第16話 母を見捨てた王太子
ユリウスからの呼び出しは、仮面舞踏会の翌日の午後に届いた。
場所は王太子の私室ではなく、小さな応接室。
『二人だけで話したい』
書状の最後に、そう添えられていた。
リーゼロッテは一度だけ考えた。
「行きます」
レオンハルトが筆記板へ書く。
『私も王宮へ行く』
「部屋の外まで?」
頷く。
「分かりました」
拒む理由はなかった。
守られるためではない。
何かあれば、外にいる人間が「いつ、どこで、誰と会っていたか」を証言できる。
今のリーゼロッテには、その意味がよく分かっていた。
王宮へ入る。
昨日の華やかな仮面舞踏会が嘘のように、昼の廊下は静かだった。
応接室の前でレオンハルトが止まる。
リーゼロッテは一人で中へ入った。
ユリウスは窓際に立っていた。
金髪。
整った礼装。
子供のころから何度も見た姿。
けれど、婚約者だったころより遠い人に見える。
「来てくれたんだな」
「呼び出されたので」
以前なら、もう少し柔らかく答えていただろう。
ユリウスは苦笑した。
「北境へ行って変わったな」
「そうかもしれません」
「母上にも、同じように言われたか」
リーゼロッテの目が細くなる。
「王妃殿下が北境へいらしたことをご存じなのですね」
「当然だ」
「戴冠契約の認証を求められたことも?」
ユリウスは答えなかった。
沈黙。
その癖を、リーゼロッテはよく知っていた。
都合の悪い問いへすぐ答えない。
相手が別の話題へ移るのを待つ。
昔はそれを慎重さだと思っていた。
今は、保身の形だと分かる。
「今日のお話は何でしょう」
ユリウスは机へ戻り、座らずに手を置いた。
「十年前のことを話す」
リーゼロッテの呼吸が止まる。
「……母の?」
「ああ」
ユリウスは視線を落とした。
「僕は十二だった」
十年前。
リーゼロッテは九歳。
ユリウスは十二歳。
「王宮の奥で、君の母上と僕の母上が争っているのを見た」
「何について?」
「全部は聞こえなかった」
彼は急いで続けた。
「本当だ。扉の外から聞いただけだ。エレオノーラ夫人が『承認が足りない』『元の記録と合わない』と言っていた。母上は『王国を止めるつもりか』と」
リーゼロッテは何も挟まない。
ユリウスの記憶を、自分の知識で補わないためだ。
「母上は怒鳴る人ではなかった」
ユリウスは言う。
「だから怖かった。あんな声は初めて聞いた」
「それで?」
「僕がいることに気づいた母上が、部屋から出てきた」
「何と言われたのです」
「子供が聞く話ではない。忘れろ、と」
ありふれた言葉。
それだけなら、何の証拠にもならない。
「数日後、母が死んだ」
リーゼロッテは自分でも驚くほど静かに言えた。
「雪道の事故で」
「ああ」
「そのとき、あなたは口論を思い出した?」
ユリウスの顔が歪んだ。
「思い出した」
「事故ではないかもしれないと?」
「……そう思った」
部屋が静まる。
外の時計が、一度だけ鳴った。
リーゼロッテは彼を見た。
「誰かに話しましたか」
「話せなかった」
「なぜ」
「十二歳だったんだ」
「十二歳だったあなたを責めているのではありません」
リーゼロッテは言った。
「その後も、あなたは大人になった」
ユリウスが顔を上げる。
痛いところを突かれた顔だった。
「父上はそのころから病気がちだった。母上は宮廷を動かしていた。もし僕が『母上がエレオノーラ夫人の死に関わっているかもしれない』なんて言えば」
「言えば?」
「王家が割れる」
「それだけ?」
「僕の立場も終わる」
ようやく出た。
リーゼロッテは目を閉じなかった。
「王太子位を失うと思ったのですね」
「可能性はあった」
「だから黙った」
「証拠はなかった!」
ユリウスの声が強くなる。
「僕が見たのは口論だけだ。殺したところを見たわけじゃない。命令も聞いていない。事故だって、本当に事故だった可能性はある」
「ええ」
その点は否定しない。
「あなたは、母の殺害を知っていたわけではない」
ユリウスが少しだけ安堵した顔をする。
リーゼロッテは続けた。
「でも、不自然だと思ったことを誰にも話さないと、自分で選んだ」
安堵が消える。
「王位を失うのが怖かったから」
「……そうだ」
初めて。
ユリウスは言い訳を続けなかった。
「最初は子供だったからだ。次は、証拠がないから。もう少し大人になったら、父上が弱っているから。王太子になってからは、今さら話せば国が混乱するから」
乾いた笑い。
「理由はいくらでも作れた」
「自分で調べようとは思わなかったのですか」
ユリウスの笑いが消えた。
「思った」
「では、なぜ」
「調べて何か出たら、選ばなければならない」
リーゼロッテは黙る。
「母上を告発するのか。王太子の地位を危険にさらすのか。それとも知ったうえで黙るのか」
ユリウスは自分の手を見た。
「知らなければ、まだ『事故だったかもしれない』と言えた」
それは証拠がなかったから沈黙したのとは違う。
証拠が出ることを恐れて、確かめること自体を避けたのだ。
「だから調べなかった」
「……ああ」
「十年間」
「ああ」
リーゼロッテは胸の奥に、冷たいものが沈むのを感じた。
十二歳の少年が怖くて黙ったことではない。
大人になっても、その沈黙を守るために何も見ないことを選び続けた。
「君と婚約したときも、思い出した」
「私が母と同じ誓印視を持っていたから?」
「それもある」
「王妃殿下が私を婚約者に選んだ理由は知っていましたか」
「全部は知らなかった」
「照会申請を出したあと、婚約破棄を命じられた理由は?」
ユリウスの喉が動いた。
答えない。
その沈黙だけで十分だった。
「あなたは、あの婚約破棄の夜会で私が『王家の契約文書を盗み見た』わけではないと知っていましたね」
「正規の照会申請だったことは……後で知った」
「後で?」
「夜会の前だ」
「それを『後で』とは言いません」
ユリウスが唇を噛む。
「母上は、君が危険な誤解をしていると言った。王家を守るために、いったん立場から外す必要があると」
「それを信じた?」
「信じたかった」
正直な答えだった。
十年前と同じ。
母を疑えば、自分の立場が揺らぐ。
だから、疑わなくて済む説明を選ぶ。
「婚約解消証書の告発理由が、あなたの署名した原案から差し替えられていたことは?」
「夜会で初めて見た」
「なのに止めなかった」
「止めれば、母上と公衆の面前で対立することになる」
「また王位ですか」
「リーゼロッテ」
「違いますか」
ユリウスは答えられなかった。
リーゼロッテは怒鳴りたいとは思わなかった。
むしろ、不思議なくらい静かだった。
かつて好きだった人。
将来を共にするはずだった人。
その人が、自分より何を大切にしていたかが、やっとはっきりしたからだ。
「今さら、なぜ話したのです」
ユリウスはしばらく窓の外を見た。
「君が戻ってきたから」
「それだけ?」
「母上が、父上の存命中に戴冠を進めている」
リーゼロッテは眉を寄せる。
「それを止めたいのですか」
「分からない」
「分からない?」
「王になるために、ずっと黙ってきた」
ユリウスの声は低い。
「なのに、その王位が母上の作った偽りの上にあるかもしれないと思い始めた」
ここでも、「かもしれない」。
彼はまだ断定できない。
それでいい。
リーゼロッテ自身も、法的原本をまだ見つけていない。
「だから私に何を望むのです」
ユリウスは彼女を見る。
「戻ってきてほしい」
予想していたはずなのに、リーゼロッテは一瞬、意味を測りかねた。
「どこへ?」
「僕の隣へ」
「すでにお断りしました」
「状況が違う」
「何が?」
「今度は、母上の言うとおりにするためじゃない」
ユリウスが一歩近づく。
「君が王太子妃になれば、契約を正せる。僕が即位するときも、君が認証すれば誰も疑わない」
リーゼロッテは彼を見つめた。
十年前の告白をした直後なのに。
彼はまだ分かっていない。
「今でも、君を王太子妃にできる」
その言葉で、すべてが揃った。
ユリウスは自分を悔いている。
母を疑っている。
過去の沈黙を恥じてもいる。
それでも、最後に差し出すものは王太子妃の地位。
リーゼロッテが欲しいかどうかではなく、自分の王位を正しく見せるための席。
「殿下」
呼び方だけは昔と同じだった。
「私が欲しいのではなく、自分を正しい王太子だと思える証人が欲しいのでしょう」
ユリウスの顔が強張った。
「違う」
「では、私が誓印視を持っていなくても同じことを言いましたか」
「それは」
「北境で何も成し遂げず、社交界から笑われたままでも?」
「リーゼロッテ」
「私があなたの王位を正しいと証明できなくても?」
答えはない。
リーゼロッテは頷いた。
「十分です」
「待ってくれ」
「お母様のことを話してくださったことには感謝します」
これは本心だった。
「今日の話は、あなたが殺害を直接知っていた証言としては扱いません。十年前に母と王妃殿下が争っていたこと、その数日後の事故をあなたが不自然に感じていたこと。それだけです」
ユリウスが苦しそうに笑う。
「相変わらず厳密だな」
「そうしないと、誰かの人生をまた都合よく書き換えることになります」
リーゼロッテは扉へ向かった。
「僕を許さないのか」
背中へ声が届く。
足を止める。
「許すかどうかと、あなたの隣へ戻るかどうかは別です」
振り返る。
「私は、あなたを罰するために戻らないのではありません」
ユリウスが黙る。
「私の人生を、もうあなたの正しさの証明に使わせないために戻らないのです」
扉を開ける。
廊下にはレオンハルトがいた。
壁にもたれず、椅子にも座らず。
ただ待っている。
リーゼロッテが出てくると、何も尋ねずに筆記板を差し出した。
『帰る?』
それだけだった。
何を話した。
何を選んだ。
答えを要求しない。
リーゼロッテは少しだけ笑った。
「はい」
並んで歩き出す。
後ろの扉は閉まった。
十年前、ユリウスは王位を失うことを恐れて沈黙を選んだ。
今度、彼が何を選ぶかは彼自身の責任だ。
リーゼロッテはもう、その選択のための証人にはならない。




