第15話 仮面舞踏会の鍵
王宮の仮面舞踏会は、王都へ戻って四日後に開かれた。
招待状は、北境公爵夫妻宛て。
リーゼロッテは銀糸の仮面を机へ置き、その隣に王宮の見取り図を広げた。
「舞踏会の最中に文書庫へ入るのですね」
ミーナが声を潜める。
「正確には、契約文書庫の索引室まで」
「同じことでは?」
「だいぶ違うわ」
原本保管室へ入るつもりはない。
鍵も権限もない。
狙うのは、十年前の登録簿と、各簿冊の所在を示す索引台帳だった。
王都で再会したノエルから見せられた古い登録簿には、王国統治誓約の登録変更申請が行われた形跡だけが残っていた。
だが、肝心の保管先は消されている。
「王宮文書庫の索引なら、消された申請がどの簿冊に入るはずだったか追える」
リーゼロッテは言った。
「ただし、そこで見つけても正式な証拠にはならない」
「持って帰れないから?」
「それもある。でも、もっと大事なのは、私たちが正式な閲覧手続きで確認するわけではないこと」
誓印視で何かが見えても。
欠番を見つけても。
後から王妃側に「勝手に入り、都合よく読んだ」と言われれば終わる。
「今夜の目的は、証拠を取ることではありません」
リーゼロッテは地図を畳んだ。
「後で、どこを正式に押さえればいいか知ることです」
夜。
王宮大広間には、仮面をつけた貴族たちが集まっていた。
弦楽器の音。
香水。
蝋燭の熱。
北境の冷たい空気に慣れた身には、少し息苦しい。
リーゼロッテは黒い仮面をつけたレオンハルトの隣に立った。
「目立っていますね」
彼が筆記板を出す代わりに、わずかに眉を上げる。
当然だった。
婚約破棄された元王太子妃候補。
その夜のうちに北境公爵と結婚した女。
数週間後には穀物供出を止め、鉱山不正を暴き、王都へ戻ってきた。
社交界にとっては格好の噂だ。
すぐに数人の貴族が寄ってきた。
「北境公爵夫人。新聞で拝見しました」
「銀鉱山の件は大変だったとか」
「王妃殿下とも意見を交わされたそうですね」
どれも丁寧な言葉だった。
けれど、本当に知りたいのは別のことだと分かる。
北境公爵との結婚は本物なのか。
王太子とは本当に終わったのか。
王妃と対立しているのか。
リーゼロッテは笑みを崩さず、必要以上には答えなかった。
「北境では、目の前の問題を一つずつ処理しているだけです」
「公爵閣下も、さぞ夫人を頼りにされているのでしょう」
その言葉に、周囲の視線がレオンハルトへ集まった。
彼は答えられない。
だからリーゼロッテは一歩だけ彼へ近づいた。
「私のほうが頼っていることも多いですよ」
嘘ではない。
領主印。
鉱山停止。
私財売却。
彼は何度も、自分の判断の責任を引き受けた。
その一言で、周囲の空気が少し変わった。
政略だけではない。
そう思わせるには十分だったらしい。
リーゼロッテは内心で息を吐く。
演技のために言ったのに、言葉そのものは本心だった。
「今夜は、それを利用します」
人が離れた隙に、彼女は小さく言った。
腕を差し出す。
レオンハルトが一瞬止まる。
「踊りましょう」
公爵夫妻の政略結婚は順調。
そう見せることが、今夜は必要だった。
音楽が変わる。
二人は中央へ出た。
レオンハルトの手が、リーゼロッテの背へ添えられる。
北境の執務室で手の甲へ受けた口づけを思い出してしまい、心臓が一拍だけ速くなった。
今はそれどころではない。
足を運ぶ。
一歩。
二歩。
回転。
レオンハルトは声を出せない。
だから、舞踏の最中も言葉はない。
その代わり、指先の圧力で合図を決めていた。
右手を一度。
警備が近い。
二度。
進める。
三度。
中止。
最初は単なる打ち合わせだった。
ところが踊り始めると、合図より先に分かる瞬間がある。
レオンハルトの視線が、リーゼロッテの肩越しへ動く。
衛兵が一人、回廊側へ向かう。
リーゼロッテは何も聞かず、回転を一つ増やす。
自然に二人の位置が変わる。
次の瞬間、彼の親指が一度だけ動いた。
警備。
分かっていた。
思わず笑いそうになる。
レオンハルトも、仮面の下でほんの少し目を細めた。
「変ですね」
踊りながら、リーゼロッテが小さく言う。
彼は返事をしない。
「あなたが話せないのに、前より会話が増えた気がします」
今度は、手に二度の圧力。
進める。
曲が終わる。
周囲から拍手が起こった。
北境公爵夫妻はうまくいっている。
少なくとも、その場にいる人間にはそう見えただろう。
リーゼロッテは扇を開き、熱を冷ますふりをした。
レオンハルトとともに大広間の端へ移る。
次の曲。
人の流れが中央へ寄る。
警備の巡回が一度、舞踏会側へ厚くなる。
そこが隙だった。
二人は別々に動いた。
リーゼロッテは化粧室へ向かう夫人たちの列へ混ざり、途中の回廊で脇道へ入る。
レオンハルトは反対側から遠回りする。
王宮のこの区画は、王太子妃教育のころ何度も通った。
だから道は覚えている。
契約文書庫の手前。
索引室。
扉には閲覧時間終了の札が下がっていたが、舞踏会の日は職員の出入りが多く、外扉そのものは施錠されていない。
中へ入る。
すぐにレオンハルトも来た。
蝋燭は使えない。
廊下の明かりが入る範囲だけで探す。
棚には年度別の索引台帳。
十年前。
王国統治誓約。
リーゼロッテは背表紙を指で追った。
あった。
一冊を開く。
登録順。
変更申請。
再認証。
関連簿冊。
文字は小さい。
時間がない。
まず前後の登録を確認する。
王家財産管理規則。
四大公爵家間の境界確認。
王国統治誓約。
その次にあるはずの登録変更申請。
さらに後ろには、再認証済み写しの配布記録。
並び自体は自然だ。
だからこそ、一か所だけ空いた穴が目立った。
「……ここ」
番号は連続している。
四一二七。
四一二八。
次。
四一三〇。
四一二九がない。
頁そのものが破られたわけではない。
索引の一行だけが空白になっている。
削った跡も目立たない。
だが、その空白の右端。
斜めから光を当てると、ごく薄く別の筆圧跡が残っていた。
数字の痕跡。
関連簿冊番号。
「覚えてください」
レオンハルトへ囁く。
彼は頷く。
リーゼロッテは数字を頭の中で繰り返す。
持ち出さない。
書き写さない。
今は記憶するだけ。
次に、同じ年度の閲覧用控えを探す。
こちらには、王国統治誓約の「書式統一・再認証」に関する概要が残っていた。
変更理由。
文面整理。
旧認証写し回収。
新認証写し配布。
リーゼロッテは承認欄を見る。
王国統治誓約の重要変更には、契約裁判所長。
そして四大公爵家のうち三家。
母の手帳にも、そう書かれていた。
通常なら、承認欄には各承認者の登録番号が並ぶ。
誰がどの権限で承認したかを、後から契約石の記録と照合できるようにするためだ。
前後の重要契約を見る。
境界変更契約には、三公爵家と裁判所長の番号がある。
王家財産の恒久処分契約にもある。
ところが。
「ない」
王国統治誓約の再認証だけ。
契約裁判所長の承認番号がない。
三公爵家の承認番号もない。
あるのは、摂政府の処理番号だけ。
リーゼロッテの鼓動が速くなる。
これだけなら、記載漏れかもしれない。
別簿管理かもしれない。
しかし十年前の登録変更申請そのものは索引から欠けている。
その直後に作られた閲覧用控えには、必要な承認番号がない。
しかも前後の同格文書には、きちんと番号が残っている。
偶然が二つではない。
同じ場所に偏っている。
「これが母の見つけたもの……」
声が震えそうになる。
十年前。
エレオノーラも同じ欄を見たのだろうか。
同じ欠番に気づいたのだろうか。
そして、その先を調べた。
だから死んだ。
そう考えた瞬間、怒りが先に立ちそうになる。
リーゼロッテは目を閉じた。
感情で結論を飛ばしてはいけない。
母が何を見たかは、まだ分からない。
王妃が何をしたかも、正式な記録を押さえるまでは確定できない。
レオンハルトが肩へ触れた。
右手。
一度。
警備。
足音が近づく。
リーゼロッテは台帳を元の位置へ戻した。
同じ向き。
同じ間隔。
触れた痕跡を残さない。
二人は奥へ逃げなかった。
それでは怪しまれる。
索引室を出て、別々の方向へ。
リーゼロッテは曲がり角の手前で扇を落とした。
「あら」
拾おうとしたところで、衛兵と出会う。
「公爵夫人?」
「道を間違えました。化粧室は反対でしたね」
北境で新聞に名前が出たことが、ここでは役に立った。
衛兵は疑うより先に顔を知っていた。
「大広間までご案内します」
「ありがとうございます」
戻る。
歩きながら、数字を繰り返す。
欠番。
関連簿冊。
承認欄空白。
忘れてはいけない。
大広間へ戻ると、レオンハルトはすでに壁際にいた。
何事もなかった顔。
リーゼロッテも隣へ並ぶ。
「覚えていますか」
彼は頷く。
筆記板は出さない。
ここで数字を書けば、見られる可能性がある。
次の曲が始まった。
レオンハルトが手を差し出す。
「また?」
頷く。
今度は隠れるためではない。
リーゼロッテは手を重ねた。
二人は再び舞踏の輪へ入る。
今度は合図を決めていない。
それでも、彼が右へ動く前に分かる。
自分が回る場所も。
距離を詰める瞬間も。
言葉がないことと、分かり合えないことは同じではなかった。
舞踏会が終わり、宿舎へ戻ってから、二人は別々の紙へ記憶した番号を書いた。
照合する。
一致した。
欠番の位置。
関連簿冊番号。
閲覧用控えの承認欄。
すべて同じ。
法務官が紙を見て、低く息を吐いた。
「これが事実なら、登録変更手続きそのものが成立していない可能性があります」
「可能性です」
リーゼロッテは訂正した。
「まだ、可能性にすぎません」
「ですが」
「私たちは非公式に見ただけです。台帳を持ち出していない。認証写しもない。今この紙を裁判所へ出しても、私たちの証言にしかならない」
レオンハルトが筆記板へ書く。
『正式に押さえる』
「はい」
契約裁判所の証拠保全命令が必要だ。
索引台帳。
閲覧用控え。
関連簿冊。
王妃側が触れる前に、裁判所の手で封印させる。
しかし、そのためには保全を認めさせるだけの事件との関連性が要る。
今はまだ足りない。
リーゼロッテは紙を火に近づけなかった。
燃やすのでも、証拠として保管するのでもない。
番号を記憶した二人の確認用として、法務官の目の前で封筒に入れた。
「これは証拠ではありません」
「分かっています」
「証拠がどこにあるかを示す鍵です」
仮面舞踏会で手に入れたのは、王妃を倒す証拠ではなかった。
だが、次にどの扉を正式に開かせるべきか。
その鍵だけは、確かに手の中へ残った。




