第2話 声を持たない求婚者
母の名が、十年の時を越えて銀色に光っている。
リーゼロッテはしばらく、婚姻契約書の末尾から目を離せなかった。
『グラーツ公爵家標準婚姻契約書式を照合済み』
エレオノーラ・エーヴァルト。
筆跡まで記憶にある。
幼いころ、薬を飲みたくないと駄々をこねた自分へ、母が「飲めたら庭へ行きましょう」と書いてくれた短い手紙。誕生日に贈られた本の見返し。どれも同じ、わずかに右へ傾く文字だった。
見間違えるはずがない。
「……どうして、お母様の署名が」
問いは、答えを得ないまま宙へ落ちた。
レオンハルトは筆記板を持ったまま、リーゼロッテを見ていた。
王妃付きの文官が咳払いをする。
「エーヴァルト公爵令嬢。確認は後でもできます。まず婚姻契約を成立させていただかなければ、身柄引受は認められません」
急かす声に、リーゼロッテは契約書を閉じなかった。
「後ではありません。今、確認します」
「しかし――」
「私は反逆容疑で拘束された直後です。その釈放条件として婚姻を求められています。内容を確認せず署名するほうが、契約制度への侮辱でしょう」
文官が口をつぐむ。
レオンハルトは何も書かない。
急かしもしない。
リーゼロッテは一枚目へ戻った。
王宮の大広間から続く小応接室には、先ほどまでの音楽が壁越しにかすかに届いていた。扉の外には衛兵が二人。室内には王妃側の文官と、公証役を務める契約官。それにレオンハルト。
逃げ道があるとは言い難い。
けれど少なくとも、この紙へ署名する右手だけは自分のものだった。
第一条。婚姻後の家名。
第二条。居住地。
第三条。双方が婚姻前から所有する財産。
リーゼロッテは一条ずつ読む。
読み飛ばさない。
婚姻前に所有していた財産は、結婚後も各自の固有財産として保持される。妻名義の預金、宝飾品、母から相続した蔵書、父から残された小規模な地代収入も、夫の許可なく処分されない。
そこで指を止めた。
「契約官。この条項はグラーツ公爵家の標準ですか」
「はい」
「王都の高位貴族家では、妻の財産管理権を夫へ移す書式が多いはずですが」
契約官は少し困ったようにレオンハルトを見る。
レオンハルトが筆記板へ書いた。
『北境では、冬を越す間に夫が死ぬこともある』
短い。
リーゼロッテは続きを待った。
彼はもう一行書く。
『誰かが死ぬたび、残された者が自分の財産を取り戻すため裁判をするのは無駄だ』
「……合理的なのですね」
レオンハルトがわずかに眉を動かした。
それが肯定なのか、別の感情なのかは分からない。
第四条。居室。
妻には公爵城内で独立した居室と執務室が与えられる。夫は緊急時を除き、本人の許可なく立ち入らない。
第五条。使用人。
妻は自らの侍女を置くことができる。
リーゼロッテはそこで、扉の外に待たされているミーナを思い出した。
「私の侍女も北境へ同行できますか」
レオンハルトはすぐに書く。
『本人が望むなら』
「彼女の給金は?」
『これまでの額を確認し、不利益が出ないよう公爵家から支払う』
王妃付きの文官が小さく鼻を鳴らした。
「ずいぶん細かなことまで気になさいますね」
リーゼロッテは視線だけを向けた。
「人の生活に関わることを、細かなことだとは思いません」
文官は黙った。
第六条。
夫婦双方は家政、領地経営、財産処分について意見を述べる権利を持つ。
妻は、夫の命令に無条件で従う義務を負わない。
リーゼロッテは二度読んだ。
そして三度目に、文字の上を指でなぞった。
「……服従条項がない」
王都では珍しいどころではない。
政略婚であれば、妻が夫の家へ入り、その家の秩序へ従う旨が何らかの形で入る。露骨に「服従」と書かなくても、家政命令権や居住決定権を夫へ集中させるのが普通だ。
だが、この契約にはそれがない。
「あなたは、私に何をさせたいのですか」
リーゼロッテは正面から尋ねた。
レオンハルトはすぐには書かなかった。
淡い目が、契約書へ落ちる。
やがて筆が動く。
『何も』
「何も?」
『契約に書かれていないことを、婚姻を理由に命じるつもりはない』
嘘には見えない。
少なくとも、この婚姻契約そのものには赤い亀裂も、黒い歪みもない。
まだ二人とも署名していないから、成立した契約としての色はない。ただ、標準書式に残る過去の監査記録は銀色だ。
母は、この書式を真正なものとして確認している。
それが逆に、分からなかった。
母は王国契約石の照合官だった。
王家や大公家の重要契約を扱うことはあっても、なぜ遠い北境公爵家の婚姻書式を監査したのか。
十年前。
母が死んだ年だ。
胸の奥に、冷たいものが落ちた。
「一つ確認します」
リーゼロッテはレオンハルトを見た。
「この結婚を断った場合、どうなりますか」
今度は王妃付きの文官が答えた。
「グラーツ公爵家による身柄引受の根拠が失われますので、先ほどの拘束へ戻ります。王家の調査が終わるまで、王宮内の留置区画でお過ごしいただくことになります」
「期間は?」
「調査次第です」
つまり、決まっていない。
リーゼロッテは息を吐いた。
地下牢ではないにしても、王妃の管理下へ戻れば、照会申請も婚約解消証書もどう扱われるか分からない。
この婚姻が完全に自由な条件で提示されているとは言えない。
しかし、だからといってレオンハルトが自分へ服従を強要しているわけでもない。
選択肢は狭められている。
狭めたのは王妃だ。
その中で、どちらへ進むかを決めるのは自分だ。
「レオンハルト様」
初めて、名を呼んだ。
彼の視線が上がる。
「私は、あなたに感謝するために結婚するつもりはありません」
契約官が目を丸くした。
王妃付きの文官は呆れた顔をした。
だがレオンハルトだけは、静かに続きを待った。
「恩を返すために妻になるのでもありません。北境へ行ってから、あなたの期待どおりに振る舞う保証もできません。契約や領地のことで、おかしいと思えば意見を言います」
筆が動く。
『そのための第五条と第六条だ』
「第五条は侍女です」
レオンハルトの手が止まった。
数秒の沈黙。
彼は契約書を見直し、筆記板の文字を一本線で消した。
『第六条だ』
リーゼロッテは思わず、ほんの少しだけ笑った。
この夜、初めてだった。
「分かりました」
もう一度、最初から最後まで読む。
財産。
居室。
発言権。
離縁時の財産返還。
犯罪行為への加担義務なし。
双方の身体を害する命令は無効。
不自然な空欄も、後から文章を足せる余白もない。
最後に、母の監査署名を見る。
分からないことは残っている。
けれど、分からないからこそ、王宮に留まって証拠を奪われるより、母が十年前に関わった北境へ行くほうがいい。
「署名します」
契約官が羽根ペンを差し出した。
「ご意思に相違ありませんか」
「ありません」
リーゼロッテは自分の名を書く。
リーゼロッテ・エーヴァルト。
続いてレオンハルトが署名した。
その瞬間、二人の署名へ淡い銀色が宿る。
黒くない。
少なくとも彼も、誰かに腕を取られて署名させられているわけではない。
契約官が二人分の署名を確認し、封蝋を置いた。
「婚姻契約の成立を確認します」
王妃付きの文官が衛兵へ頷く。
「リーゼロッテ・グラーツ公爵夫人の拘束は、北境公爵家の身柄引受へ移行します」
呼び名が変わった。
あまりにも早く。
朝には王太子妃候補だった。
夜には婚約を破棄され、反逆容疑を着せられ、今は北境公爵夫人だ。
人生とは、契約書数枚でここまで形を変えるものなのか。
扉が開き、ミーナが飛び込んできた。
「お嬢様!」
「ミーナ。私は大丈夫です」
「大丈夫な顔ではありません!」
「そうね」
否定できず、リーゼロッテは苦笑した。
ミーナの目が赤い。
自分より先に泣いてくれる人がいることを、今はありがたいと思った。
「北境へ行くことになったわ。あなたは残ってもいいのよ」
「行きます」
即答だった。
「まだ何も説明していないけれど」
「説明は道中で聞きます」
レオンハルトが筆記板へ何か書き、ミーナへ見せた。
『明朝出発する。侍女用の馬車を用意する』
「……ありがとうございます、公爵様」
ミーナが深く頭を下げた。
そのとき、リーゼロッテは気づいた。
レオンハルトは、ここまで一度も声を出していない。
夜会だから寡黙なのだと思っていた。
あるいは、王妃と話したくないのだと。
だが、契約官への確認も、ミーナへの連絡も、すべて筆談だ。
「レオンハルト様」
彼が振り向く。
リーゼロッテは婚姻契約書を持ち上げ、末尾の監査欄を示した。
「これを、もう一度聞かせてください」
母の署名。
「なぜ十年前、お母様はグラーツ公爵家の婚姻契約書式を監査したのですか」
レオンハルトの顔から、わずかな柔らかさが消えた。
長い沈黙のあと、彼は筆記板へ書く。
『十年前』
「それは署名の日付を見れば分かります」
彼は頷いた。
そして、その下へ新しい文字を書こうとした。
『エレオノーラは――』
筆先が止まった。
黒いものが、彼の襟元から這い上がった。
「……!」
リーゼロッテは息を呑んだ。
皮膚の下を走る血管ではない。
インクを流し込んだような黒い線が、首筋を締めつける輪になって浮かぶ。
レオンハルトの指が強く筆を握った。
それでも書こうとする。
黒い紋が脈打った。
同時に、彼の呼吸が詰まる。
「やめてください!」
リーゼロッテは反射的に彼の手首を掴んだ。
筆先が紙から離れる。
数秒遅れて、黒い線がゆっくりと薄くなった。
ミーナも契約官も、言葉を失っている。
レオンハルトは苦しそうに一度息を吐き、それから何事もなかったように筆記板を伏せた。
リーゼロッテは彼の首元を見つめた。
黒。
強制された契約に現れる色。
しかも、特定の内容を書こうとした瞬間に発動した。
今まで彼は、答えなかったのではない。
母のことを知らないわけでもない。
知っている。
知っていて――。
「あなたは」
リーゼロッテは、声を落とした。
「黙っているのではなく、話せないのですね」
レオンハルトは答えなかった。
答えられなかった。




