第1話 赤くひび割れた婚約証書
王宮の大広間では、金の燭台に並ぶ蝋燭が、昼よりも明るく磨かれた床を照らしていた。
楽団が奏でる舞曲も、グラスの触れ合う音も、今夜だけは妙に遠い。
「リーゼロッテ・エーヴァルト。君との婚約を、ここに破棄する」
王太子ユリウスの声だけが、広間の中央をまっすぐに切った。
リーゼロッテは瞬きを一つした。
広間の視線が一斉に集まる。
同情を装う者。好奇心を隠さない者。すでに次の王太子妃候補を計算している者。
リーゼロッテは背筋を伸ばした。
ここで泣けば「罪を認めて取り乱した」と言われる。怒鳴れば「王家へ刃向かった」と言われる。沈黙すれば、王妃が用意した筋書きだけが真実として残る。
ならば、確認できる事実だけを口にする。
驚かなかったわけではない。
だが、悲鳴を上げるより先に、数日前に見た書類の束が脳裏へ浮かんだ。
王太子妃教育の一環として閲覧を許された婚姻承認、持参財産、相続承認。用途も当事者も異なる複数の契約に、同じ「摂政特別承認番号」が記されていた。
本来、一つの登録番号が別の契約へ使い回されることはない。
だから規定どおり、契約裁判所へ原登録の照会申請を出した。
ただ、それだけだった。
数日前、照会申請を書いたときにも同じ感覚があった。
一つの契約だけなら、書記官の転記ミスかもしれない。
二つなら、偶然を疑う余地もあった。
けれど三つ、四つと用途の違う文書へ同じ番号が現れれば、確認せずに見過ごすほうが職務に反する。
王太子妃になれば、いずれ国政に関わる。
だからこそ教えられてきたはずだった。契約は身分の高い者ほど厳密に守らなければならない、と。
「理由を伺っても?」
声を震わせずに尋ねると、ユリウスは一瞬だけ視線をそらした。
その横で、摂政ヴァレリア王妃が微笑んでいる。
黒檀色の扇を閉じる仕草まで優雅だった。
「理由なら、すでに明らかでしょう」
王妃の合図で、文官が一通の書面を差し出した。
「あなたは王太子妃候補という立場を利用し、閲覧権限のない王家の契約文書を盗み見た。さらに、その内容を外部へ照会しようとした。王家の機密を探る行為は看過できません」
「閲覧権限のない文書ではありません」
リーゼロッテは即答した。
「王太子妃教育の教材として正式に閲覧許可が出ていました。契約裁判所への照会も、登録番号に重複の疑いがある場合の規定に従ったものです」
ざわめきが広がった。
ヴァレリアの笑みは崩れない。
「あなた自身は、そう解釈しているのでしょうね」
文官がさらに一枚を掲げる。
「こちらが、王太子殿下との婚約解消証書です。殿下はすでに署名を終えておられます」
リーゼロッテの胸が、そこで初めて強く鳴った。
婚約破棄そのものではない。
紙面に、赤い亀裂が走っていた。
誰の目にも見えない。
リーゼロッテにだけ見える、署名後に文言を差し替えた契約の傷だった。
誓印視。
母から受け継いだこの目は、真正な文書に銀の静かな光を、強制された契約に黒い歪みを、署名後に書き換えられた文書に赤い亀裂を映す。
婚約解消証書のユリウスの署名そのものは銀色だった。
しかし、その上に並ぶ告発理由と財産処分の条項は、細かな赤い裂け目に覆われている。
ユリウスは、現在の文面へ署名していない。
「殿下」
リーゼロッテは証書から目を上げた。
「この書面へ署名なさったとき、私が王家の機密を盗み見たという条項はありましたか」
「何を――」
ユリウスの顔から血の気が引いた。
ユリウスの指先がわずかに震えた。
それを見て、リーゼロッテの胸の奥に鈍い痛みが落ちた。
彼が自分を愛していたかどうかは、今はどうでもいい。
だが少なくとも、彼はこの紙に何が書かれているのかを知っている。知っていて黙るのか、知らされずに利用されているのか。
どちらにしても、王太子の隣に立ち続ける未来は、さきほどまで考えていたものとはもう違って見えた。
答えより早く、王妃が口を挟む。
「見苦しいですよ、リーゼロッテ」
「では、原本照合をお願いします」
広間が静まった。
リーゼロッテは文官へ向き直る。
「これは王族の婚姻に関する登録契約です。王国契約石の登録控えと、殿下が署名した時点の原本を照合すれば済みます。私の言葉を信じる必要はありません」
誓印視だけでは証拠にならない。
それをリーゼロッテ自身が一番よく知っている。
だからこそ、証拠を出せと言った。
ヴァレリアの扇が、ぱちりと閉じた。
「その要求こそ、あなたが王家の契約制度へ不当に介入しようとしている証拠ではなくて?」
「登録契約の照合を契約裁判所へ求めることが、反逆になる法律は存じません」
一瞬。
王妃の目から、笑みだけが消えた。
「――衛兵」
甲冑の音がした。
左右から二人の衛兵が進み出る。
リーゼロッテの背後で、侍女のミーナが息を呑んだ。
「リーゼロッテ・エーヴァルトを拘束なさい。王家の機密文書に対する不正閲覧、および国家契約制度への干渉について、正式に調べます」
「お待ちください!」
ミーナが声を上げたが、リーゼロッテは振り返って小さく首を振った。
ここで侍女まで捕らえられては意味がない。
冷たい金具が手首へ触れる。
金属が閉じる小さな音が、楽団の止まった広間では妙にはっきり聞こえた。
王太子妃候補として何年も歩いた場所なのに、衛兵に両側を挟まれただけで、同じ床がまるで別の場所に見える。
それでもリーゼロッテは俯かなかった。
ここで失うのは立場かもしれない。だが、確認すべき契約まで「なかったこと」にさせるつもりはない。
周囲の貴族たちは、誰一人として前へ出なかった。
当然だった。
リーゼロッテは「エーヴァルト公爵令嬢」と呼ばれているが、現在のエーヴァルト公爵の娘ではない。
母は九歳のときに亡くなった。
父である先代公爵も、五年前に病没している。
爵位は傍系へ移った。
成人したリーゼロッテには自分名義の財産こそあるが、領軍も、公爵当主として王家へ対抗する権限もない。王太子との婚約後は王家の被後見人として宮廷で教育され、そのまま王太子妃候補としてここに暮らしてきた。
今夜、彼女のために兵を動かせる「実家」は存在しない。
ならば、自分で道を作るしかない。
「拘束には従います」
リーゼロッテは衛兵へ手を差し出した。
「ただし、婚約解消証書と私が提出した原登録照会申請書を、同じ証拠として保全してください。後者だけ紛失すれば、それ自体が――」
ざわ、と人波が揺れた。
誰かが前へ出たのだ。
大柄な男だった。
レオンハルトが一歩進むと、衛兵たちは反射的に道を空けた。
北境を預かる公爵の名は、王都の華やかな噂話より、冬の国境線と結びついている。王宮で笑顔を振りまく男ではない。だからこそ、その彼が夜会の中央へ割って入ったこと自体が異様だった。
しかも、誰かの許可を請うような顔ではなかった。
黒に近い灰色の正装。華美な勲章も宝石もない。肩へかかる暗い髪と、冬の湖のような淡い目。
北境公爵レオンハルト・グラーツ。
王宮で彼の姿を見かけることは少ない。
見かけたとしても、その声を聞いた者はさらに少なかった。
レオンハルトは王妃にもユリウスにも礼を述べなかった。
懐から小さな筆記板を取り出し、短く何かを書いた。
そして、広間中から読めるように掲げた。
『エーヴァルト公爵令嬢を、北境公爵家の妻として引き取る』
「……は?」
間の抜けた声が出たのは、リーゼロッテだった。
この夜初めて、完全に予想を外された。
ヴァレリアの眉がわずかに上がる。
「グラーツ公爵。これは王家の調査です」
レオンハルトは別の紙へ書く。
『正式裁判前の高位貴族について、同格以上の家が身柄と出廷責任を引き受けることは認められている』
また書く。
『婚姻成立後、彼女はグラーツ公爵家の一員となる。出廷要請には私が責任を負う』
リーゼロッテは彼を見つめた。
面識がないわけではない。
夜会で何度か遠目に見たことはある。
だが、まともに言葉を交わした記憶は一度もない。
それなのに、なぜ。
「私は、あなたに助けを求めていません」
思わず言うと、レオンハルトの淡い目がこちらを向いた。
怒りもしない。
憐れみもしない。
ただ筆を動かす。
『だから、選べばいい』
その一文に、リーゼロッテは息を止めた。
救ってやる、ではない。
従え、でもない。
選べ。
今夜、彼女の周囲から奪われ続けていたものを、見知らぬ公爵だけが返してきた。
王妃はしばらくレオンハルトを見つめていた。
やがて、再び優雅な微笑を作る。
「よろしいでしょう。グラーツ公爵家がそこまで責任を負うというなら、婚姻契約の成立を条件に身柄引受を認めます」
あまりにも簡単な許可だった。
リーゼロッテの背筋を、別の冷たさが這った。
王妃が自分を手放すはずがない。
王都から遠ざけることに、何か利点があるのだ。
それでも、地下牢へ入れられ、証拠を消されるよりは選択肢がある。
「契約書を」
リーゼロッテは言った。
「署名するかどうかは、全文を読んでから決めます」
レオンハルトは、ごく小さく頷いた。
しばらくして、王宮付きの文官が婚姻契約書を運んできた。
グラーツ公爵家の標準書式だという。
リーゼロッテは拘束具を外された片手で紙を受け取り、最初の行から目を走らせる。
銀。
銀。
まだ署名前の空欄。
不自然な赤はない。
そのまま末尾までめくり――指が止まった。
現在の契約の署名欄ではない。
標準書式そのものが過去に照合を受けたことを示す監査欄。
十年前の日付。
『グラーツ公爵家標準婚姻契約書式を照合済み』
その下に記された名を、リーゼロッテは忘れるはずがなかった。
エレオノーラ・エーヴァルト。
亡き母の署名が、静かな銀色に光っていた。




