板を出す代わりに、わずかに眉を上げる。


 当然だった。


 婚約破棄された元王太子妃候補。


 その夜のうちに北境公爵と結婚した女。


 数週間後には穀物供出を止め、鉱山不正を暴き、王都へ戻ってきた。


 社交界にとっては格好の噂だ。


 すぐに数人の貴族が寄ってきた。


 「北境公爵夫人。新聞で拝見しました」


 「銀鉱山の件は大変だったとか」


 「王妃殿下とも意見を交わされたそうですね」


 どれも丁寧な言葉だった。


 けれど、本当に知りたいのは別のことだと分かる。


 北境公爵との結婚は本物なのか。


 王太子とは本当に終わったのか。


 王妃と対立しているのか。


 リーゼロッテは笑みを崩さず、必要以上には答えなかった。


 「北境では、目の前の問題を一つずつ処理しているだけです」


 「公爵閣下も、さぞ夫人を頼りにされているのでしょう」


 その言葉に、周囲の視線がレオンハルトへ集まった。


 彼は答えられない。


 だからリーゼロッテは一歩だけ彼へ近づいた。


 「私のほうが頼っていることも多いですよ」


 嘘ではない。


 領主印。


 鉱山停止。


 私財売却。


 彼は何度も、自分の判断の責任を引き受けた。


 その一言で、周囲の空気が少し変わった。


 政略だけではない。


 そう思わせるには十分だったらしい。


 リーゼロッテは内心で息を吐く。


 演技のために言ったのに、言葉そのものは本心だった。


 「今夜は、それを利用します」


 人が離れた隙に、彼女は小さく言った。


 腕を差し出す。


 レオンハルトが一瞬止まる。


 「踊りましょう」


 公爵夫妻の政略結婚は順調。


 そう見せることが、今夜は必要だった。


 音楽が変わる。


 二人は中央へ出た。


 レオンハルトの手が、リーゼロッテの背へ添えられる。


 北境の執務室で手の甲へ受けた口づけを思い出してしまい、心臓が一拍だけ速くなった。


 今はそれどころではない。


 足を運ぶ。


 一歩。


 二歩。


 回転。


 レオンハルトは声を出せない。


 だから、舞踏の最中も言葉はない。


 その代わり、指先の圧力で合図を決めていた。


 右手を一度。


 警備が近い。


 二度。


 進める。


 三度。


 中止。


 最初は単なる打ち合わせだった。


 ところが踊り始めると、合図より先に分かる瞬間がある。


 レオンハルトの視線が、リーゼロッテの肩越しへ動く。


 衛兵が一人、回廊側へ向かう。


 リーゼロッテは何も聞かず、回転を一つ増やす。


 自然に二人の位置が変わる。


 次の瞬間、彼の親指が一度だけ動いた。


 警備。


 分かっていた。


 思わず笑いそうになる。


 レオンハルトも、仮面の下でほんの少し目を細めた。


 「変ですね」


 踊りながら、リーゼロッテが小さく言う。


 彼は返事をしない。


 「あなたが話せないのに、前より会話が増えた気がします」


 今度は、手に二度の圧力。


 進める。


 曲が終わる。


 周囲から拍手が起こった。


 北境公爵夫妻はうまくいっている。


 少なくとも、その場にいる人間にはそう見えただろう。


 リーゼロッテは扇を開き、熱を冷ますふりをした。


 レオンハルトとともに大広間の端へ移る。


 次の曲。


 人の流れが中央へ寄る。


 警備の巡回が一度、舞踏会側へ厚くなる。


 そこが隙だった。


 二人は別々に動いた。


 リーゼロッテは化粧室へ向かう夫人たちの列へ混ざり、途中の回廊で脇道へ入る。


 レオンハルトは反対側から遠回りする。


 王宮のこの区画は、王太子妃教育のころ何度も通った。


 だから道は覚えている。


 契約文書庫の手前。


 索引室。


 扉には閲覧時間終了の札が下がっていたが、舞踏会の日は職員の出入りが多く、外扉そのものは施錠されていない。


 中へ入る。


 すぐにレオンハルトも来た。


 蝋燭は使えない。


 廊下の明かりが入る範囲だけで探す。


 棚には年度別の索引台帳。


 十年前。


 王国統治誓約。


 リーゼロッテは背表紙を指で追った。


 あった。


 一冊を開く。


 登録順。


 変更申請。


 再認証。


 関連簿冊。


 文字は小さい。


 時間がない。


 まず前後の登録を確認する。


 王家財産管理規則。


 四大公爵家間の境界確認。


 王国統治誓約。


 その次にあるはずの登録変更申請。


 さらに後ろには、再認証済み写しの配布記録。


 並び自体は自然だ。


 だからこそ、一か所だけ空いた穴が目立った。


 「……ここ」


 番号は連続している。


 四一二七。


 四一二八。


 次。


 四一三〇。


 四一二九がない。


 頁そのものが破られたわけではない。


 索引の一行だけが空白になっている。


 削った跡も目立たない。


 だが、その空白の右端。


 斜めから光を当てると、ごく薄く別の筆圧跡が残っていた。


 数字の痕跡。


 関連簿冊番号。


 「覚えてください」


 レオンハルトへ囁く。


 彼は頷く。


 リーゼロッテは数字を頭の中で繰り返す。


 持ち出さない。


 書き写さない。


 今は記憶するだけ。


 次に、同じ年度の閲覧用控えを探す。


 こちらには、王国統治誓約の「書式統一・再認証」に関する概要が残っていた。


 変更理由。


 文面整理。


 旧認証写し回収。


 新認証写し配布。


 リーゼロッテは承認欄を見る。


 王国統治誓約の重要変更には、契約裁判所長。


 そして四大公爵家のうち三家。


 母の手帳にも、そう書かれていた。


 通常なら、承認欄には各承認者の登録番号が並ぶ。


 誰がどの権限で承認したかを、後から契約石の記録と照合できるようにするためだ。


 前後の重要契約を見る。


 境界変更契約には、三公爵家と裁判所長の番号がある。


 王家財産の恒久処分契約にもある。


 ところが。


 「ない」


 王国統治誓約の再認証だけ。


 契約裁判所長の承認番号がない。


 三公爵家の承認番号もない。


 あるのは、摂政府の処理番号だけ。


 リーゼロッテの鼓動が速くなる。


 これだけなら、記載漏れかもしれない。


 別簿管理かもしれない。


 しかし十年前の登録変更申請そのものは索引から欠けている。


 その直後に作られた閲覧用控えには、必要な承認番号がない。


 しかも前後の同格文書には、きちんと番号が残っている。


 偶然が二つではない。


 同じ場所に偏っている。


 「これが母の見つけたもの……」


 声が震えそうになる。


 十年前。


 エレオノーラも同じ欄を見たのだろうか。


 同じ欠番に気づいたのだろうか。


 そして、その先を調べた。


 だから死んだ。


 そう考えた瞬間、怒りが先に立ちそうになる。


 リーゼロッテは目を閉じた。


 感情で結論を飛ばしてはいけない。


 母が何を見たかは、まだ分からない。


 王妃が何をしたかも、正式な記録を押さえるまでは確定できない。


 レオンハルトが肩へ触れた。


 右手。


 一度。


 警備。


 足音が近づく。


 リーゼロッテは台帳を元の位置へ戻した。


 同じ向き。


 同じ間隔。


 触れた痕跡を残さない。


 二人は奥へ逃げなかった。


 それでは怪しまれる。


 索引室を出て、別々の方向へ。


 リーゼロッテは曲がり角の手前で扇を落とした。


 「あら」


 拾おうとしたところで、衛兵と出会う。


 「公爵夫人?」


 「道を間違えました。化粧室は反対でしたね」


 北境で新聞に名前が出たことが、ここでは役に立った。


 衛兵は疑うより先に顔を知っていた。


 「大広間までご案内します」


 「ありがとうございます」


 戻る。


 歩きながら、数字を繰り返す。


 欠番。


 関連簿冊。


 承認欄空白。


 忘れてはいけない。


 大広間へ戻ると、レオンハルトはすでに壁際にいた。


 何事もなかった顔。


 リーゼロッテも隣へ並ぶ。


 「覚えていますか」


 彼は頷く。


 筆記板は出さない。


 ここで数字を書けば、見られる可能性がある。


 次の曲が始まった。


 レオンハルトが手を差し出す。


 「また?」


 頷く。


 今度は隠れるためではない。


 リーゼロッテは手を重ねた。


 二人は再び舞踏の輪へ入る。


 今度は合図を決めていない。


 それでも、彼が右へ動く前に分かる。


 自分が回る場所も。


 距離を詰める瞬間も。


 言葉がないことと、分かり合えないことは同じではなかった。


 舞踏会が終わり、宿舎へ戻ってから、二人は別々の紙へ記憶した番号を書いた。


 照合する。


 一致した。


 欠番の位置。


 関連簿冊番号。


 閲覧用控えの承認欄。


 すべて同じ。


 法務官が紙を見て、低く息を吐いた。


 「これが事実なら、登録変更手続きそのものが成立していない可能性があります」


 「可能性です」


 リーゼロッテは訂正した。


 「まだ、可能性にすぎません」


 「ですが」


 「私たちは非公式に見ただけです。台帳を持ち出していない。認証写しもない。今この紙を裁判所へ出しても、私たちの証言にしかならない」


 レオンハルトが筆記板へ書く。


 『正式に押さえる』


 「はい」


 契約裁判所の証拠保全命令が必要だ。


 索引台帳。


 閲覧用控え。


 関連簿冊。


 王妃側が触れる前に、裁判所の手で封印させる。


 しかし、そのためには保全を認めさせるだけの事件との関連性が要る。


 今はまだ足りない。


 リーゼロッテは紙を火に近づけなかった。


 燃やすのでも、証拠として保管するのでもない。


 番号を記憶した二人の確認用として、法務官の目の前で封筒に入れた。


 「これは証拠ではありません」


 「分かっています」


 「証拠がどこにあるかを示す鍵です」


 仮面舞踏会で手に入れたのは、王妃を倒す証拠ではなかった。


 だが、次にどの扉を正式に開かせるべきか。


 その鍵だけは、確かに手の中へ残った。


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