第3話 壊された馬車
王都を出て二日目の午後、馬車は乾いた破裂音とともに大きく傾いた。
「お嬢様!」
ミーナの声より先に、リーゼロッテの身体が横へ投げ出される。
肩が壁へぶつかる寸前、向かいに座っていたレオンハルトの腕が伸びた。彼は片手でリーゼロッテを支え、もう片方で窓枠を掴む。
馬が甲高くいなないた。
車輪が地面を削る音。
やがて馬車は斜めに止まった。
「ミーナ、大丈夫?」
「は、はい。膝を打っただけです」
リーゼロッテは息を整えた。
レオンハルトはすでに扉へ手をかけている。
外では御者が叫んでいた。
「旦那様! 右後ろの車軸が!」
地面へ降りる。
街道脇には、割れた木片と鉄の輪が散っていた。
車軸は中央ではなく、金具に近い部分から裂けている。
レオンハルトがしゃがみ込み、割れ口を指でなぞった。
後続の護衛馬から、背の高い男が降りる。
王都を出る際にはいなかった男だ。昨日の宿場で北境側の迎えとして合流し、それ以来、ほとんど口を開いていない。
「オスカー・ハルトマンです。北境公爵軍副官を務めております」
昨夜は名乗りだけだった。
改めて見ると、三十代ほど。濃い灰色の髪を短く刈り、こちらを測るような目をしている。
「怪我は」
「ありません」
「それは結構です」
返事は丁寧だが、温度はない。
オスカーはすぐに御者へ向き直った。
「この馬車は王都を出る前に整備したはずだな」
「はい。公爵家指定の工房で。右後輪の車軸は新品へ交換したと聞いております」
レオンハルトの目が細くなった。
リーゼロッテも割れた車軸を見る。
泥と油で汚れているだけではない。
木の表面に細かな乾燥割れがあり、鉄輪にも古い摩耗痕が残っていた。
「新品には見えません」
「私もそう思います」
オスカーが短く答える。
「整備記録は?」
御者が荷台の書類箱から綴りを取り出した。
一枚目は点検記録。
二枚目は交換部品の受領証。
リーゼロッテは両方を受け取った。
点検記録には、淡い銀の気配がある。
署名した整備主任が確認した内容と、今ここに書かれている文面は一致している。
ところが、受領証へ視線を移した瞬間。
赤い亀裂が走った。
紙そのものが裂けているわけではない。
リーゼロッテにだけ見える、細い赤。
署名欄から品名へ伸び、数量欄を横切っている。
「……書き換えられています」
オスカーの眉が動く。
「何がです」
「この受領証です」
文面にはこうある。
『点検済み旧部品一式を受領』
だが署名時に残された意思の痕跡は違う。
「署名した人が確認したのは『新品車軸一式』です。そのあとで品名が変えられています」
オスカーは受領証を覗き込んだ。
「私には普通の紙にしか見えません」
「それで正しいです。私の目に見えるだけです」
「では、それを証拠として整備工房を処罰することはできない」
鋭い言い方だった。
リーゼロッテは頷く。
「ええ。だから処罰しません。まだ」
オスカーがわずかに目を見開く。
「この受領証は王国契約石へ登録される文書ではありません。私が改竄を見つけても、それだけでは第三者には確認できない。商会側の控えと、工房の出庫記録を見ます」
レオンハルトが筆記板を出した。
『次の宿場に指定商会の支店がある』
「どのくらいですか」
『馬なら一刻。馬車は動かない』
オスカーが護衛へ指示を飛ばす。
予備の乗用馬が引き出された。
「私が行きます」
リーゼロッテが言うと、オスカーの顔が険しくなった。
「公爵夫人を事故直後に街道へ出すわけにはいきません」
「私が見なければ、どの文書を照合すべきか分かりません」
「こちらで受領証を持って――」
「その受領証だけを持っていけば、相手に証拠を隠す時間を与えます」
沈黙。
レオンハルトが筆記板へ書いた。
『私も行く』
「閣下まで」
『だから行く』
オスカーは露骨に不満そうな顔をしたが、反対を飲み込んだ。
結局、リーゼロッテとレオンハルト、オスカー、それに護衛二名が馬で宿場へ向かった。ミーナは故障した馬車に残り、荷物と御者を見ていることになった。
宿場町へ着くころには、空が薄く曇っていた。
指定商会の看板を掲げた小さな支店へ入る。
店主は北境公爵本人の姿を見て青ざめた。
「二日前、こちらの支店を経由した車軸について確認したいのです」
リーゼロッテが受領証を示す。
「同じ取引の控えを」
「も、もちろんでございます」
帳場の奥から綴りが出される。
商会控えには、はっきりと書かれていた。
『北境公爵家旅客馬車用、新品車軸一式』
数量一。
受領者の署名も一致する。
オスカーの目つきが変わった。
「工房の出庫帳は」
「当支店では保管しておりません。ですが、部品を出したのは町外れのハイル工房です」
すぐに工房へ向かう。
出庫帳にも、新品車軸一式。
しかも、その新品は確かに二日前、商会の荷車へ積まれていた。
では、どこで旧部品と入れ替わったのか。
工房主が唇を震わせながら言った。
「商会の荷車へ渡したところまでは、うちの職人が見ています。取り付けは王都から来た臨時整備員がやると……」
「名前は」
「書類には、ボルク商会から派遣と」
オスカーが商会名を聞き返した。
「王都の御用商会か」
リーゼロッテは受領証を見た。
王家の宴、式典、軍需の一部まで扱う大商会。
偶然にしては、王宮へ近すぎる。
だが、近いだけで王妃へ結びつけることはできない。
「臨時整備員の特徴は?」
「四十前後の男で、左の頬に古い傷がありました」
工房主が答えた、その直後。
外で馬が鳴いた。
続いて、何かが倒れる音。
レオンハルトが振り向く。
オスカーはすでに剣へ手をかけていた。
「裏口を!」
工房の裏へ回る。
革帽子を深く被った男が、馬へ飛び乗ろうとしている。
左頬に傷。
「止まれ!」
オスカーが叫ぶ。
男は振り向きざまに短剣を投げた。
レオンハルトがリーゼロッテを後ろへ押し、剣の鞘で短剣を弾く。
男が馬腹を蹴る。
だが、オスカーが横から馬の手綱を掴んだ。
馬が暴れ、男が地面へ落ちる。
立ち上がったところへレオンハルトが踏み込み、手首をひねり上げた。
短い。
あまりにも短い攻防だった。
男の腕が背へ回される。
オスカーが縄をかけた。
「何をしに来た」
「知らねえよ」
「では、なぜ逃げた」
「公爵軍に囲まれりゃ誰でも逃げる」
オスカーが無言で工房主を見る。
工房主は震えながら男を指さした。
「こ、この人です。車軸を取り付けた臨時整備員です」
男の顔から血の気が引いた。
リーゼロッテは問いかける。
「新品の車軸をどこへやりました」
「……売った」
「誰の指示で?」
「自分でやった」
「では、どうして受領証の文面を変える必要があったのですか。新品を横流ししただけなら、旧部品を受け取ったことに書き換えなければ帳簿が合わない。誰かが後から事故に見せるため、古い車軸を取り付けさせたのでは?」
男の喉が動く。
「知らない」
「ボルク商会から派遣されたのですね」
「……」
「あなたが本当に単独で横流ししたなら、商会の名を使う必要もない」
オスカーが低く言った。
「北境に着く前に、公爵夫人を殺すつもりだったのか」
男はしばらく黙っていた。
やがて、諦めたように顔を伏せた。
「……女を消せって言われただけだ」
リーゼロッテの指先が冷える。
「誰に」
「知らねえ。仲介だ。顔も見てない」
「命令の言葉は」
「北境に着く前に女を消せ。それだけだ」
王都を出て二日。
婚姻が成立した直後。
狙われる理由は、いくらでも思いつく。
婚約解消証書の改竄。
母の監査署名。
誓印視。
けれど、まだ一本には繋がらない。
レオンハルトが筆記板を取り出した。
力強い文字で書く。
『命じたのは――』
その先に、彼は一文字を書いた。
『王』
筆先が止まる。
首筋へ、黒い線が浮かんだ。
「レオンハルト様!」
昨日より早い。
黒い誓約紋が襟元から顎へ這い上がり、彼の指が震える。
それでも彼は次の文字を書こうとする。
オスカーが顔色を変えた。
「閣下、やめてください!」
その瞬間だった。
工房の隣にある北境南部前哨隊の詰所から、兵士が飛び込んできた。
「副官殿!」
「何だ」
「忠誠誓約台帳が――!」
オスカーの表情が凍る。
「持ってこい」
兵士が分厚い台帳を抱えてくる。
表紙には『南街道前哨隊 辺境忠誠誓約』。
閉じたままなのに、革表紙の中央が熱で変色していた。
オスカーが開く。
署名欄のある頁だけが、火に近づけたように熱を持っている。
だが焦げてはいない。
リーゼロッテは息を止めた。
レオンハルトの首の黒い紋。
そして、同じ瞬間に異常を起こした、別の契約台帳。
「触らないで」
リーゼロッテはレオンハルトの筆記板を伏せた。
「もう書かないでください」
彼は苦しげに目を閉じ、筆を離した。
ゆっくりと、首の紋が薄くなる。
台帳の熱も少しずつ引いていった。
偶然ではない。
リーゼロッテは台帳とレオンハルトを交互に見た。
「あなたが禁じられたことを伝えようとすると、罰があなた自身だけに来るのではない」
レオンハルトは答えない。
「別の契約へ流れている……?」
オスカーが険しい顔で台帳を見る。
「辺境忠誠誓約は、各部隊と村が公爵家へ忠誠を誓うためのものです。閣下個人の発言を縛る契約ではない」
「本来は、でしょう」
リーゼロッテは頁の端へ指を近づけた。
今はもう、ほとんど熱くない。
「でも、何かで繋がれている」
どうやって。
いつ。
誰が。
分からない。
ただ一つだけ分かった。
レオンハルトが十年間黙っていた理由は、彼自身の痛みではない。
彼が言葉を選ぶたび、その先に北境の誰かがいる。
リーゼロッテは台帳を閉じた。
王都から伸びているのは、暗殺者の手だけではなかった。
もっと古く、もっと深い何かが、北境そのものへ絡みついている。




