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婚約破棄された誓約鑑定令嬢は、沈黙の辺境公爵と偽りの王国を縫い直す  作者: 乾為天女


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第4話 空の穀物庫

 北境の城壁が見えたのは、空が雪の色へ変わり始めたころだった。


 高い山々を背に、灰色の石壁が長く続いている。


 王都の白い宮殿とは違う。


 飾りよりも厚さを優先した壁。風を避けるため小さく造られた窓。城門の左右には、冬支度を終えた薪が壁のように積み上げられている。


 リーゼロッテは馬上からそれを見つめた。


 ここが、これから自分が暮らす場所だ。


 そう考える暇は、城門をくぐってすぐに消えた。


 「……あれは?」


 門の内側に人が並んでいる。


 歓迎の列ではない。


 籠や布袋を抱えた女たち。背中を丸めた老人。母親の外套へ顔を埋めている子供。


 誰もこちらへ花を投げない。


 視線だけが、新しく来た公爵夫人へ向いた。


 期待よりも、警戒に近い。


 列の前方では、配られた小麦をその場で量り直している女がいた。袋を抱えたまま何度も秤の皿を見る。隣の老人は、自分の分からほんの一握りを小さな布袋へ移し、連れている子供へ持たせた。


 王都の食卓なら、焼き上がりが気に入らないという理由だけで下げられるパンがあった。


 ここでは、その一握りを誰に食べさせるかを決めている。


 リーゼロッテは無意識に手綱を握り直した。


 これから見る帳簿の一行一行は、ただの数字ではない。


 今日、誰が食べられるかという記録なのだ。


 ミーナが小さな声で言った。


 「配給待ち、でしょうか」


 列の先には、大きな石造りの倉庫があった。


 扉の横に黒板が立っている。


 『本日の小麦配給 半量』


 その下には昨日の日付。


 『本日の小麦配給 三分の二』


 さらに、その前の日。


 『通常量』


 三日続けて減っている。


 レオンハルトも黒板を見た。


 彼の顔は動かなかった。


 だが、手綱を握る指だけが強く締まる。


 城へ入る予定だった一行は、そのまま倉庫前で止まった。


 オスカーが馬を降りる。


 「管理責任者を」


 呼ばれてきた男は、顔面を蒼白にしていた。


 「閣下。お戻りをお待ちしておりました」


 レオンハルトが筆記板へ書く。


 『在庫を見せろ』


 「はい」


 倉庫の大扉が開く。


 冷たい空気が流れ出した。


 リーゼロッテは中へ入って、足を止めた。


 「……これだけ?」


 広い。


 天井まで届く梁。


 本来なら麻袋が幾列にも積まれているはずの棚。


 しかし今、残っているのは壁際の一角だけだった。


 袋と袋の間には、大人が横になれるほどの隙間がある。


 鼠に食い荒らされたわけではない。


 床には大量の穀物を置いていた跡だけが残り、袋そのものが消えている。


 倉庫管理人が目を伏せた。


 「今朝の時点で、城下への通常配給を続けられる量ではありません」


 「購入していなかったのですか」


 「いいえ!」


 男は慌てて首を振った。


 「冬越し分は例年どおり手配しました。購入代金も公爵家の会計から支払い済みです」


 「では、どこにあるのです」


 答えはすぐには返らなかった。


 オスカーが低く言う。


 「王都へ送られた」


 リーゼロッテは彼を見る。


 「王都へ?」


 「摂政命令による非常時供出です」


 「非常時」


 「王都周辺の備蓄不足を理由に、北境を含む穀倉保有領へ供出命令が出ています」


 北境は穀倉地帯ではない。


 寒冷な土地だ。


 冬を越すため、足りない穀物を秋のうちに他領から買う。


 その購入済みの小麦を、さらに王都へ送ったというのか。


 「帳簿を見せてください」


 倉庫管理人が一瞬、オスカーを見る。


 オスカーの表情は固い。


 「公爵家の会計記録です。昨日まで王都にいた方へ見せる必要があるのですか」


 牽制だった。


 リーゼロッテにも分かった。


 北境への道中で捕らえた暗殺者。


 王都から来た新妻。


 オスカーが自分を完全に信用していないことも。


 「必要があります」


 リーゼロッテは答えた。


 「私が王都から来たからこそです。王都へ送ったと言うなら、何を根拠に、どれだけ送ったのか確認したい」


 「夫人は到着したばかりです」


 「だから、知らないまま口を出すつもりはありません。まず数字を見ます」


 オスカーは黙った。


 レオンハルトが筆記板へ一言だけ書いた。


 『見せろ』


 それで決まった。


 城の会計室へ移る。


 机には、冬季購入帳、倉庫入出庫帳、村別配給台帳が積まれた。


 リーゼロッテは外套も脱がずに椅子へ座る。


 ミーナが隣へ紙を広げた。


 「お嬢様、計算用の紙です」


 「ありがとう」


 まず購入量。


 支払済み。


 納入記録もある。


 ここまでは問題ない。


 次に出庫。


 王都向け輸送。


 一度ではない。


 何度も。


 行を追うほど、残量が減っていく。


 「七割……」


 リーゼロッテは呟いた。


 秋に購入した小麦の、およそ七割。


 北境へ一度納入されたあと、別の命令によって王都へ送り直されている。


 「この契約書を」


 会計官が一冊の綴りを差し出した。


 表題は『非常時供出契約』。


 根拠欄には、摂政府の命令番号。


 王国契約石への登録対象ではない日常行政契約だが、誓印視そのものは働く。


 赤い亀裂はなく、署名欄には成立時の意思と本文が一致する銀の気配がある。


 「偽造ではない……」


 「当然です」


 会計官が苦々しく言った。


 「正式な摂政命令です。我々も何度確認したことか」


 契約本文には、各領が保有する備蓄の一定割合を王都へ供出する義務が書かれている。


 さらに、摂政府が指定した量は領主判断で停止できない、とある。


 「でも、北境のこれは余剰備蓄ではありません」


 リーゼロッテは入庫帳を指す。


 「越冬用として購入した分です」


 「摂政府からは『領内に存在する備蓄』と解釈するよう通達されています」


 「その解釈では、冬を越すために買った小麦まで持っていける」


 「持っていかれました」


 会計官の声には怒りより疲労があった。


 リーゼロッテは配給台帳へ移る。


 城下。


 村落。


 軍の駐屯地。


 救貧院。


 毎日の最低配給量が記録されている。


 手元の紙へ数字を書き写す。


 残在庫。


 輸送中で、北境へ戻る予定の小麦。


 それはゼロ。


 次回購入分。


 まだ契約段階で、到着は間に合わない。


 現在の配給量を維持した場合。


 リーゼロッテの筆が止まった。


 「三日です」


 室内が静まる。


 「何がです」


 オスカーが聞く。


 「今の半量配給を続けても、三日後には最初の配給所が止まります」


 会計官が顔を上げた。


 「三日……?」


 「城下だけで計算してはいけません。軍への最低配給と、雪で孤立しやすい地域へ先に送る分が確保されています。この予約分を差し引けば、自由に動かせる小麦はもっと少ない」


 リーゼロッテは紙を回した。


 「全員を同時に飢えさせないために、遠い場所へ先に回す決まりになっている。だから最初に止まるのは城に近い配給所です」


 会計官が自分でも計算を始めた。


 やがて、顔色が変わる。


 「……三日だ」


 ミーナが息を呑んだ。


 「外に並んでいた人たちは?」


 「明日はさらに減らすしかありません」


 倉庫管理人の答えは小さかった。


 「子供や病人へ優先して回せば、成人への配給は――」


 その先を聞く必要はなかった。


 リーゼロッテは非常時供出契約へ視線を戻す。


 「次の王都向け輸送はいつですか」


 「明朝です」


 オスカーが答える。


 「残りから、さらに?」


 「契約上の割当がまだ残っている」


 「止めましょう」


 言葉が自然に出た。


 会計官が目を見開く。


 オスカーの表情はさらに険しくなる。


 「簡単に言わないでいただきたい」


 「簡単に言っていません。明朝の輸送を止めなければ、三日より早く配給不能になります」


 「摂政府との契約です」


 「契約が人を飢えさせるなら、少なくとも停止できる条項がないか確認するべきです」


 「王都へ逆らえば、今度は北境そのものが反逆領とされる」


 重い言葉だった。


 部屋にいた者たちの視線が一斉にレオンハルトへ向く。


 反逆領。


 その言葉に、リーゼロッテは馬車襲撃の際に熱を帯びた忠誠誓約台帳を思い出した。


 レオンハルトが禁じられた情報を書こうとした瞬間、熱を帯びた台帳。


 北境の人々を人質にするような契約。


 彼らが王都を恐れるのは、臆病だからではない。


 何かを知っている。


 あるいは、過去に実際に脅されたことがある。


 「では、何もしないのですか」


 リーゼロッテはオスカーに尋ねた。


 「そうは言っていない」


 「明日の馬車を出せば、小麦は減ります」


 「出さなければ摂政命令違反だ」


 「どちらを選んでも危険なら、少なくとも領民が生きるほうを選ぶべきでしょう」


 「王都で暮らしてきたあなたに、北境が反逆と見なされる重さが分かるのですか」


 鋭い声だった。


 ミーナが何か言いかける。


 リーゼロッテは手で制した。


 腹は立った。


 けれど、オスカーの警戒には理由がある。


 正しい数字を示した。


 それだけで、この人が納得すると思っていた自分にも気づく。


 帳簿が示す三日は事実だ。


 しかし家臣たちは、別の恐怖も計算している。


 「……全部は分かりません」


 リーゼロッテは言った。


 「私は今日、ここへ着いたばかりですから」


 オスカーが黙る。


 「だから教えてください。非常時供出契約を止めるには、何が必要ですか」


 会計官が契約書をめくった。


 「領主による緊急停止申請です。ただし、公爵家内部で停止を決めるだけでは効力がありません。契約裁判所へ理由を提出し、暫定判断を受ける必要があります」


 「申請は今夜作れます」


 「それだけでは足りません」


 「何が?」


 会計官の視線が、レオンハルトへ移った。


 そして、低く答える。


 「領主印です」


 リーゼロッテもレオンハルトを見る。


 彼は何も書かない。


 領主印。


 それは単なる印章ではない。


 領地の財産と行政に、領主本人が責任を負うことを示すもの。


 王都から来たばかりの妻が、軽々しく触れていいものではない。


 窓の外では、雪が降り始めていた。


 三日後。


 最初の配給所が止まる。


 そして明朝には、また小麦を積んだ馬車が王都へ向かう。


 リーゼロッテは非常時供出契約と、残在庫を書いた紙を重ねた。


 止める方法はある。


 だが、そのためには。


 北境公爵の領主印が必要だった。


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